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日本の通信技術者 ウィキペディアから
小池 勇二郎(こいけ ゆうじろう、1908年〈明治41年〉5月20日 - 1977年〈昭和52年〉12月7日)は、日本の通信技術者、通信工学者、電気工学者、電子工学者。工学博士。松下電器産業東京研究所所長、松下電器産業中央研究所所長、松下電器東京研究所取締役社長、松下技研株式会社取締役社長、電気通信学会副会長、テレビジョン学会名誉会員、東北大学名誉教授などを務めた。
新潟県中蒲原郡茨曽根村大字茨曽根(現在の新潟市南区茨曽根)出身[注 1]。1925年(大正14年)3月に新潟中学校を4年で修了した。1928年(昭和3年)3月に新潟高等学校を卒業した。1931年(昭和6年)3月に東北帝国大学工学部電気工学科を卒業した[1]。
1931年(昭和6年)5月に日本放送協会に入局し、仙台放送局に配属された。その後、日本放送協会本部技術局に異動し、送信用の大出力真空管を開発した[2]、日本放送協会東京大電力放送所を設計[3][注 2]、π型回路の簡易な設計法を発表[4][注 3]。
1941年(昭和16年)3月に東北帝国大学工学部助教授に就任した。1942年(昭和17年)に大日本帝国陸軍がシンガポールを占領した際に入手した、イギリス軍の対空射撃レーダーに関する書類『ニユーマン文書』を日本語に翻訳した[7][注 4]。
1943年(昭和18年)に陸軍技術研究所のレーダー開発で、岡本正彦陸軍技術少佐[注 5]、東京芝浦電気の濱田成徳と西堀栄三郎、日本ビクター[注 6]、東北帝国大学の抜山平一と宇田新太郎[注 7]たちと協力し、レーダーの送信機の基本設計を担当した[8]。
1944年(昭和19年)4月に東北帝国大学電気通信研究所教授に就任し、東北大学電気通信研究所助教授の西澤潤一[注 8]に「大学の外に半導体研究拠点を設立して、ノーベル賞を取れるような研究をしろ」と勧め、半導体研究所の設立を応援した[1][9]。
1954年(昭和29年)にアメリカのスタンフォード大学に客員教授として招聘され[3]、スタンフォード研究所を視察し、東北大学に電子工学科を創設することを決意し[10]、1958年(昭和33年)4月に電子工学科を設置した[1][2][11]。
1962年(昭和37年)4月に松下電器産業取締役社長の松下幸之助の懇望で松下電器産業東京研究所所長に就任し[1][2][3]、名古屋大学工学部電子工学科講師の赤﨑勇[注 9]を松下電器産業東京研究所研究室室長として招聘した[12][13][注 10]。
1963年(昭和38年)1月に株式会社松下電器東京研究所[注 11]取締役社長に就任[注 12]、1965年(昭和40年)12月に松下電器産業中央研究所所長に就任し[注 13]、1971年(昭和46年)2月に松下技研株式会社[注 14]取締役社長に就任した。
1977年(昭和52年)12月7日午後3時40分に東京都町田市の自宅で心臓衰弱のため死去した[15]。
電子管工学の研究に従事し、大出力送信管の設計手法を完成させた[16]。
松下幸之助、松下正治、中尾哲二郎[注 15]、城阪俊吉[注 16]たちとともに松下電器産業の技術の柱となり、松下電器産業の技術開発研究の将来のあり方に示唆を与え、若々しいエネルギーをつぎ込んだ[17][注 17][注 18]。
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