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阿倍王子神社(あべおうじじんじゃ)は、大阪市阿倍野区にある神社。かつては阿倍王子(あべのおうじ)といい熊野神社の分霊社である九十九王子の一つであった。
『摂州東成郡阿倍権現縁記』によれば、仁徳天皇の夢の中に熊野三山の使いである3つの足の烏が現れ、仁徳天皇がそれを捜させると、同じものが当地(阿倍島という島があったとされる)にいたので、現所在地に神社を創建した。これとは別に、難波長柄豊碕宮に遷都して以来、この地域を本拠地としていた古代豪族の阿倍氏が氏寺である「阿倍寺」とともに、氏神として「阿倍社」を建立したという説もある。
阿部寺千軒坊ともいわれた阿倍寺だったが、後には四天王寺に併合されてしまった。辛うじて残っていた阿倍社は平安時代天長3年(826年)に空海によって再興され、神宮寺は淳和天皇より、疫病を治癒する寺という意味の「痾免寺」(あめんでら)の勅額を賜っている。
当地は四天王寺と住吉大社のほぼ中間の位置にあり、熊野参詣の街道・熊野街道筋に当たることから、やがて当社に王子社が祀られるようになった。それが九十九王子の一つ「阿倍王子」として、後鳥羽天皇が熊野御幸を行った平安時代後期には、窪津王子(大阪市中央区)、坂口王子(同)、郡戸王子(同)に次ぐ4番目の王子となっていた(「後鳥羽院熊野御幸記」)。後に郡戸王子と当王子の間に上野王子(天王寺区)が設置され、5番目の王子となるが、戦国時代の戦乱により途中の坂口、郡戸、上野の各王子が焼失。安土桃山時代には2番目の王子となっている。
現在、大阪府内の九十九王子で唯一、旧地に現存している王子である。
安倍晴明神社(あべせいめいじんじゃ)は、阿倍王子神社の北方約50mに鎮座する阿倍王子神社の境外社(飛び地境内社・末社)。
社伝「晴明宮御社伝書」によると、祭神の安倍晴明は944年(天慶7年)にこの地で生まれたと伝えられており、創建は寛弘4年(1007年)で、花山法皇の命によるとされる。
代々晴明の子孫と称する保田家が社家として奉仕し、江戸時代には代々大坂城代が参拝にくるほど有力な神社であったが、幕末には衰微し、明治時代には小さな祠と下記にある石碑のみになってしまったという。
しかし、阿倍王子神社の宮司である長谷川靖高は、「晴明宮御社伝書」は保田家で創作された偽書であり、「泉州信田白狐伝」を参考に作成されたものだと指摘している。[1][2] また、阿倍野元町の保田家の分家の系図では、保田家は紀州有田郡保田荘の土豪が出自となっており安倍氏との繋がりは無く、本家社家の系図は偽作が疑われている。[3][4][2] 江戸時代、安倍晴明神社は安倍野村の庄屋保田氏が個人で所持した神社であり、実質、保田氏が江戸時代の葛の葉伝説が広まった頃に創った神社と考えられる。[5][6]
明治時代末期になると復興計画が持ち出され、1921年(大正10年)には阿倍王子神社の末社として認可された。社家の子孫である保田家より旧社地の寄進を受け、1925年(大正14年)現在の社殿が竣工した。
太平洋戦争中の1945年(昭和20年)の大阪大空襲で境内に焼夷弾が落ちたが爆発せず、社殿は被災をまぬがれた。この為、地元では「晴明さんが守って下さった」と評判になり、以来災難除けの神様としても信仰を集めている。
晴明が占いの神として信仰されていることに因み、社務所内に「占い相談コーナー」も設けられている。
晴明宮御社傳書には、大彦命と彦太忍信命は同一人物で、両者が合体したような名「太彦忍信命(おおひこおしのまことのみこと)」で、阿倍氏の祖として記載されている。阿倍氏は氏族名を記載する際、阿閇氏の漢字を使っていたとも書かれている。
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