大田神社 (京都市)
京都府京都市北区上賀茂本山にある神社 ウィキペディアから
京都府京都市北区上賀茂本山にある神社 ウィキペディアから
大田神社(おおたじんじゃ)は、京都府京都市北区上賀茂本山にある神社。式内社で、現在は賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社(第三摂社)。古くは「恩多社(おんたしゃ)」とも。
上賀茂神社の東約500メートルの地に鎮座する。
祭神は次の1柱[1]。
賀茂における最古の神社と伝わることから、長寿の信仰がある[1]。
創建は不詳。賀茂県主(かものあがたぬし)が当地に移住する以前から先住民によって祀られたといわれるが、明らかではない[1]。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では山城国愛宕郡に「太田神社」(写本によっては「大田神社」)と記載され、式内社に列している[2]。
本殿・拝殿とも寛永5年(1628年)の造替[1]。本殿は一間社流造で、屋根は檜皮葺[1]。
拝殿は「割拝殿」(わりはいでん:中央が吹き抜けて通れる拝殿)という古い形式で、屋根は本殿と同じく檜皮葺である[1]。社務記では天授3年(1377年)3月に「大田拝殿転倒す」と見えており、それ以前の造営と見られる[1]。
鳥居前に架かる石橋右側下の水面から、小さな石が顔をのぞかせている。この石は「蛇の枕」または「雨石」と呼ばれ、蛇が枕にしていたと伝える。蛇は雨を降らせる生き物とされ、この蛇がいる枕のもとに行けば、雨乞いができると考えられた。儀礼は、この枕石を農具(鉄器)などで叩いて行われる。こうすることで、枕を叩かれた蛇が怒って雨を降らせるという[3]。
上記4社は、いずれも上賀茂神社においても境外末社に位置づけられている[4]。
参道の脇の「大田ノ沢」では、約2000平方メートルの敷地にカキツバタ約25,000株が自生しており、「大田ノ沢のカキツバタ群落」と呼ばれる。この大田ノ沢は平安時代からの名所とされ、尾形光琳の『燕子花(かきつばた)図』のモチーフになったとの言い伝えもある[6]。毎年5月上旬から中旬にかけての開花時に、沢一面に濃淡さまざまな紫色の花をつけ、多くの観光客の目を楽しませる[7]。
大田ノ沢は古代に深泥池と同様に沼地であったといわれ、かつて京都盆地が湖であった頃の面影を残すものであるとして、カキツバタ群落とともに、昭和14年(1939年)に国の天然記念物に指定された。
文治6年(1190年)には、『千載和歌集』の編者で著名な藤原俊成が、紫一色に染まる様子を一図な恋心に例えて次の歌を詠んでいる[8]。
神山(こうやま)や 大田の沢の かきつばた ふかきたのみは 色にみゆらむ
歌の大意:神山(賀茂別雷命の降臨地)の近くにある大田神社のかきつばたに、深くお願いする色事は、かきつばたの色のように一途で美しく可憐なのだろうか。 — 藤原俊成
雨乞いのとき、大田の池(大田の沢の別名)の水を入れ替えれば雨が降り、長雨のとき、神供寺の池(かつて上賀茂神社の神宮寺にあった池)の水を入れ替えれば雨が止むと伝えられていた。干珠・満珠になぞらえられ、大田の池は満池、神供寺の池は干池とよばれた[9]。
境内後方には、「大田の小径」と呼ばれる全長約750mの散策路が延びる。この散策路は、平成17年(2005年)に、地域住民で構成する「上賀茂自治連合会」「上賀茂まちづくり委員会」らによって整備されたものである[10]。
神社背後の小山に、未舗装ながら整備された山道が続いている。散策路の両脇にはロープが張られているほか、途中の数か所に標識が設けられ、迷うことなく散策できる。北大路魯山人が愛したという山つつじが出迎える山道を進むと、展望箇所が設けられており、好天時には京都タワーや伏見桃山城を遠望できる。杉林を抜けて散策路を進むことで、岡本口(東側登り口、上賀茂岡本町地内)に至る[11][12]。
「大田の小径」の案内板は、大田神社側は上賀茂神社宮司、岡本口側は京都市北区長による揮毫である。
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