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日本の物理学者 ウィキペディアから
坂井 光夫(さかい みつお、1921年(大正10年)9月7日 - 2015年(平成27年)12月28日)は、日本の物理学者。理学博士(東京大学・1957年)。第4代東京大学原子核研究所所長。東京大学名誉教授。専門は原子核物理学。
新潟県新潟市西堀通6番町(現 新潟市中央区西堀通6番町)の新潟高等女学校教諭・坂井仲太郎の次男として出生[1]。
1938年(昭和13年)3月に新潟中学校を4年で修了、1941年(昭和16年)3月に新潟高等学校を卒業、1943年(昭和18年)9月に東京帝国大学理学部物理学科を半年繰り上げ卒業[1]、10月に海軍技術見習尉官として中国の青島に向かった[2]。
1945年(昭和20年)10月に復員、副手として東京帝国大学理学部の嵯峨根遼吉の研究室で研究[3][4]、1951年(昭和26年)9月から1954年(昭和29年)12月までフランス、スウェーデン、アメリカに留学[5]。
1955年(昭和30年)8月に東京大学原子核研究所助教授に就任[6]、1966年(昭和41年)9月に東京大学原子核研究所教授に就任、1968年(昭和43年)12月に第4代東京大学原子核研究所所長に就任[1][7][注 1]。
1980年(昭和55年)2月1日に渡仏し、パリ郊外の病院で死の床にあった原子核物理学者・湯浅年子(癌で苦しみながらも日仏共同研究の実現に奮闘していた)にフランス国立科学研究センターが日仏共同研究を正式に承認したことを伝えた[9]。
1982年(昭和57年)4月に東京大学を定年退官、東京大学名誉教授の称号を受称、日仏会館常務理事に就任[1][注 2]。
2015年(平成27年)12月28日に直腸癌のため死去、葬儀は近親者で行った[10]。
原子核構造の研究で業績を上げた[4]。また、有馬朗人らと協力して1967年(昭和42年)と1977年(昭和52年)に原子核構造国際会議を開催し、日本の原子核研究の国際化に貢献した[4][11][12]。
東京大学原子核研究所の所長の時に建設を計画した高エネルギー重イオン加速器は実現しなかったが、その建設計画は形を変えて東京大学原子核研究所の後身・高エネルギー加速器研究機構の研究施設・J-PARCの加速器群に受け継がれた[4][11]。
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