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大阪府高槻市内の地域 ウィキペディアから
高槻市の丘陵部と平野部の境界の中央部に位置する。
旧古曽部村(磐手村大字古曽部)は、西は真上村(芥川村大字真上)、西南部は上田辺村(高槻村/高槻町大字上田辺)、南は高槻村(高槻町)、東は別所村(磐手村大字別所)・安満村(磐手村大字安満)、北は成合村(磐手村大字成合)と接していた[3]。
古曽部の旧村域(旧大字域)は、現在、古曽部町(一〜五丁目)のほか、西隣の奥天神一丁目(全域)、天神町一丁目(15,16,17番地の部分)・二丁目(23,24番地の部分)、東隣の別所本町(32,33,34番地の部分)、北隣の美しが丘(全域)、宮が谷町(55番地の部分)、南方の白梅町(4番地の西部[注釈 1]を除く全域[注釈 2])・八丁西町(全域)、高槻町(9,10番地以北の部分)、北園町(10,11,13番地以北の部分)、大学町(全域)、城北町(7番地の部分)などに区分されている。[3]
古曽部村は、古くから開けた農村[注釈 3][4][5]で、旧村域の中央部から南部にかけての耕地(大部分が水田)は条里制にもとづく地割がおこなわれている. 1889年の町村合併により磐手村に組み込まれ(同村の西南部に位置した), 1931年、他の4箇村ともに高槻町と合併した(1943年市制施行)。
主たる作物は米で、酒米として伏見や灘へ移出された[6]。副業として、ケシやタバコ、菜種、除虫菊、ジキタリスなどが栽培されていた[7] 旧村域南部の水田地帯(現:白梅町・高槻町・北園町・大学町など)は国鉄(現JR)高槻駅と阪急高槻市駅の中間に位置し、旧高槻町(1931-1943) 期の阪急電鉄による宅地開発をきっかけとして、市内中心部の繁華街に組み込まれていった。高度経済成長期以降には、旧村域の西縁および北部を占める丘陵地(古曽部四丁目・五丁目、奥天神町一丁目・美しが丘)などで大規模な宅地開発がおこなわれたほか、特に昭和40年代後半には、高槻駅から徒歩圏内という好立地を生かし、4~8階程度の中層マンションが民間事業者によって建設された。住宅供給を行う主体が民間事業者であった背景としては、当時、日本住宅公団(現都市再生機構)や大阪府住宅供給公社が高槻市内での団地造成を中止していたことによる。このような開発がなされたこともあって、現在では旧村域の全域で市街地化が進んでいる。
現古曽部町を校区に含む公立の小中学校は以下の通り
古曽部五丁目から分離して成立した美しが丘、旧村域(大字域)の一部をふくむ宮が谷町、別所本町も、両校の校区の一部を構成している。
かつて旧古曽部村(大字古曽部)、現古曽部町を校区に含んでいた公立の小中学校は以下の通り
古曽部の旧村域(大字域)の一部を校区とする公立の小中学校は以下の通り
天神町・奥天神町・白梅町
八丁西町・高槻町・北園町・大学町・城北町
江戸期から大正期にいたる古曽部焼は、五十嵐家以外に窯も陶工もなく、「古曽部」の名称は、他の焼き物のような陶工集団や窯の所在地をいうのではなく、五十嵐窯の屋号のような役割を果たしていた[8]。
古曽部焼窯元の五十嵐家は、旧別所村(現別所本町)との境に近い平野部と丘陵部の境界に居をかまえ(現古曽部三丁目)、登り窯は、五十嵐邸の裏手から東北方にかけての丘陵部に築かれ、五代窯元五十嵐信平(本名:栄次郎)の大正末年(1926年)まで作陶がつづけられた[9][10]。登り窯の本体は、昭和11年(1936年)までは作陶可能な状態で維持され[11]、昭和二十年代( ~1954年)まで[12]存在していた。五十嵐邸の門前に、「古曽部竈跡」の石碑や、同市教育委員会による「古曽部窯跡」の案内板が設置されている。
昭和後期に入り、寒川義崇によって1978年に新たに開窯された「茶陶 古曽部焼(義崇窯)」は、川久保の地(旧磐手村北部、高槻市の東北部を占める大字)で開設されている[13]。
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