古曽部焼(こそべやき)は、江戸時代後期から大正時代にかけて、摂津国嶋上郡古曾部村(現大阪府高槻市古曽部町)の五十嵐家の古曽部窯で生産された陶器。近年、五十嵐家五代の当主たちによる明治末期までの古曽部焼と、大正年間、「窯元も含む(古曽部)村の有志」が京都五条坂の陶工河合磊三を招き、河合の成型した器を古曽部窯にて焼成した磊三古曽部(らいぞうこそべ)(復興古曽部)とに区分されている。さらに昭和後期〜平成期の「新古曽部」の作品(昭和後期に寒川義崇・七里寿弥ら現代の陶芸家が高槻市内の各地で開窯した工房で「古曽部焼」の名称を用いて製造した作品)を含める場合もある[注釈 1]。
古曽部の地は老ノ坂山地と大阪平野の境界上に位置する農村のひとつとして古くから開けた地[注釈 2]で、旧村域の中央部から南部にかけての耕地(大部分が水田)は条里制にもとづく地割がおこなわれている。(詳細は古曽部を参照)。
五十嵐家以前、古曽部入道 能因(橘永愷, 988-1050/1058)が古曽部の地で陶器をてびねりした、近世初期(安土桃山時代~江戸時代寛永年間)に開かれ小堀政一(遠州)により遠州七窯の一つとされたなどの伝承がある[注釈 3]。ただしこれらの時期の作品は伝存せず、窯跡の所在も不明である。
五十嵐家と古曽部窯
江戸期から大正期にいたる古曽部焼は、五十嵐家以外に窯も陶工もなく、「古曽部」の名称は、他の焼き物のような陶工集団や窯の所在地をいうのではなく、五十嵐窯の屋号のような役割を果たしていた。五十嵐家の窯の名称を「古曽部窯」という[注釈 4]。
古曽部焼の陶祖 初代新平(1750-1829)は、この古曽部村の農家五十嵐家の出身で、京都の製陶技術を学び、寛政2,3年(1790年~91年)ごろ[注釈 5]、古曽部の印を用いて焼くスタイルの「今日いう古曽部焼」を創始。一品ものの茶器(「變物(へちもの)」)も制作するが、日用品(「難物(なんもの)」)の大量生産を主力とした。
古曽部窯元の五十嵐家は、旧別所村(現別所本町)との境に近い古曽部東北部の平野部と丘陵部の境界(現古曽部三丁目)に居をかまえ、登り窯の本体は五十嵐邸の敷地(旧字池ノ下)に置かれ、その北方の五十嵐家が所有する竹藪(旧字歓喜寺)を「物原」(ものはら,「灰原」)として使用した[注釈 6]。
窯元五十嵐家による窯業は明治末年、五十嵐信平(栄次郎)により「廃窯」されたが[注釈 7]、その後も大正末年まで古曽部窯を使用した作陶が行われた(磊三古曽部)。登り窯はその後も昭和11年(1936年)ごろまでは作陶可能な状態で維持され[注釈 8]、昭和二十年代( ~1954年)まで存在していた。現在古曽部窯跡として史跡となり、五十嵐邸の門前に「古曽部竈跡」の石碑や高槻市教育委員会による「古曽部窯跡」の案内板が設置されているが、「物原」は宅地や道路などへの転用がすすんでいる[注釈 9]。
古曽部窯年表
- 寛政2,3年(1790年~91年)ごろ、初代五十嵐新平により開窯。
- 明治年間、四代信平の長男栄次郎が「信平」を襲名[注釈 10]して五十嵐家の五代当主となる[注釈 11] 。
- 「明治四十年頃」(1907年)[注釈 12]から「先代存命中の大正初年」にかけての時期に、栄次郎の健康上の理由により「廃窰」(「窯が廃された」)[注釈 13]。
- 大正時代(1912-1926)、京都の陶工・河合磊三(かわいらいぞう,河合清一)が成形した型を使用して、「窯元(=栄次郎)も加えた村の有志」により、なんどか作陶が行われた[注釈 14]。(「磊三古曽部(復興古曽部)」)。
- 地元の古曽部(現古曽部町)では、古曽部焼の開窯期間を「寛政三年(一七九一)から大正末期(一九二六)までの一三五年間」と伝えている[注釈 15] 。
五十嵐家歴代と弁蔵
- 初代:五十嵐新平(1750-1829)楽焼を作る。写しものを主とする茶器類が伝存する
- 二代:五十嵐新平(新蔵)(1791-1851)一單斉信楽と名乗り、高取、唐津、高麗、南京などの写しものを得意とした。
- 三代:五十嵐信平(信五郎)(1833-1882)27歳で窯元を継承、三島、絵高麗の写しを得意とした。信楽土の導入を開始、雑器の大量生産を可能とする生産体制を整え、辰砂(しんしゃ)の作品を手がける
- 四代:五十嵐信平(八十治郎)(1851-1918)32歳で窯元を継承、店売りや料亭向けなどの大口注文をこなす。
- 五代:五十嵐信平(栄次郎)(18??-1939)[注釈 16] 四代信平が現役中はその作陶活動を補佐。健康上の理由で廃窯した後は、歴代の作品に箱書きを行うなどの活動に従事した。大正期(1912-1926)の「磊三古曽部(復興古曽部)」の製造にも、「窯元」として参加した。
- 六代:五十嵐信蔵(19??~1912-1981~?)[注釈 17]
- 五十嵐弁蔵(二代新平の2男。3代、4代を補佐し、1904年、80余歳で没。) 鼓形花器や童女人形などに「辨三」銘の作品を遺す
- 各地の作風(高取、唐津、高麗、南京、三島、高麗)を模倣した抹茶碗、水差し、香炉、菓子鉢、花器などの茶道具のほか、民窯として碗類・皿物・鉢物・徳利・火鉢・急須・杯どの日用雑器を生産した。日用雑器としては、淀川名物「くらわんか舟」の食器として使用された茶碗・海老絵小皿が代表的である。
- 「古曾部」、「古曽部」などの銘印がもちいられ、行平鍋の把手に「古曽山」印、一部の特注品に「くらわんか」の印も使用された。大正年間に焼かれた「磊三古曽部(復興古曽部)」では、4代信平の「古曽部」銘印に三角形の内部に「磊」字を入れた銘が合わせて捺されている。
- 五十嵐家が作陶に使用した陶土は、初代新平は登り窯北側斜面より採取したが、その後、古曽部の西隣,真上村の曹洞宗寺院慈眼寺(現高槻市月見町)の裏山から採取するようになった。黄褐色を帯びた粘土質の赫土で、砂気の多い質のわるいものであったため、江戸時代末期、3代信平の時期からは信楽土も導入された。
五十嵐家の古曽部窯以外で焼かれた古曽部銘の作品について、郷土史家で骨董商の川崎嘉夫[注釈 18]は、古曽部窯で焼かれた作品のみを「古曽部焼」(細かくは「古曽部焼」と「復興古曽部」)とし、その他の窯で焼かれたものを「古曽部の写し」である「京古曽部」とする[注釈 19]。
茶道界では、作家名や工房(窯)の名称を明示して作品を発表する作家(の少なくとも一部)に対し、古曽部焼を「再興」した「新古曽部」と評価している[注釈 20]。
新古曽部
昭和期にはいり、古曽部焼の廃窯を惜しんだ現代の陶芸家が、五十嵐家歴代の作風を学び、高槻市内で開窯、「古曽部」・「古曾部」の銘を用いた作品を制作・発表している[注釈 21](新古曽部)。
七里寿弥
- 七里寿弥(2013没)[39]。長崎県出身。同県南松浦郡新上五島町奈良郷の寿宝寺(浄土真宗本願寺派)の子弟 。「古曽部窯を再興した」と称し、工房名も「古曽部窯」を使用、作品の共布に「古曾部窯之印」の朱印を捺し、「古曾部」の銘を用いる。高槻市内にて開窯。三島写や吉祥文字の茶碗、海老絵や瑞鳥紋,福字の小皿、御本立鶴茶碗などの作品がある。
古曽部写
他の産地の作家が、古曽部銘を入れた古曽部風の作品(=古曽部写(こそべうつし),古曽部手(こそべて))を作っている例もある。
伊藤隆雲
- 伊藤隆雲(1937- ) 清水焼作家。「古曾部」銘を入れた三島手(三島写)茶碗を作っている。
注釈
たとえば七里寿弥は作品に「古曾部」銘を使用。寒川義崇は自身の工房や作品に「古曽部焼」の名称を冠し、作品に「古曽部」銘を使用。詳細・典拠は本記事の「新古曽部」を参照。 享和三年(1803年)の全戸数87軒(男子186人,女子187人)すべてが農業(農業のほか渡世人なし)
『高槻市史』(富井康雄,1984)では、古曽部焼の起源に関するこれらの諸説を紹介しつつ、作例が実在しない、平安期および近世初期の窯跡が未発見であるなどの理由により、これらを単なる「伝承」とみなし、江戸後期~明治末年の五十嵐家5代による窯業のみを「古曽部焼」と称している。
高槻市教育委員会等が五十嵐邸門前に設置した石碑は「古曽部竈跡」、案内板は「古曽部窯跡」。「歴史の散歩道」として市内各地に設置した道標の表記も「古曽部窯跡」となっている。 五十嵐家文書には、寛政九年(1797年)三月付で、新平の兄四郎兵衛が高槻藩に提出した「古曽部焼開業に付き口上書」がある。 杉本捷雄,1936のいう「(五代五十嵐栄次郎が)代々ガラ捨て場であったと云ふ同家所有の竹藪」(p.2),杉本捷雄,1943のいう「物原」(p.18)、高槻市立しろあと歴史館,2003のいう「古曽部窯跡灰原」。
窯元六代の五十嵐信蔵も含む「土地の古老や関係各位」に取材して執筆された入江唯信,1981は「五代信平は、健康上の理由で自ら廃窯に至らねばならなかった」と述べる。
杉本,1936は、昭和11年(1936年)当時の登り窯の現況について、「初代新平が初めて築いた窯に就ては、今は明細に知る由もないが、五代信平廃窯までの窯は今もたゞ焼かれないだけで、窯元の屋敷裏に残っている。(中略)現在の窯跡は、登窯で、本窯が七袋、捨窯が二袋で、本窯は本焼、捨窯は楽手と素焼が一袋づゝである」と述べる。
昭和40頃に建設された東西道路より南側に位置する部分に対し、平成12年5月~7月、都市計画道路の建設にともなう大規模な発掘調査がおこなわれ、コンテナ300箱分の陶片が採集された。調査地は現在、路面となっている。
『高槻市史』(富井康雄,1984)に「五代目信平は、長男栄次郎が継いだが、(後略)」とある。
栄次郎の五代目当主の継承について、杉本,1936には「この古曾部窰が當主五十嵐榮次郎氏の折に廃窰になつた(後略)」「当主の栄次郎氏は、現在より三十年以前程以前古曽部窯の廃窯になるまでは、親しくその父祖の業に従はれていた方で、代から数えると五代目に当たる方である」、『高槻市史』には「五代目信平は、長男栄次郎が継いだが、先代存命中の大正初年にはすでに窯が廃されたこともあって、巷間五代目は本名の栄次郎で通っている」という記事がある。
杉本,1936は「この古曾部窰が當主五十嵐榮次郎氏の折に廃窰になつたのが、現在から云つて三十年程前であって、これを繰ると明治四十年頃になり、寛政初年よりこの明治四十年まで大略百二十年間が、古曾部窰の歴史と云ふ事が出來る」とのべる。
以下の資料にみえる「廃窯」、「窯を廃する」とは、地方窯(じかたよう)としての製陶事業の終了を意味するものと思われる。
- 杉本,1936は、大正期における古曽部窯を用いた作陶活動([注釈14]で引用)に言及しつつ、それでもなおかつ「明治四十頃」を「廃窯」と称している([注釈11],[注釈12]で引用)。
- 『高槻市史』は、栄次郎による「信平」継承にふれつつ、「先代存命中の大正初年にはすでに窯が廃された」とする([注釈11]で全文引用)。
- 高槻市教育委員会が昭和63年(1988年)に五十嵐邸前に設置した案内板は「4代目信平のとき(明治末年)に窯が廃され、(後略)」とし、平成12年度(2010年度)の窯跡発掘調査の報告書(橋本,2002)では、「明治末の4代 目信平の時に廃窯となり、(後略)」とする。
高槻市教育委員会の教育管理部・文化財課が高槻市公式サイト内で担当した以下の二つの文章では、「地方窯としての古曽部焼を営んだ」歴代については「四代の陶工」と表現し、「歴代が作成した陶器の作風」を論ずる文脈では、栄次郎も作者に含めている。
- 「古曽部のやきもの」は、栄次郎を歴代に含めずに、「古曽部焼は江戸時代後期から明治時代末にかけて、古曽部村の五十嵐家4代の陶工が営んだ、いわゆる地方窯(じかたよう)です」と述べる。
- 「古曽部焼のこころ」では、「古曽部焼の作風は初代五十嵐新平から五代目栄次郎まで、少しずつ異なっています」と述べる。
また、上引の「古曽部のやきもの」では明確に「廃業」という用語が使用されている。
- 「四代在世中の明治末年に廃業したと伝えられますが、(後略)」
杉本,1936は、5代栄次郎の陶印について述べた箇所で、「終わりに胎土は信樂、印は四代信平印に<磊>印を加へたものがあるのを附記するが、これは大正年間になつて、窯元も加はり、村有志で焼かれたものである」と記す。村上正名,1983は「大正十五年、この古曽部窯の廃窯を惜しんだ地元の有志が出資して、京都から河合磊三を呼んで、古曽部窯を使用して再興を計っている。そして作品は出資額に応じて領けている。この作品には三代の古曽部印を押して磊の字を三角で囲んだ陶印をそえている。」とする(p.51)。千田康治,2013には「四代目の印に「磊」を添えた作品があります。これは、廃窯後の大正年間(一九一二ー二六)に、古曽部村の有志によって二回ほど焼かれた作品です。京都の陶工・河合磊三(らいぞう)に成形を依頼し、古曽部窯を使って焼成しました。「磊三古曽部」や「復興古曽部」と呼ばれます。」とある(p.9)。
入江唯信,1981は、「古曽部窯跡は古曽部の東、能因法師塚を左に眺めながら北へ二百メートル程進むと、"古曽部焼窯跡"という石碑が見える。ここが、寛政三年(一七九一)から大正末期(一九二六)までの一三五年間、登り窯から陶煙がのどかにたなびいていた窯元である」と述べる。
杉本,1943は、「五代の栄次郎氏が昭和十四年に物故されてゐた」と述べている。
肩書きが「(古曽部焼 窯元六代)」と記され、司会者から「五十嵐さんは古曽部焼の窯元で、初代新平さんから数えて六代目のご当主ですが、」と呼ばれている(「座談会」,1981,pp.10,12)。「磊三古曽部」の生産に参加していたかについては記述なし。
川崎は、長年収集してきた古曽部焼・くらわんか焼・高槻藩漢詩人藤井竹外関連資料など高槻の郷土資料多数を高槻市立しろあと歴史館に寄贈、「川崎コレクション」として収蔵された。 川崎は、「大阪府下高槻市北郊古曽部の地で江戸後期より明治末年の廃窯に至るまで、連綿として焼き継がれてきた、その多くは破損して失われ今や幻と言われている、全国に誇り得る高槻固有のやきものが「古曽部焼」であります」(p.2)、「大正初期に復興を試み京の陶工河井磊三氏を招いて窯元や地元の有志らにより僅か二窯だけを焼いたといわれる「復興古曽部」があります」(p.115)、「その他、古曽部の印を捺した写しものが古くから多数出まわっていて、俗に「京古曽部」と呼ばれ、摂河泉の骨董界で結構いまでも流通しているものをみかけます」(p.115)と述べる。
茶道裏千家の機関紙『淡交』に収録された土本宗丘の一文に「(古曽部焼は)明治の末には廃窯しましたが、現在新古曽部を再興して、若手が奮闘しています」という記述がある。 たとえばヤフー・オークションで「古曽部焼」として出品されている品(2015年9月8日16:00の時点で44点)のうち、五十嵐家5代の作が7点、義崇窯が23点、七里寿弥が3点、不明(=商品説明・写真に説明のないもの)10点となっている。(2015年9月8日16:00閲覧) たとえば寒川,1989所収の作品66点のうち、表千家第14代宗左(而妙斎)8点(作品番号1~8)、裏千家第15代汎叟宗室(鵬雲斎)8点(作品番号9~16)、高倉久田家第12代中誠宗也(尋牛斎)16点(作品番号17~32)など。
研究
- 杉本捷雄『古曽部窯研究』(東京,学芸書院,1936年)
- 杉本捷雄「古曽部窯と保全の高槻焼」(『陶磁』第十三巻第四号,1943年1月4日。東洋陶磁研究所。pp.18-25)
- 保田憲三「古曽部焼異考」(『古美術』第十三巻第五号,1943年5月。東京・茜屋書房。pp.44-62)
- 村上正名「近世古窯巡礼記2 遠州の七窯(1)志戸呂・古曽部」 (『陶説』363号,1983年6月。pp.45-51)
- 富井康雄「古曽部焼とその周辺」(高槻市史編纂委員会 編集『高槻市史』第2巻(高槻市役所,1984年),第五章 庶民生活と文化 第一節,pp.369-381)
- 伊藤徹夫「古曽部焼の作品について」(『大阪市立博物館紀要』第19冊, 大阪市立博物館,1987.03. pp.35-44)
- 橋本久和「古曽部焼窯跡の調査」(鎌ケ江一朗・高橋公一編『高槻市文化財年報 平成12年』高槻市教育委員会,2002年3月29日,pp.12-17,図版第4-図版第6)
一般
- 「古曽部焼--茶器とくらわんか船」(『西国街道』向陽書房,1980. pp.70-71)
- 入江唯信『わがふるさと古曽部』光月山文庫,1981
- 「座談会:古曽部を語る」( pp.10-21。司会:入江唯信(浄教寺住職)、参加者:脇田彦五郎(古曽部共楽会会長), 入江俊哲(浄教寺前住職),加賀山清五郎(速證寺門徒総代),井上長兵衛(古曽部町自治会長),五十嵐信蔵(古曽部焼窯元六代),井上佐一郎(日吉神社氏子総代) )
- 加賀山茂「古曽部・雑感」(pp.42-47)
- 「古曽部焼き」(pp.34-35)
- 高槻市教育委員会教育管理部文化財課「古曽部のやきもの」
- 土本宗丘「古曽部焼」(『茶道誌 淡交 1997年2月号』No.618 第51巻2号,淡交社,1997年2月1日. p.292)
- 高槻市立しろあと歴史館『平成15年度秋季特別展図録 高槻の古窯古曽部焼の世界』(高槻市教育委員会 高槻市立しろあと歴史館,2003)
- 川崎嘉夫『古曽部焼・賞賛』(出版樹々,1999)
- 千田康治(高槻市立しろあと歴史館)『平成25年しろあと歴史館第23回企画展 高槻のアンティーク 古曽部焼・藤井竹外・くらわんか茶碗--川崎コレクション名品選--』(高槻市立しろあと歴史館,2013)
新古曽部
- 寒川義崇「古曽部焼趣意書」
- 寒川義崇『古曽部焼茶陶展〜平成元年六月十五日~六月二十日/大丸心斎橋店五階美術画廊』(株式会社 市田朝芳庵,1989年)
- 山科聖天双林院「不動瓦文様 文鎮(古曽部窯々元 七里寿弥)」(昭和56年10月, 山科聖天双林院)