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古代ギリシア語(こだいギリシアご、Ἑλληνική、希: Αρχαία ελληνική γλώσσα)は、ギリシア語の歴史上の一時期を指す言葉。古代ギリシアの、アルカイック期(紀元前8世紀 - 前6世紀)、古典期(前6世紀 - 前4世紀)、ヘレニズム期(前4世紀 - 後6世紀)の3つの時代に跨がっており、様々な方言が存在し、古典ギリシア語もその一つである。
古代ギリシア語は、その後のヨーロッパ諸言語に最も影響を与えた言語の一つである。ホメーロスの叙事詩、劇作家、ペリクレス時代の哲学者、『新約聖書』等がその証左と言えよう。また、「民主主義(democracy)」のような不可欠な語も含め、英語の語彙に多大な影響を与えてもいる。ルネサンスから20世紀初頭にかけては、西洋の教育制度において標準的な科目となっていた。学名に用いられている新ラテン語(近代ラテン語)には、今日でも古代ギリシア語からの語彙の引用が精力的になされている。
ヘレニズム期の古代ギリシア語はコイネー(「共通語」の意)、あるいは聖書ギリシア語として知られ、その後期の形が中世ギリシア語に変異していった。初期のコイネーは古典期との共通点も多いが、ギリシア語の歴史の中では独立したものとして扱われる。コイネーより前の、古典期やそれ以前のギリシア語にはいくつかの方言が存在した。ミケーネ文明期のミケーネ語(前1600年–前1100年)は、古代ギリシア語(前8世紀-前4世紀)に先行する言語である。
ギリシア語の起源および初期の歴史は、同時代の史料が欠けており判然としない。そのため、いくつか仮説が存在する。初期のギリシア語的特徴を有する言語がインド・ヨーロッパ祖語から分岐(遅くとも紀元前2000年までに)してから紀元前1200年頃まで、どのような古代ギリシアの方言群が存在していたのか。どの仮説も概要は共通しているものの、細部で異なる。上記の時代で存在が証明されている[注 1]のはミケーネ語だけだが、歴史的方言とその背景に鑑みるに、全ての方言群が当時すでに何らかの形で存在していたとも考えられる。
古代ギリシア語の主な方言は、紀元前1120年(ドーリス人の侵入の時期)までには発達していたとされる。ギリシア文字によるはっきりとした記録が確認されるのは紀元前8世紀以降である。古代のギリシア人は、自身にドーリス人・アイオリス人・イオニア人という3つの主な区分があると考えており、それぞれ弁別的な方言を有していた。人目につかない山岳地帯のアルカディアと、学問の中心から離れたキュプロスを見落としていたという点を斟酌すれば、上記の区分は現代の歴史言語学の調査結果と酷似している。これは、方言の内実と変化を理解する上で非常に重要である。
古代ギリシア語の各方言は以下のように分類される[2]。
ギリシア語方言の分類は、西部と非西部というのが最も古くかつ有力である。非西部諸方言は「東ギリシア諸方言」と呼ばれることもある。
方言群の大半は、ポリスの領域ないし島に対応する形で、上記のようにさらに下位の区分に振り分けられる。たとえば、レスボス方言はアイオリス方言のひとつである。また、ドーリス方言はそのような細かな区分との間に位置する中間区分も有しており、島嶼ドーリス方言(クレタ方言など)、南ペロポネソス・ドーリス方言(スパルタのラコニア方言など)、北ペロポネソス・ドーリス方言(コリントス方言など)があった。
イオニア系以外の方言群は主に碑文によって把握されている。注目すべき例外はサッポーやピンダロスの作品だが、これらは断片的にしか現存していない。各方言群はまた、植民市によって独特に表現されることもあった。それら植民市は、時には開拓移民や近隣住民が話す異なる方言の影響を受けて、独自の発展を遂げた。
紀元前4世紀のアレクサンドロス大王の征服ののち、コイネーもしくは共通ギリシア語として知られる国際的な方言が発達した。コイネーは大部分でアッティカ方言が原型となっていたが、ほかの方言の影響も受けていた。古代の方言のほとんどは徐々にコイネーに入れ替わっていったが、ドーリス方言は現代ギリシア語のツァコニア方言として生き残っているほか、デモティキの動詞にもアオリストの形を残している。紀元後6世紀頃までに、コイネーは中世ギリシア語に変異していった。
日本語では「古典ギリシア語」という名称が広く知られているが、これは「古代ギリシア語」と同一の概念ではない。古典ギリシア語は、古代ギリシアの諸方言の中で最も代表的なものとなった古典期のアッティカ方言を指す呼称である。
紀元前5世紀頃までは散文の中心がイオニア地方であったため、イオニア方言が主に用いられていた(ヘーロドトスなど)。しかし、前5世紀後半からはアテーナイに優れた弁論家・文筆家(プラトーン、トゥーキューディデースなど)が多く現れ、さらに政治的にもアテーナイがギリシアの中心となったため、前4世紀頃にはアッティカ方言がギリシア世界の標準語となった。この頃[注 2]に用いられていたアテナイの言語を指して「古典ギリシア語」と呼ぶ。
ギリシア祖語以来、以下の音韻の変化はほぼすべての古代ギリシア語方言に見られる。
/w/, /j/ は脱落する傾向が強かったが、完全に消失していたわけではない。初期には母音の後ろにあるとき、その母音と結合して二重母音の形をとっていた。子音の後ろでの /h/ と /w/ の脱落は、直前の母音の代償延長に伴って起こった。一方、子音の後の /j/ の脱落には、直前の母音の二重母音化、口蓋化、子音のほかの変化など、多くの複雑な変化が絡んでいた。以下はその例である。
母音融合の結果は方言ごとに複雑であった。多数の異なる種類の名詞や動詞の屈折語尾に起こる融合は、古代ギリシア語文法の最も難解な面を体現している。母音融合した動詞の分類、名詞から作られた動詞、母音の屈折語尾において、このような融合は非常に重要になってくる。実際、現代ギリシア語では母音融合動詞の発達形(たとえば、古代ギリシア語の母音融合動詞を受け継いだ動詞の組み合わせ)が、動詞の主要な2つの分類を象徴している。
正書法は古い時代の特徴を残していたが、後古典ギリシア語の発音は古代ギリシア語から大きく変異した。古代の発音を完全に再建することはできないが、ギリシア語は特にこの時代からかなりの記録が残されており、音価の一般的な性質に関しても言語学者の間に見解の相違はほとんど見られない。
以下の例では、紀元前5世紀のアッティカ方言を代表として取りあげている。
母音のいくつかは長短の区別があった。また二重母音があった。
/oː/ はおそらく紀元前4世紀までに [uː] に変化した。
代償延長に関しては、どの位置で発生したかで異なる見解がある。/a/ が [aː] と [ɛː] のどちらになるのか、/e/, /o/ は半狭の [eː], [oː] と半広の [ɛː], [ɔː] のどちらになるのか、というのがその争点である。
[ŋ] は、軟口蓋音の前では /n/ の、鼻音の前では /g/ の異音として現れた。
ῥ と表記される [r̥] は語頭で用いられ、おそらく /r/ の無声の異音だった[5]。
子音には主に以下の3種類があった。
動詞を活用する際、子音が他の子音とぶつかることがある。このとき様々な規則が適用されるが、原則として
ただし、これが適用されるのは閉鎖音に対してのみである。摩擦音は有声化ないし無声化の方向でしか同化せず、共鳴音は同化しない。例としては
ギリシア語は、インド・ヨーロッパ語族の他の言語同様、高度に屈折的である。これは特に、インド・ヨーロッパ祖語の形をよく残しているアルカイック期に顕著に見られる。古代ギリシア語の名詞には固有名詞も含め、5つの格(主格・属格・対格・与格・呼格)、3つの性(男性・女性・中性)、3つの数(単数・双数・複数)があった。動詞は4つの法(直説法・命令法・接続法・希求法)、3つの態(能動態・中動態・受動態)、3つの人称(一人称・二人称・三人称)があり、7つの時制(現在・未来・未完了過去は相では未完結相、アオリストは完結相、完了・過去完了・未来完了は完了相)に変化する。接続法未来や命令相といったものは存在しないが、時制が法と態をそのように見せることは多い。不定詞と分詞は、相・法・態の限られた組み合わせに対応する形で存在した。
未完了過去・アオリスト・過去完了の3時制は、直説法のとき(少なくとも概念上は)接頭辞 ἐ- が付される。これは本来、「そのとき」のように独立した単語に適用されたと考えられる。インド・ヨーロッパ祖語における時制は、相としての意味合いが強かったからである。加音は直説法アオリスト・未完了過去・過去完了に対して起きたが、ほかの法のアオリストには行われなかった(未完了過去と過去完了はそもそも直説法しかない)。
ギリシア語の加音には、音節的加音と時量的加音の2種類がある。前者は子音で始まる語幹に起こり、接頭辞 ἐ- が付される。ただし ῥ- で始まる場合は後ろに -ρ- を重ねた上で ἐ- が付され、ἐρρ- の形になる。後者は母音で始まる語幹に起こり、以下のような長音化を伴う。なお、長短どちらも表す母音は弁別のため、長音にはマクロンを、単音にはブレーヴェを付してある。
ου, η, ῑ, ῡ, ω は変化しない。ε > ει のような例外は、歴史言語学的には母音間の -σ- 脱落によるものと説明される。ホメーロス以後、詩(特に叙事詩)では慣例的に加音がなされないことがある。
完了・過去完了・未来完了のほとんどでは、動詞幹の語頭で畳音が用いられる。しかし、完了の一部では例外的に畳音が使われず、また反対にアオリストで畳音が用いられることもある。畳音には以下の3種類がある。
例外的な畳音は歴史言語学的に理解できる。たとえば、λαμβάνω(語根 λαβ-)の完了幹は *λἔληφα ではなく εἴληφα であるが、これは元々の形である σλαμβάνω(完了幹 σἔσληφα)が、(準)規則的な変化を経たためである。重複は、特定の動詞の現在幹において目に見えることもある。そのような語幹は、語根の語頭の子音+ ῐ の音節を加える。一部の動詞では、重複の際に鼻音が現れることもある。
古代ギリシア語は、ギリシア文字で書き表され、大文字のみだった。方言ごとに独自のバリエーションがあった。初期の文章は牛耕式で記されていたが、古典期には左横書きが標準となっていた。
近代に編集された古代ギリシア語文献は、アクセントと気息記号が付され、大文字と小文字が混在する分かち書きで書かれている。しかし、これらはすべて後の東ローマ帝国時代になってから導入されたものである。
以下に、プラトン『ソクラテスの弁明』冒頭部の様々な表記のされ方の例を示す。
20世紀初頭までは、西洋の教育制度においてラテン語と古代ギリシア語の学習はカリキュラム内で重要な位置を占めていた。今でもヨーロッパでは、イギリスのパブリック・スクールやグラマー・スクール、イタリアの文科高等学校、ドイツの文科系ギムナジウムのような伝統校・エリート校では、古代ギリシア語が必修科目や選択科目となっていることがある。たとえばドイツでは2006年7月現在、15000人の生徒がギリシア語を学んでいる(ドイツ連邦統計局調べ)。ドイツ以外にも、世界中の主要な大学で西洋古典学としてラテン語とともに今なお教えられている。
フランスでは中学2年からラテン語と古代ギリシア語を学ぶことができる。
教育以外の現場での用例としては、ヨーロッパ諸言語で専門用語を新造するときが挙げられる。文学界では例外的に、ヤン・クルジェサルドが韻文・散文を書いたことがある。また、『アステリックス』がアッティカ方言版で何巻か出版されているほか、『ハリー・ポッターと賢者の石』、『星の王子さま』、『ピーターラビットのおはなし』など若干の文学作品(ほとんどは児童文学)の古代ギリシア語訳もある。
主にギリシア国内に限定されるが、敬意・賞賛・嗜好を示したい団体や個人によって用いられることもある。現代のギリシア人が部分的であっても古代ギリシア語(アルカイック期は除く)を理解できるという事実は、現代ギリシア語とその先駆となる言語の密接な関係を物語っている。
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