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日本の女性史学者 ウィキペディアから
加納 実紀代(かのう みきよ、1940年7月17日 - 2019年2月22日[1])は、日本の女性史研究家。女性史研究のパイオニアの一人とされる[1]。娘は「沈没家族」の創始者である加納穂子[2]。
日本統治下の京城府(現:ソウル特別市)の陸軍官舎で生まれる[3]。陸軍軍人の父の転勤で国内へ戻り、1944年に広島市に移住する。1945年8月6日に原子爆弾に被爆し[1]、父は遺骨も残らず亡くなる[3]。母の実家近くの香川県善通寺市で育つ。
1963年京都大学文学部史学科卒。中央公論社勤務、1968年退社、研究者となる。
1976年、戦時女性史の研究会「女たちの現在(いま)を問う会」を立ち上げ[4]、11月3日にミニコミ『銃後史ノート』を創刊する[5][6]。創刊号から3号までは手作りで200~300部の発行だった[7]。途中から商業出版社が関わり、数千部が発行された[7]。1985年8月発行の第10号(=復刊7号)特集「女たちの戦後・その原点」で戦前篇が完結したのを機に[5][8]、1985年度第5回山川菊栄賞を受賞した[4][9]。その後も戦後篇に取り組み[5]、1996年7月発行の『全共闘からリブへ 銃後史ノート戦後篇8 68・1〜75・12』に至るまで[10]、20年がかりで「銃後史ノート」全18号を刊行した[4][5]。
1996年6月27日、文部省は翌年度用中学校社会科教科書の検定結果を公表。従軍慰安婦について記述した7冊すべてが合格した[11]。同年12月2日、藤岡信勝、西尾幹二、小林よしのりらは「新しい歴史教科書をつくる会」(略称:つくる会)の結成記者会見を開催。「この度の文部省の教科書検定は安易な自己悪逆史観のたどりついた一つの帰結だ」との声明を発表し、文部大臣に対し記述削除を要求すると述べた[12][13]。同年12月15日、加納、鈴木裕子、川田文子、金富子、石川逸子、森川万智子ら8人の女性は、「つくる会」結成に言論界・経済界から78人が賛同者として名を連ねたことを重く見、「『新しい歴史教科書をつくる会』に抗議する女たちの緊急アピール」と題する声明を作成した。1997年1月15日、総勢56人の連名による「女たちの緊急アピール」を、つくる会の呼びかけ人9人[注 1]と賛同者78人に郵送した。また、雑誌等にも掲載した[14][15]。
2002年4月から2011年3月まで[3]新潟県新発田市にある敬和学園大学で特任教授を務めた[1][4]。研究・執筆・講演などの活動とのバランスをとるため、限られた授業数のみ担当する特任教授の勤務条件が適しており[3]、若者たちに日本の近現代史を通して日本の現在と行く末を考えてほしいという願いもあって[3]、日本近現代史を担当していた田中利幸の後任者として着任した[3]。「日本史概説」「歴史学」やゼミを受け持ったほか[3]、「敬和学園大学 戦争とジェンダー表象研究会」を立ち上げ、共同研究の成果を西洋史学会やジェンダー史学会で発表した[3]。一般市民向けのシンポジウムを重視して若桑みどりや上野千鶴子を招いて講演会やシンポジウムを開催し[3]、地元の女性史研究グループの活動も支援した[3]。
定年退職後は[3]フリーとなって女性史・ジェンダー史の研究を続けたが[4]、持病の肺気腫が進み、酸素吸入が必要となった[3]。2018年5月にすい臓がんとの診断を受け[3]、闘病しながら、1980年以降に書いた文章をまとめた『「銃後史」をあるく』を同年11月に刊行した[3]。
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