Loading AI tools
ウィキペディアから
山崎 朋子(やまざき ともこ、1932年1月7日 - 2018年10月31日[1])は、女性史研究家、ノンフィクション作家。夫は児童文化研究家の上笙一郎。
長崎県佐世保市生まれ、広島県呉市と広島市で育つ。呉市立仁方小学校卒(文芸春秋講演会での発言から)。本籍地は福井県。父は大日本帝国海軍中佐の大畑正、母は若山喜志子門下の歌人で三冊の歌集を持つ大畑晴子。1940年、父が艦長を務める伊号第六十七潜水艦が沈没し、父を喪う。
1945年、広島市への原子爆弾投下前に母親の郷里福井県に移り終戦を迎える。1952年、福井大学教育学部二部を2年修了。福井県で小学校の教師をした後、1954年、女優となることを夢見て上京、再度小学校教諭を務めるが一年で辞め、演劇の勉強をするうち、知り合った東京大学院生・金光澤と事実婚。済州島生まれの金は20歳で朝鮮から来日し、東大法学部を経て院を卒業したが、職に恵まれず、山崎が昼は会社員、夜は喫茶店ウェートレスをして金の民族運動を支えた[2]。このとき金の友人尹学準から羅稲香にあやかった朝鮮名「羅敦香」をもらう[3]。しかし金は朝鮮総連学生部の委員長であり、ナショナリズムのゆえに在日朝鮮人の間で日本人妻を忌避する風潮が現れ、金の許を去る。金との同棲は2年ほどだった[2]。
その後喫茶店で働きつつ、写真のモデルなどをしていたが、1958年、一方的に朋子に執着した男に顔を傷つけられ、女優の夢を断たれる。同年、新宿の風月堂でウェイトレスをしていて、児童文化研究者・上笙一郎と知り合い、1959年、結婚。上の本名である山崎を姓とする。(以上は自伝『サンダカンまで』に詳しい)
これ以降、女性史研究者としての勉強を始め、1966年、上との共著『日本の幼稚園』で1毎日出版文化賞受賞[4]。アジア女性交流史研究会を創立し、1977年まで『アジア女性交流史』を刊行。1973年、九州地方の「からゆきさん」の聞き書き『サンダカン八番娼館』で大宅壮一ノンフィクション賞受賞[1]。同作は映画化され(『サンダカン八番娼館 望郷』、熊井啓監督)[1]、ベストセラーとなり、家を建てるなど余裕のある生活が可能になった。一方『サンダカン八番娼館』の「からゆきさん」のモデルであるおサキさんは改めて世間に指弾され、困窮した生活を余儀なくされた。 『あめゆきさんの歌』では、評論家の山田わかが若い頃アメリカで娼婦をしていた事実を明らかにした。以後、女性史研究の第一人者として著書多数。1990年代にはアジア女性基金を設立し、近代女性の著作の復刊『女性叢書』の編纂などに従事した。
また、西田敏行、山田洋次、黒柳徹子らと共に「平和のための戦争展」(日本中国友好協会主催)の呼びかけ人を務めていた[5]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.