修学院村
日本の京都府愛宕郡にあった村 ウィキペディアから
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修学院村(しゅうがくいんむら)は、かつて京都府愛宕郡に存在した村である。1889年(明治22年)の町村制発足により設置され、1931年(昭和6年)4月1日、京都市左京区に編入合併して消滅した。
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京都府愛宕郡修学院村 (26B0020006) | |
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岩倉盆地の南、比叡山の西麓から高野川に挟まれた区域を中心とし、北は愛宕郡岩倉村(現・左京区岩倉)・八瀬村(左京区八瀬)、東は滋賀県、南は愛宕郡白川村(左京区北白川)・田中村(左京区高野)、西は高野川を挟んで同郡松ヶ崎村(左京区松ヶ崎)に囲まれており(発足当時。なおこのうち白川村・田中村は1918年(大正7年)京都市上京区に編入され、その後左京区新設にともないこれに編入された)、村の境域は現在の左京区上高野・修学院・山端・一乗寺各地区(「上高野」・「修学院」・「山端」・「一乗寺」を町名に冠する各地域)にほぼ相当する区域であった。村役場は、大字修学院小字川原1番地1(現在跡地に修学院マート)に置かれた。
夏目漱石は、1892年(明治25年)7月9日には正岡子規と、1907年(明治40年)4月10日には高浜虚子とともに、山端の平八茶屋を訪れている。1918年に同村に移り住んだ速水御舟は、同年、日本画『洛北修学院村』を制作、同年に開催された第5回日本美術院に出品した[1]。
近世以来の山城国愛宕郡修学院村・一乗寺村・高野村は、町村制施行により修学院村の大字修学院・一乗寺・高野として編制された。
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