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井上 誠一(いのうえ せいいち、1908年(明治41年)8月1日 - 1981年(昭和56年)11月26日)は、東京府(現・東京都)出身のゴルファー、ゴルフ場設計者。
1908年(明治41年)8月11日、東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)に、眼科医の長男として生まれる[1]。母は御茶ノ水にあった井上眼科医院創始者の長女で、父は養子として母と結婚した[2]。
少年時代はカメラなどが趣味で、映画やメークアップへの興味も相まってハリウッドへの憧れを抱いた[2]。しかし、成蹊高等学校在学中に、嗜眠性脳炎を患い、叔父の井上達四郎に、治療にはゴルフが最適と言われゴルフを始めた[1]。1930年(昭和5年)、「川奈ホテルゴルフコース・富士コース」(静岡県)にいた時、「東京ゴルフ倶楽部・朝霞コース」(埼玉県)の設計のためにイギリスから来日していたチャールズ・ヒュー・アリソンに出会い、彼の仕事を見て「面白そうだ、僕もやってみよう」と思い立つ[1]。
1931年(昭和6年)、叔父の井上達四郎(三井物産ロンドン支店勤務時にゴルフを習得[2])の勧めで「霞ヶ関カンツリー倶楽部」(埼玉県)に入会した[1]。当時、霞ヶ関カンツリー倶楽部の東コースはアリソンの設計で改造中、井上は技師ジョージ・ペングレースの現場助手として改造に参加した[1]。その後、西コースを設計する藤田欽哉の設計にも参加した[1]。また、隣接地に居住を構え、コース造りの日々を過ごし、コース設計の基礎を学んだ[1]。この時、アリソンの設計図を研究、ジョージ・ペングレースを観察し、後にコース設計家として大いに役立った[1]。井上は、海外のゴルフ関連文献を取り寄せ、知識の乏しい農業や建設など大きな財産となった[1]。
1935年(昭和10年)、「那須ゴルフ倶楽部」(栃木県)の設計の藤田欽哉に同行し建設地を検分し、藤田の健康が優れず井上に任せられた[1]。1935年(昭和10年)、「久里浜ゴルフ場」(神奈川県)を開場させた[1]。翌1936年(昭和11年)、「那須ゴルフ倶楽部」が開場、井上の年齢は弱冠28歳だった[1]。
終戦後の1948年(昭和23年)、沖縄の米軍の依頼で「泡瀬メドースゴルフクラブ」(沖縄県)の設計を行い開場させている[1]。1950年(昭和25年)、安達建設に入社、設計部で「川崎国際カントリー倶楽部」(神奈川県、現・「川崎国際生田緑地ゴルフ場」)の設計をおこなう[1]。1951年(昭和26年)、安達建設を退職し、独立してゴルフ場の設計で再出発、「大洗ゴルフ倶楽部」(茨城県)の設計をおこなった[1]。
1908年(明治41年) - 1981年(昭和56年)の生涯に設計したゴルフ場数は、現存するコースでは39コースである。関東以北のゴルフ場が多いが、全国各地で設計を行っている[3]。なお、閉鎖し現存しないコースは「久里浜ゴルフ場」(神奈川県、1935年(昭和10年)開場、戦時中閉鎖)、「アワセメドウズゴルフクラブ」(沖縄県、1948年(昭和23年)開場、閉鎖不詳)、「東雲ゴルフ倶楽部」(東京都、1952年(昭和27年)開場、1981年(昭和56年)閉鎖)の3コースである[3]。海外での設計コースは、「フィリピナスゴルフ&カントリークラブ」(フィリピン、1962年開場[4])と「スパン・ナショナル・ゴルフクラブ」(マレーシア、1968年開場[5])の2コースである[3]。
井上誠一設計のゴルフ場で、特に有名なコースは、2021年(令和3年)、東京オリンピックの競技会場「霞ヶ関カンツリー倶楽部」である。また、ロレックスが選んだ「世界のトップ1000コース」に、日本の全コ-スから36カ所選ばれたが、その中の井上誠一が設計したコースは「霞ヶ関カンツリー倶楽部」・「愛知カンツリー倶楽部」・「日光カンツリー倶楽部」・「大洗ゴルフ倶楽部」・「鷹之台カンツリー倶楽部」・「龍ヶ崎カントリー倶楽部」・「茨木カンツリー倶楽部」・「札幌ゴルフ倶楽部・輪厚」の8コースが選ばれた[6]。
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