上赤塚交番襲撃事件
日本の警察署襲撃事件 ウィキペディアから
日本の警察署襲撃事件 ウィキペディアから
上赤塚交番襲撃事件(かみあかつかこうばんしゅうげきじけん)は、1970年(昭和45年)12月18日に東京都板橋区赤塚三丁目、志村警察署[注釈 1]上赤塚交番が3人組の男に襲撃された事件[1]。
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
犯人グループは京浜安保共闘(日本共産党(革命左派)神奈川県委員会)のメンバーで、一人は警察官に射殺された。日本の左翼運動家が警察官に射殺された初めてのケースとなった。
前年12月に逮捕された革命左派指導者の川島豪は、この年の春頃から自身の奪還を獄外指導部に対して指示していた。獄外指導部は様々な奪還方法を検討した結果、川島を乗せた護送車を襲撃し川島を奪還することとしたが、その際に補助的に銃が用いられることになり、交番襲撃による銃の奪取が計画された。武器はビニールホース入り鉛パイプ、切り出し小刀、千枚通しが用意された。
12月18日の午前1時ごろ、革命左派の柴野春彦(横浜国立大学生)、渡辺正則(横浜国立大学生)、佐藤隆信(神奈川県立川崎高等学校生)が、交番に駐在する警察官の拳銃奪取を目的に上赤塚交番を訪れた。3人は「自動車が故障したので、迎えがくるまで待たせて欲しいと」応対した巡査に話しかけるとビニールホースに仕込んだ鉛の棒を振りかざして顔面をめった打ちにした。奥の休憩室に居た巡査長が物音に気付いて休憩室のドアを開けると柴野と鉢合わせた[2]。柴野が拳銃を納めていた保管箱に手を伸ばしたため、巡査長は柴野を部屋から蹴落とし、なおも刃物を持って向かってくる柴野に向けて警告のうえ拳銃を2発発射。更に巡査長は、馬乗りになって巡査に凶器を打ちつけている2人に向けても警告のうえ脚を狙って計3発発射した。柴野春彦が死亡、他2名も重傷を負ってその場で現行犯逮捕された。巡査の拳銃からも弾が1発発射されていたが、当人に撃った自覚はなく、乱闘中に暴発したものと考えられる[3]。
警察官からの銃奪取に失敗した革命左派は、交番の代わりに銃砲店からの銃奪取を目指し、翌年2月に真岡銃砲店襲撃事件を起こすことになる。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.