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ルイス・カスティーヨ (内野手)

ドミニカ共和国の野球選手 (1975-) ウィキペディアから

ルイス・カスティーヨ (内野手)
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ルイス・アントニオ・カスティーヨLuis Antonio Castillo, 1975年9月12日 - )は、ドミニカ共和国サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリス出身の元プロ野球選手二塁手)。右投両打。

概要 基本情報, 国籍 ...
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経歴

要約
視点

プロ入り前

1975年9月12日にドミニカ共和国サン・ペドロ・デ・マコリス州サンペドロ・デ・マコリスで誕生した。13歳になるまで自分のグラブを持てないくらい貧しい生活を送っていた[1]

プロ入りとマーリンズ時代

1992年フロリダ・マーリンズと契約し、1996年8月8日にメジャーデビュー。メジャー2年目1997年の開幕戦でエドガー・レンテリアと共に21歳で二遊間を形成した。これはナショナルリーグ史上最年少記録である[2]。しかし、怪我のため一旦マイナーへ降格し、球団史上初のワールドシリーズに出場できなかった。

1999年は128試合に出場し、メジャーに定着。打率.302、球団史上3人目[3]かつリーグ4位の50盗塁を記録した。

2000年はオフに年俸調停の資格を得るためカスティーヨは「今年はどうしてもいい成績を残したい」と言い[1]、4月16日から5月4日まで17試合を欠場したが[1]、打率.334はリーグ5位、62盗塁は球団新記録(2003年にフアン・ピエールが65盗塁で記録更新)[3]

2002年、5月8日から6月21日まで35試合連続安打を記録[4]。これは当時史上10位タイ、二塁手としてはロジャース・ホーンスビーを抜いて歴代最多記録だった[5]。7月9日のオールスターに初出場を果たし、リーグ1位の48盗塁、打率.305を記録した。

2003年にはワールドチャンピオンの一員となった。その過程であったナショナルリーグ・チャンピオンシップシリーズ第6戦の8回表に起こったファンによる守備妨害であるスティーブ・バートマン事件の発端となったレフト線への打球を打っている。シーズン終了後に3年総額1600万ドル(4年目の2007年はオプション)の契約に合意[6]した。

2005年シーズン終了後、マーリンズが年俸総額を6500万ドルから3000万ドルまで削減するため、12月2日にトレードで放出された[7]。マーリンズでは10年間在籍し、出場試合数(1127)・三塁打(42)・四球(532)・安打(1272)・盗塁(281)はいずれもトレード放出時点で球団記録だった[7]

ツインズ時代

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ミネソタ・ツインズ時代
(2006年9月24日)

2006年は打撃ではリードオフヒッターとして確かな選球眼と小技。そして足を使い相手を揺さぶり[8]、守備では経験の浅い内野手のリード役として安定していたが、ヒザの故障のため守備範囲が狭くなり、ゴールドグラブ賞受賞はならなかった[8]

メッツ時代

2007年7月30日にメッツへトレード移籍し、11月18日に4年総額2500万ドルで契約延長した[9]2008年はひざの関節、大腿筋、手首などを痛めながら出場していたが[10]、7月3日に左臀筋痛で故障者リスト入り[11]。その後、8年ぶりにマイナーで13試合に出場した後、8月25日にメジャー復帰を果たした[12]。10年ぶりに出場試合数が100を下回り、打率.245・3本塁打・28打点の成績でシーズンを終えた。守備防御点-13は自己ワースト。

2009年は打撃で復活の兆しを見せたが守備の衰えは隠せず、6月12日にはヤンキースとのサブウェイシリーズで、1点リードの9回裏二死1,2塁からアレックス・ロドリゲスが打ち上げたセカンドフライを落球して逆転サヨナラ負けを喫し、話題となる。守備防御点は-12、UZRは自己ワーストの-11.2だった。

2010年6月4日に両足に問題があったことで故障者リストに入った。代わりに二塁に入ったルーベン・テハダシティ・フィールドで行われたフロリダ・マーリンズ戦は5-4でメッツが勝利した。両腕両足を切断した兵士が病院に行かないようだとオリバー・ペレスカルロス・ベルトランと一緒に批判を受け、この経験によっておびえたくないと主張した。また自分のプレーする時間に満足していないことをオフシーズンになる前に解決しないといけないとコメントした。2010年のスプリングトレーニング中に、メッツでプレーしている時にデジタルドメインパークでメッツファンにブーイングを受けた。

結局2011年3月18日にメッツが残りの契約1年分を支払って解雇された[13]

フィリーズ傘下時代

2011年3月21日にフィリーズとマイナー契約を結んだ[14]。3月30日に放出された。

引退後

2016年に行われたアメリカ野球殿堂選挙では0票で候補から外された[15]

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選手としての特徴

打撃では、長打力はないものの、フライボールの極めて少ない「打球を転がす」選手で知られる。2000年 - 2009年の間におけるG/F(ゴロ/フライの割合値)では、2001年(4位)と2006年・2009年(2位)を除く全ての年でMLB1位のゴロ率を記録しており、徹底している。

守備はメジャー昇格以降、二塁手一本で他ポジションの経験はない。2005年まではすべての守備防御点・プラスマイナスシステム・UZRでいずれも平均を大きく超える守備力を示していたが、晩年は大きく衰えが見られた。

人物

既婚者で二人の子供がいる[16]

2019年8月に、麻薬密売と資金洗浄の容疑で逮捕されオクタビオ・ドーテルも関連の容疑で逮捕された[17][18][19][20]。ただ8月下旬に、資金洗浄は決定づける関連の証拠がなかったため容疑は晴れた[21]

詳細情報

年度別打撃成績

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  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

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タイトル

表彰

背番号

  • 34(1996年)
  • 1(1997年 - 2010年)
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脚注

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関連項目

外部リンク

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