Loading AI tools
ウィキペディアから
ロバート・ジョン・"マット"・ラング[注 1](Robert John "Mutt" Lange、1948年11月11日- )は、南アフリカ連邦出身の音楽プロデューサー、ソングライター。AC/DC、デフ・レパード、フォリナー、カーズ、ブライアン・アダムス、シャナイア・トゥエイン、バックストリート・ボーイズ、セリーヌ・ディオン、ブリトニー・スピアーズ、ザ・コアーズ、ニッケルバック、マルーン5、レディー・ガガ、ミューズなどのアーティストのプロデューサー・共同作業者として知られる。
ロバート・ジョン・ラングは、北ローデシア(現在のザンビア共和国)のムフリラ生まれ。南アフリカ連邦のダーバンにおいて、南アフリカ人の鉱山技師の父親とドイツ人の母親のもとで育つ[3]。ラングの友人たちからはジョン (ミドルネーム) と呼ばれていたが、ニックネームを好む両親は彼を「マット」と呼んだ。幼い頃からカントリー・ミュージックに興味を持ち、特にスリム・ホイットマンがラングのお気に入りだった[4]。
南アフリカのベルファストにある寄宿学校に入り、ラングはバンドでギターを弾くようになる。高校卒業後、レコーディングスタジオでコマーシャル制作の仕事に就き、ヨハネスブルグ近郊で友人たちと「サウンド・リーズン」(Sound Reason)と「ホーカス」(Hocus)というバンドを結成する。ホーカスでは、ラングはベースを担当。同バンドでボーカル兼ピアノを担当していたスティーヴィ・ヴァン・カーケンと後に結婚する(1970年代に離婚。ラングは1995年に彼女のソロアルバムをプロデュースしている)。ホーカス解散後、ラングはプロデュースの仕事に専念することを決意しロンドンに移住する[4]。
ロンドンに移住したラングは数多くのプロデュースの仕事に就き、その中でブームタウン・ラッツのシングル「ラット・トラップ」が1978年11月にイギリスで1位を獲得する[5]。1979年には、自身がヴォーカルを取った、スーパーチャージの「ウィ・ボース・ビリーヴ・イン・ラヴ」を発表[6]。同年、AC/DCのアルバム『地獄のハイウェイ』を手掛け、初の大ヒットを記録した(全米17位[7])。リードボーカルのボン・スコットが亡くなった後、ブライアン・ジョンソンを後任に迎えたアルバム『バック・イン・ブラック』をプロデュースする。1980年にリリースされたこのアルバムのセールスは全世界で5,000万枚を超えており[8]、アメリカでの総売上は2024年の時点で2,600万枚となり、イーグルスの『グレイテスト・ヒッツ 1971-1975』、マイケル・ジャクソンの『スリラー』に次いで、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』と同率3位のセールスを記録している[9]。
1981年、ラングがプロデュースしたフォリナーの『4』が全米チャートで10週連続1位を記録し、シングル「ガール・ライク・ユー」も全米チャート10週連続2位を記録[10]。アメリカでのアルバム総売上は600万枚を超える[11]。
1982年、ラングが作曲したヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのシングル「ビリーヴ・イン・ラヴ」(『ベイエリアの風』収録)が全米7位となり、バンド初のトップ10ヒットを記録した[12]。ヒューイ・ルイスは1970年代に「クローバー」というバンドに在籍しており、ラングが2枚のアルバムをプロデュースしている[13]。ルイスとは1991年のヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのシングル「ヒット・ミー・ライク・ア・ハマー」(『ハード・アット・プレイ』収録)を共作している(全米21位[12])。
ラングは、AC/DCのマネージャーであるピーター・メンチを通じて、新進気鋭のイギリスのバンド、デフ・レパードを紹介され、デフ・レパードの生々しいサウンドにラング独自の手法を駆使したアルバム『ハイ&ドライ』を完成させた[4]。1983年の『炎のターゲット』でのラングとバンドのコラボレーションはさらに複雑になり、全曲で彼が共同作曲者として名を連ねているこのアルバムは全米で最高2位を獲得し[14]、最終的にはアメリカだけで1,000万枚以上を売り上げた[15]。
その後もラングは引き続きデフ・レパードとの楽曲制作に携わっていたが、カーズの『ハートビート・シティ』(1984年、全米3位[16])のプロデュースやラヴァーボーイへの楽曲提供(「ラビング・エブリ・ミニット」- 1985年、全米9位)など過密なスケジュールにより精神的・肉体的にも疲弊していたため、デフ・レパードの次作アルバムのプロデュース依頼を断った。その後、ラングに代わるプロデューサーとの作業が難航していたバンドは、1985年半ばに改めてラングにプロデュースを依頼。1987年初頭まで及んだレコーディングの末、同年8月にリリースされた『ヒステリア』は、全米ナンバーワン曲「ラヴ・バイツ」を含む7枚のシングルヒットが生まれ、世界的な売り上げは2017年の時点で2,500万枚を超えている[17]。
1988年、ビリー・オーシャンのアルバム『テアー・ダウン・ジーズ・ウォールズ』の3曲を共作&プロデュース。そのうち「明日へのハイウェイ」(Get Outta My Dreams, Get into My Car) は全米ナンバーワンを記録[18]。
1991年には、ブライアン・アダムスのアルバム『ウェイキング・アップ・ザ・ネイバーズ』をプロデュース。全米6位、全英1位を記録した[19][20]。ラングも共同作曲者として名を連ねている映画『ロビン・フッド』のテーマ曲「アイ・ドゥ・イット・フォー・ユー」は、全米で7週連続1位[19]、全英では16週連続1位となり、ギネスブックに最長連続1位の作品として登録された[21][22]。
1993年、ブライアン・アダムス、ロッド・スチュワート、スティングのコラボレーションによる映画『三銃士』のテーマ曲「オール・フォー・ラヴ」がリリースされる。ラングがアダムスとマイケル・ケイメンと共作した本曲は全米チャートで3週連続1位(全英2位)を記録する[19][23]。
1993年、カナダのカントリー歌手、シャナイア・トゥエインと出会ったことで、ラングのキャリアはさらなる大きな一歩を踏み出した。トゥエインのデビューアルバムを聴いた後、ラングはマーキュリー・レコードを通じて彼女に連絡を取り、2人は電話でのやり取りを始めた。「マネージャーから、イギリスにいる男性が私のビデオを見て興味を持っていると聞き、私は彼がソングライターだと思って彼からの電話を受けました。その時、私はマット・ラングがどのような人物なのか知りませんでした」とトゥエインはアメリカン・ミュージック・チャンネルで語っている。2人は1993年12月に結婚した[4]。
彼らはすぐに最初のコラボレーションであるアルバム『ウーマン・イン・ミー』の制作に取り掛かった。1995年にリリースされた同アルバムは、アメリカで1,200万枚のセールスを記録した[24]。続く『カム・オン・オーヴァー』(1997年)は、アメリカで2,000万枚、全世界で4,000万枚を超えるセールスを記録し、アメリカおよび全世界で女性ソロアーティストによる最も売れたアルバムとしてギネスブックに登録された[25][26][27]。
1990年代後半から2000年にかけて、ラングはシャナイア・トゥエイン以外にも、バックストリート・ボーイズ、セリーヌ・ディオン、ブリトニー・スピアーズといったアーティストのプロデュースにも注力した。また、ザ・コアーズの『イン・ブルー』をプロデュースし、ラングも作曲に携わった「ブレスレス」はバンド初の全英1位を記録した[28]。
2001年8月にはラングとトゥエインの長男であるエジャ・ダンジェロが誕生。夫妻は子育てと、翌年にリリースされたアルバム『アップ!』の制作を両立させなければならなかった[4]。
2008年、ニッケルバックの『ダーク・ホース』をプロデュース。かねてからラングのことをヒーローと崇めていたチャド・クルーガーたっての希望により実現した[29]。アルバムは全米2位を記録し、300万枚以上を売り上げた[30][31]。
2008年5月、トゥエインの所属レーベルであるマーキュリー・ナッシュビルの広報担当者は、ラングとトゥエインが別居状態にあることを発表[32]。2人は2010年6月に正式に離婚した[33]。
2010年代には、マルーン5の『ハンズ・オール・オーヴァー』(2010年、全米2位[34])や、ミューズの『ドローンズ』(2015年、全米・全英1位[35][36])などをプロデュースした。また、レディー・ガガのシングル「ユー・アンド・アイ」(2011年、全米6位[37])のプロデュースにも関わっている。
(アルバム全曲、または収録曲をプロデュース)
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.