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マシオ駒(マシオこま、1940年5月18日 - 1976年3月10日)は、日本の元プロレスラー。本名は駒 秀雄(こま ひでお)。東京都世田谷区出身。
早稲田実業学校高等部時代は野球部に所属(同期に王貞治がいる)。卒業後の1961年6月に日本プロレスに入門し、同年10月11日の平井光明(ミツ・ヒライ)戦でデビュー。この時期のリングネームには駒厚秀、駒角太郎などがある。身長170cm程度とプロレスラーとしては小柄であるが、素早い動きと高さのあるドロップ・キックを武器に奮闘した。
1970年1月にメキシコ遠征し、その際にリングネームを「マシオ・コマ」に改名した。同年8月28日にエル・ソリタリオを下し、NWA世界ミドル級王座を獲得。その後アメリカに転戦し、アマリロ地区でファンク一家とのコネクションを得る[1]。
1972年、ジャイアント馬場が日本プロレスを離脱すると馬場に合流し、全日本プロレスの立ち上げに参加する[2]。全日本プロレスではジョー樋口と共に外国人選手の招聘や、若手の指導を行うようになる。1973年のジャンボ鶴田入門時には、鶴田のアマリロ修行へ同行・指導した[3]。
1976年1月5日の試合を最後に、病気のため戦列離脱する。2ヶ月後となる3月10日、尿毒症による腎不全のため東京都内の病院で死去。35歳没。同日、全日本プロレスの日大講堂大会で10カウントの弔鐘が行われた。
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