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ボブ・ウェルチ (野球)
アメリカ合衆国の野球選手 (1956-2014) ウィキペディアから
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ロバート・リン・ウェルチ(Robert Lynn Welch, 1956年11月3日 - 2014年6月9日)は、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト出身の元プロ野球選手(投手)、プロ野球コーチ。右投右打。
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経歴
要約
視点
プロ入り前
1974年のMLBドラフト14巡目(全体319位)でシカゴ・カブスから指名を受けるが契約せず、東ミシガン大学に進学した。1976年には第5回日米大学野球選手権に出場しており、2勝を挙げている[1]。
プロ入りとドジャース時代
1977年のMLBドラフト1巡目(全体20位)でロサンゼルス・ドジャースから指名され、プロ入り。
1978年6月20日のヒューストン・アストロズ戦でメジャーデビュー。8月から先発に定着し、8月5日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で9安打を浴びながらメジャー初完封を記録するなどデビューから5連勝。7勝4敗・防御率2.02・3完封を記録し、チームの地区連覇に貢献。フィラデルフィア・フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第1戦で5回途中からリリーフして最後まで投げて勝利投手となり、チームはリーグ連覇を果たす。ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第2戦で1点リードの9回表1死一、二塁の場面でリリーフし、最後の打者レジー・ジャクソンを三振に仕留めてセーブを記録。第4戦では8回途中からリリーフするが延長10回裏にルー・ピネラにサヨナラ安打を浴び敗戦投手。王手をかけられて迎えた第6戦では6回途中から登板するが、7回にジャクソンにダメ押しの2点本塁打を浴び、チームは敗退した。
1979年は開幕当初は先発だったが5月にリリーフに転向。6月に再び先発に戻るが7月に故障で離脱し、5勝6敗に終わる。
1980年は5月29日のアトランタ・ブレーブス戦で唯一の被安打の後を併殺に打ち取り、四死球・失策・残塁いずれも0の「準完全試合」を記録するなど、前半戦で9勝3敗・防御率2.36の好成績でオールスターゲームに初めて選出される。後半戦で失速したが14勝9敗・防御率3.29を記録した。
1981年は50日間に及ぶストライキでシーズンが中断・短縮されて前後期スプリットシーズン制の変則日程となり、その影響で9勝に留まるが、チームは前期優勝。アストロズとのディビジョンシリーズでは1試合のリリーフ登板のみだったが、モントリオール・エクスポズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは最終第5戦で1点リードの9回裏2死一、二塁の場面でリリーフし、最後の打者を抑えて胴上げ投手となった。ヤンキースとのワールドシリーズでは第4戦に先発するが、打者4人に対して3安打1四球で1死も取れないまま降板。チームはワールドチャンピオンとなった。
1982年は16勝11敗・防御率3.36の成績。
1983年は途中まで負けが先行したが終盤に6連勝を記録して巻き返し、15勝12敗・防御率2.65の成績でチームの地区優勝に貢献。フィリーズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発するが2回途中で降板して敗戦投手となり、チームも1勝3敗で敗退した。
1985年も故障で出遅れるが6月以降8連勝を含む13勝を挙げるなど好調で、14勝4敗・防御率2.31を記録し、チームは地区優勝。セントルイス・カージナルスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発するも3回途中5安打6四球4失点の乱調で敗戦投手となり、チームも2勝4敗で敗退した。
1986年はシーズン初登板を完封で飾るが、その後は打線の援護がなく勝利に恵まれず、防御率3.28ながら7勝13敗に留まった。
1987年は15勝9敗、いずれもキャリアハイの251.2イニング・196奪三振・4完封(リーグトップ)を記録。
アスレチックス時代
1987年12月11日にジェイ・ハウエル、アルフレド・グリフィンらとのトレードで、マット・ヤングと共にオークランド・アスレチックスに移籍。
1988年は6月までに7連勝を含む10勝。17勝9敗・防御率3.64を記録し、チームの地区優勝に貢献。ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し2回途中5失点で降板するが、チームは逆転勝利。古巣ドジャースとのワールドシリーズでは第3戦に先発し、5回1失点と好投するが勝敗付かず。圧倒的有利を予想されたチームは1勝4敗で敗退した。
1989年は21勝のデーブ・スチュワート、共に19勝のマイク・ムーア、ストーム・デービスと強力な先発カルテットを形成。前年に続いて17勝を記録し、チームは地区連覇を果たす。トロント・ブルージェイズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第4戦に先発し、6回途中2失点で勝利投手となり、チームはリーグ連覇。「ベイエリア・シリーズ」となったジャイアンツとのワールドシリーズでは本拠地で連勝後の第3戦に先発予定だったが、試合開始前にベイエリア一帯を襲ったマグニチュード7.1のロマ・プリータ地震が発生したため中止となる。10日間の中断を経て再開された第3戦では、第1戦で完封勝利のステュワートが先発し勝利。第4戦も第2戦で先発のムーアが先発して勝利し、4連勝でワールドチャンピオンとなったため登板機会はなかった。
1990年は5月11日から10連勝。前半戦で13勝を挙げて10年ぶりにオールスターに選出され、先発投手を務めた。後半戦でも14勝を挙げ、27勝6敗・防御率2.95という驚異的な成績で最多勝利のタイトルを獲得し、地区3連覇の原動力となる。25勝以上は1980年のスティーブ・ストーンが25勝を記録して以来10年ぶりで、27勝となると1972年のスティーブ・カールトンまで遡る。これ以後2015年終了時点で25勝以上を記録した投手はいない。レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第2戦に先発して8回途中1失点で勝利投手となり、チームはリーグ3連覇を果たす。シンシナティ・レッズとのワールドシリーズでは第2戦に先発するが、8回にピンチを招き途中降板。後続が打たれて同点に追い付かれ、チームはサヨナラ負け。結局4連敗で敗退した。オフに自身初のサイ・ヤング賞を受賞。
1991年は4月は好調だったものの、5月5日のクリーブランド・インディアンス戦で自身ワーストの11失点。その後も2度9失点を喫するなど不振に陥り、12勝13敗・防御率4.58と前年から大きく成績を落とした。同年は一時アルコール使用障害を患い、その模様を記した「ファイブ・オクロック・カムズ・アーリー」という本をニューヨーク・タイムズのスポーツ・コラムニストであるGeorge Vecseyとの共著で出版した。
1992年は開幕に間に合わず、復帰後も故障がちで20試合の登板に留まるが11勝を挙げ、チームの地区優勝に貢献。ブルージェイズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第4戦に先発し8回途中2失点と好投するが、クローザーのデニス・エカーズリーが打たれて同点に追い付かれ、延長の末敗れる。チームは2勝4敗で敗退した。
1993年は自身初の開幕投手を務めるが不調で、9勝11敗・防御率5.29に留まる。
1994年は開幕から5連敗を喫して5月途中にリリーフ降格。1994年から1995年のMLBストライキでシーズンが打ち切られて3勝に終わり、同年限りで現役引退。
引退後
2001年にアリゾナ・ダイヤモンドバックスの投手コーチに就任し、チームはワールドチャンピオンに輝いた。
2006年に行われた第1回WBCではオランダ代表の投手コーチを務めた。
2013年からアスレチックスのマイナー総合コーチに就任。
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詳細情報
要約
視点
年度別投手成績
- 「-」は記録なし。
- 太字はリーグ1位。
獲得タイトル
- 最多勝利:1回(1990年)
表彰
- サイ・ヤング賞:1回(1990年)
- プレイヤー・オブ・ザ・ウィーク:2回(1980年5月18日、1989年8月27日)
記録
以下、歴代順位は2016年度シーズン終了時の順位である。
- 通算ボーク:45(歴代2位)
背番号
- 35(1978年 - 1994年)
代表歴
- 第5回日米大学野球選手権大会 アメリカ合衆国代表(1976年)
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脚注
関連項目
外部リンク
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