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ピーター・アッシャー

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ピーター・アッシャー
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ピーター・アッシャーCBE[2]Peter Asher、1944年6月22日生)はイングランドのギタリスト、歌手、マネージャーおよびレコードプロデューサー。アッシャーはマネージャーおよびレコード・プロデューサーとして成功する前に、ポップ・ボーカルデュオ、ピーター・アンド・ゴードンのメンバーとして1960年代に成功を収めていた。2018年、アッシャーはチャド・アンド・ジェレミー英語版ジェレミー・クライド英語版と共に、ピーター・アンド・ジェレミーという新しいデュオとしてツアーを行い、それぞれのカタログからヒット曲を演奏した[3][4]。2019年、アッシャーはビートルズについての個人的な回想を綴った The Beatles from A to Zed を刊行した[5]

概要 ピーター・アッシャー CBE, 基本情報 ...
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生い立ち

要約
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アッシャーはセントラル・ミドルセックス病院でリチャードマーガレット・アッシャー(旧姓エリオット)の間に生まれた。父親はセントラル・ミドルセックス病院で血液病および精神病のコンサルタントを務めるとともに、アナウンサーおよび特筆すべき医学的記事の著者でもあった。母親はギルドホール音楽演劇学校の教授だった。彼女の生徒の一人にはジョージ・マーティンがいた[6]。アッシャーは放送女優兼学校調査官のクレア・アッシャーとジェーン・アッシャーの兄である[7]

8歳の時にアッシャーは子役としての活動を始め、映画The Planter's Wife や、舞台劇の『素晴らしき哉人生』に出演した。10歳で『素晴らしき哉人生』の1953年版映画で中心的な子役を務め、セシル・パーカー英語版ドナルド・ウォルフィット英語版と言ったスターと共演した。1955年にロジャー・マクドゥーガル英語版の戯曲を基にした映画Escapade の中で、一番下の弟のジョニーを演じた。この映画にはジョン・ミルズおよびアラステア・シム英語版が出演した。アッシャーはITVのドラマ『ロビン・フッドの冒険』にも出演した。

1956年、アッシャーはボリス・カーロフ主演のテレビシリーズColonel March of Scotland Yard (スコットランドヤードのマーチ大佐)の短編映画The Talking Head に12歳で出演した。

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1966年、ゴードン・ウォラー英語版(右)と一緒のアッシャー(左)

ウェストミンスター・スクールの通学生として通ううちに生徒仲間のゴードン・ウォラー(1945年生、2009年没)英語版と出会い、二人はカフェでデュオとして演奏し、歌うようになった。1962年、二人は正式にピーター・アンド・ゴードンとして活動を開始した。彼らの最初の(そして最大の)ヒットは1964年のレノン=マッカートニーの曲「愛なき世界」だった。アッシャーの妹のジェーンは1960年代中ごろにポール・マッカートニーの恋人だった。このつながりを通して、アッシャーとウォラーは未録音のレノン=マッカートニーの楽曲を手に入れた[8]

アッシャーはその後にキングス・カレッジ・ロンドンで哲学を学んだ[9]

1965年、アッシャーは歌手のマリアンヌ・フェイスフルジョン・ダンバー英語版ケンブリッジで結婚する際に介添人を務めた[6]

ピーター・アンド・ゴードン解散後の1968年、アッシャーはビートルズのアップル・レコードA&Rの職につき、まだ無名だったジェームス・テイラーと契約して、このシンガー・ソングライターのデビュー・ソロアルバムのプロデュースを引き受けた[10]。アルバムは成功しなかったが、アッシャーはテイラーがとてつもないポテンシャルを秘めていることを見抜き、アップルを辞職してアメリカに渡り、テイラーのマネージャーとして働き始めた。アッシャーはイギリスでのみシングルとしてリリースされたポール・ジョーンズ (シンガー)によるビージーズの「そして太陽は輝く英語版」のカバーをプロデュースした[11]。アッシャーはまた、1970年から1985年にかけて『スウィート・ベイビー・ジェームス』、『マッド・スライド・スリム』、『JT』および『フラッグ英語版』といったいくつものテイラーのレコーディングをプロデュースした。

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1970年代とその後

要約
視点

1970年代の初め、アッシャーは子会社のクリーン・レコードを通してアトランティック・レコードでレコーディングした、マイケル・フォンディラーとトム・スノウ英語版をフィーチャーしたカントリー・ロック・バンドのCounryのマネージメントも行っていた。その頃、アッシャーはジェームス・テイラーの妹のケイト・テイラーのマネージャーも務めていたが、ケイトが音楽業界から離れる決意をしたときに、ケイトからリンダ・ロンシュタットのマネージャーになることを勧められた[12]。アッシャーはジェームス・テイラーの『スウィート・ベイビー・ジェームス』、『JT』および『フラッグ英語版』や、リンダ・ロンシュタットの『悪いあなた』、『夢はひとつだけ』、『ミス・アメリカ』、『ホワッツ・ニュー』、『カンシオーネス・デ・ミ・パードレ英語版』および『クライ・ライク・ア・レインストーム』といった連綿と続くマルチ・プラチナ・アルバムをプロデュースして大成功を収めた。

ウェスト・ハリウッドロキシー・シアター英語版は元々のパートナーのデヴィッド・ゲフィンエリオット・ロバーツ英語版、ピーター・アッシャーとともにエルマー・ヴァレンタイン英語版ルー・アドラー英語版によって1973年9月23日にオープンした。

アッシャーは1970年代に著名なウェストコースト・ロックのサウンドを形作る役を果たし、ロンシュタット、J.D.サウザーアンドリュー・ゴールド、およびボニー・レイットのレコードをプロデュースした。 1976年、アッシャーとウォラーは毎年恒例のニューヨークでの「ビートルズ・ファンのための祭典英語版」に出演するために再結成し、ほかに数日演奏を行った[13]。 1980年代、アッシャーはシェールからen:10,000 Maniacsまでの幅広いアーティストのヒットアルバムを手掛けた。

1995年2月、アッシャーはソニー・ミュージックエンタテインメント(米国法人)の上級副社長に指名された。2002年初頭、アッシャーはソニーを去り、サンクチュアリー・アーティスト・マネージメントの共同社長としてフルタイムのアーティストのキャリアマネージメントに復帰した。2005年1月には社長に指名され、2006年9月に辞職するまでその職に留まった。2007年にディクシー・チックスのマネージャーで友人のサイモン・レンショー英語版が設立したストラテジック・アーティスト・マネージメントに合流した。ストラテジックはエンターテイメント業界で支配的な勢力に成長し、今では音楽だけではなく、さままな分野のアーティストのマネージメントを行っており、アッシャーのクライアントの一人にはパメラ・アンダーソンも含まれている。アッシャーはまた、2007年に録音されたキャロル・キングおよびテイラーのオリジナルバンドとのアルバム『トルバドール・ユニオン英語版』のプロデューサーとしてジェームス・テイラーと再会した。

2005年から2006年にかけて、ピーター・アンド・ゴードンが不定期のコンサートのために再結成された。しかしながら、ウォラーが2009年に他界し、その死亡記事ではタイムズ紙は「ウォラーは少しオタクっぽいアッシャーよりもハンサムだと思われていた」と述べた[14]

アッシャーは俳優のマイク・マイヤーズが『オースティン・パワーズ』のキャラクターをアッシャーの外見に倣ってパターン化したとの発言で言及されていたが[13]、『オースティン・パワーズ』で共演したエリザベス・ハーレイは、モデルになったのはアナウンサーのサイモン・ディー英語版だったと主張している[15]

2011年、アッシャーはコンピレーション・アルバム『リッスン・トゥ・ミー:バディ・ホリー』のエグゼクティブ・プロデューサーを務めるとともに、音楽監修、プロデューサー、そしてPBSの運営資金募金特別番組 Buddy Holly: Listen to Me; The Ultimate Buddy Party の共同司会も担当した。PBSの募金特別番組として2011年12月と2012年の5月と6月に放送されたバディ・ホリーのトリビュート・コンサートでは観客の前で演奏し、それが撮影された。特別番組はテレビ番組、セグメント、プロモーション・ピースのカテゴリーで最高の2012年のシルバー・テリー賞を受賞した[16]

アッシャーは2015年の新年叙勲式でイギリスの音楽産業への貢献で大英帝国勲章(CBE)を受勲した[17][18]

2017年5月、アッシャーは新設されたシリウスXMラジオの "From Me To You" というビートルズについての毎週の1時間番組でデビューした。

また、2017年のレイバー・デイの週末にシリウスXMラジオで放送され、その後も頻繁に再放送されるビートルズ・チャンネルのトップ100ビートルズ・カウントダウン "All Together Now" を解説付きでアナウンスした。

2016年以降、ピーター・アッシャーはアルバート・リーとのデュオの一方として、エドモントン・フォーク・ミュージック・フェスティバルなどのショーで、二人のキャリアからの曲を披露している[19]。現在はカリフォルニア州ベニスに在住している。

2018年、アッシャーはチャド・アンド・ジェレミー英語版で有名なジェレミー・クライド英語版とともに演奏活動を行っている[20]

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2012年10月6日、フェニックスにて
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私生活

アッシャーは歌手でミリーとして知られる "My Boy Lollipop" を歌ったミリー・スモール英語版と短い期間恋愛関係にあった[6]

二度結婚しており、最初の妻はベッツィ・ドスターだった。1983年、ウェンディ・ワースと二度目の結婚をした。彼らの娘のヴィクトリア・アッシャー英語版は1984年に生まれた[21]。彼女はアメリのシンセポップ/ポップ・パンク・バンド、コブラ・スターシップキータリストである。

受賞と認証

グラミー賞

CBE

ディスコグラフィー

要約
視点

演奏者として

特記あるものを除きピーター・アンド・ゴードンとしてリリース

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プロデューサーとして

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エグゼクティヴ・プロデューサーとして

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脚注

外部リンク

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