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トルクメニスタン初代大統領、トルクメニスタン民主党議長 ウィキペディアから
サパルムラト・アタイェヴィッチ・ニヤゾフ(トルクメン語: Saparmyrat Ataýewiç Nyýazow、ロシア語: Сапармурат Атаевич Ниязов、1940年2月19日 - 2006年12月21日)は、トルクメニスタンの政治家。トルクメニスタン初代大統領、トルクメニスタン民主党(DPT)議長。独裁者でもあった。
1993年からは「トルクメン人の長」を意味する「テュルクメンバシュ(Türkmenbaşy)」と名乗り、国内ではサパルムラト・テュルクメンバシュ(Saparmyrat Türkmenbaşy)と称される。
トルクメニスタンの独立・近代化を行ったが、極端な個人崇拝に基づいた独裁的な政治によって世界で最も権威主義的で抑圧する独裁者として国外で非難された[1]。
トルクメニスタンで最高額の500マナト紙幣にニヤゾフの肖像が使用されている。
アシガバートのキプチャク村で生まれたニヤゾフは、非常に早い時期に孤児となっている。父のアタムラト・ニヤゾフ(トルクメニスタン人民英雄)は第二次世界大戦に分隊長として出征し、ドイツ国防軍と戦って1942年に戦死した。残りの家族・母のグルバンソルタン・エジェ(トルクメニスタン人民英雄)と2人の兄は1948年の地震で死亡した。ニヤゾフはその後ソビエト連邦の孤児院で育てられ、次に遠くの親戚に預けられた。
孤児となったニヤゾフは優秀な成績で学校を卒業し、1959年、地質探査従事者労働組合トルクメン地域委員会で教官として働く。1962年から共産党員となり、その後レニングラード工業大学に入学し1967年に卒業した。大学卒業後、ニヤゾフはビュズメイ水力発電所で電気技術者として働いた。
ニヤゾフは1970年から1980年までトルクメン共産党中央委員を務め、1976年、通信教育でソ連共産党中央委員会附属高等党学校を卒業、1980年にアシガバート市委員会第一書記となった。1984年モスクワでミハイル・ゴルバチョフに見いだされて、1985年3月にトルクメン・ソビエト社会主義共和国首相、同12月トルクメン共産党第一書記と超特急の出世をした。ニヤゾフはゴルバチョフの綱紀粛正・反民族主義の方針に合い、1984年から1985年までソ連共産党中央委員会の党組織業務教官を務めた。
1985年にムハメットナザル・ガプロフの後任として、トルクメン共産党第一書記に就任して以来、2つの国の政界のトップとして活動した。1989年~1991年まで、ソ連人民代議員を務める。ペレストロイカ路線に忠実で、一定の民主化も行った。1990年1月13日、トルクメン共和国最高会議議長となり、ニヤゾフの指導の下で議会で独立主権宣言が採択され、10月17日に国民投票によりトルクメン共和国大統領に選出された。10月27日、国民投票の結果トルクメニスタンは独立国家と宣言された。独立後は豊富な天然ガス資源で豊かな国を作ることを目標にし、電気・ガス・水道を無料にするなどの人気取り政策も行っていた。
ちなみに、ニヤゾフをトルクメン共産党・第一書記に任命したのはゴルバチョフソ連共産党書記長で、日本テレビのスペシャル番組『緊急!ビートたけしの独裁国家で何が悪い!』では「トルクメニスタンとサパルムラト・ニヤゾフ大統領の生みの親」と紹介された。また、この番組において、トルクメニスタンでの政策に対してのゴルバチョフの意見や提案をニヤゾフ自身が「自分の国は自分で作る」と言い放つ形で断っていたことが明らかにされた。
ソビエト連邦の崩壊後憲法採択と関連して1992年6月21日、ニヤゾフはトルクメニスタンの大統領に選出された。1993年、議会(メジリス)によりテュルクメンバシュ(国父)の称号を授与された。独立後は個人崇拝色を強め、権威主義的な超独裁体制を敷き、人民会議により1999年12月には終身大統領と宣言され、旧ソ連初の終身大統領となった。メディアでも学校でも「祖国を、サバルムラト・テュルクメンバシュを、祖国の神聖な旗を裏切った時には、私の息は絶えるがよい」という誓いの詩が毎日唱えられた。2001年にはニヤゾフ著『ルーフナーマ(魂の書)』が発表され、「聖なる書」として扱われた。また、ニヤゾフは自らを預言者になぞらえていたが、イスラームの教えと矛盾するため国外のムスリムから批判された。
野党への弾圧、言論の自由を規制する(プロテスタントの宣教師を弾圧、オペラやバレエなど西洋芸術を否定するなど)といった、ニヤゾフの独裁的な政治は欧米諸国からの批判を多く受けた。2003年からは最高機関である国民評議会(ハルク・マスラハトイ)議長。
カスピ海沿岸の天然ガスを利用して資源大国化を目論み、主に輸出の5割を超す中華人民共和国とのパイプライン建設などを進めてトルクメニスタンの経済発展を成功させた。ニヤゾフ曰く、天然ガスは「国家の富の源泉」である。対外的には永世中立国(1995年国連総会承認)を宣言し、鎖国的な政策をとっていたが、企業に対しては開放的であった。しかし、企業経済的には未だ不安定である。
2005年の1月には、逢沢一郎外務副大臣と会談し、在トルクメニスタン大使館開設に関して、「日本からは多くの分野で経済協力の推進を期待している」と述べるとともに、「日本の国際連合安全保障理事会常任理事国入りを支持する」と述べた。
また1997年にはドイツで心臓バイパス手術を、2005年には眼の手術を受けており、ニヤゾフ自身の健康問題もクローズアップされていた。ニヤゾフは糖尿病も患っていたとされている。
2005年に近く70歳を迎えるとして、ニヤゾフ自らは候補者とならない大統領選挙を2009年に実施することを発表した(トルクメニスタンの憲法では、大統領は40~70歳までとされている)。すでに憲法を超越する存在であったニヤゾフのこの発表は各国を驚かせた。しかし、すぐに国民評議会は「国父は二人も必要としない」として大統領選挙は不要とした。
そうした中で、2006年12月21日未明にニヤゾフは急死した。トルクメニスタン政府により「心停止による急死」と発表された。66歳だった。ニヤゾフの死によって後継者を巡る混乱が懸念されていたが、ニヤゾフ政権下では副首相を務めたグルバングル・ベルディムハメドフ大統領代行がトルクメニスタンの第2代大統領に就任することで後継者問題は終息し、その後は脱ニヤゾフ化政策を行った。
両親(父アタムラト、母グルバンソルタン・エジェ)をトルクメニスタン人民英雄として神格化(母親の名前は4月の呼称にもなっている)する一方、北朝鮮やアゼルバイジャンのように権力の世襲体制を敷くことはなかった。
ユダヤ系ロシア人の妻ムザ・アレクセーエヴナとの間に1男1女を儲け、2人の孫を有した。息子のムラトはアラブ首長国連邦、娘のイリーナはイギリス、ロンドンに在住し、両者共に後継者とは目されていない。
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