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ナガサキ・シッピング・リスト・アンド・アドバタイザー(英語:The Nagasaki Shipping List and Advertiser)は、1861年6月22日(文久元年5月15日)から10月1日(8月27日)まで、イギリス人のアルバート・W・ハンサード(Albert W. Hansard)が長崎・大浦居留地で発行した英字新聞である。日本初の英字新聞とされている[1]。横浜居留地新聞「ジャパン・ヘラルド」の前身。
水曜4ページ、土曜2ページで週2回発行のタブロイド紙。長崎港に入港する船の情報が中心で各国領事館の官報、広報や外国人向けの長崎のニュースや長崎との往来が盛んだった上海などの外信も掲載された。しかし採算が合わなかったようで、わずか28号で廃刊となった。ハンサードはこの後、横浜居留地に移りジャパン・ヘラルドを創刊する。
ハンサードは上海から輸入した輪転機を使用。近代活字印刷の先駆者本木昌造門下の青年らに編集や制作、印刷等の協力を求めた。このとき新聞づくりに参加した陽其二は、その後日本初の日本語日刊新聞・横浜毎日新聞の創刊に尽力。平野富二は明治に入り東京での活字販売に成功し1876年(明治9年)に国から払い下げを受け、IHIの前身となる石川島平野造船所を設立する。
創刊者のアルバート・ウィリアム・ハンサード(Albert William Hansard, 1821-1869)はロンドンの印刷・新聞街として知られるフリート・ストリートの近く(1 Salisbury Square)で生まれた[2]。実家は祖父が始めた印刷所で、父親はウィリアム・コベットが発行していた英国議会議事録を印刷していたことから1812年にコベットから発行権を買い取って同書の発行を続け、現在も「ハンサード英国議会議事録」として続いている[3]。6人兄弟の末子の次男として生まれ[4]、10代のころは印刷所の見習い工として働き、22歳で結婚するも26歳で妻と息子を亡くし、1849年に娘を連れニュージーランドへ移住し不動産仲買人や保険代理人として働く[5][2]。31歳で再婚して子をもうけ、家業の関連会社を始めたが、36歳のときに後妻も亡くし、39歳の1860年に長崎に移住[5]。本紙の発行を始めたが28号で廃刊して横浜に移り、居留地新聞「ジャパン・ヘラルド」を創刊。併せて競売業も始めた[6]。助手として雇った元歌手のジョン・レディ・ブラック(快楽亭ブラック (初代)の実父)を共同経営者としたのち破産のためブラックに事業を譲り[7]、健康上の理由で1865年にイギリスに帰国し、翌年猩紅熱のため45歳で死去した[5]。ブラックは1867年に破産して「ジャパン・ヘラルド」を離れ、オランダ商人の出資を得て「ジャバン・ガゼット」紙を発行[8]、「ジャパン・ヘラルド」はハンサードの娘マリーの夫アルバート・トーマス・ワトキンス(Albert Thomas Watkins)が引き継ぎ競売にかけられた[6]。ワトキンスは上海の雑貨商で[2]、1868年に神戸居留地の最初の英字新聞となる『ヒョーゴ・アンド・オーサカ・ヘラルド』(Hiogo and Osaka Herald) を創刊した[9]。その後、1869年にオーストラリアから来日しデイリー・ジャパン・ヘラルド紙の記者になったイギリス人のジョン・ヘンリー・ブルック(John Henry Brooke)が1876年から1902年まで社主と主筆を務めた[8]。
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