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ジョルジーナ・リザーク

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ジョルジーナ・リザーク
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ジョルジーナ・リザークアラビア語: جورجينا رزق, Georgina Rizk、1953年1月3日 - )は、レバノンのモデル。ミス・ユニバース1971優勝(レバノン初、西アジア中東アラブ世界初)。名前についてGeorgina Rizakという表記もある[1]

概要 プロフィール, 生年月日 ...
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経歴

レバノン人の父親とハンガリー人の母親のもと、1953年1月3日ベイルートのクリスチャンホームに生まれる[2]

母親はそれ以前にイタリアで結婚していたことがあり、異父姉のFelicina Rossi(ファッションデザイナー)を生んでいる。ジョルジーナは英語、フランス語、イタリア語を話すが、イタリア語はフェリチーナから学んだ[3]

ミス・レバノン1970で優勝、国を代表してミス・ワールド1970に出場。入賞ならず[4]

1971年7月24日、ミス・ユニバース1971優勝[5]。レバノン代表、また西アジア・中東・アラブ諸国代表がミス・ユニバースで優勝した初めての事例である(アジア諸国代表として4人目)。レバノン政府は彼女の記念切手を発行する[3]。この頃、建築学を専攻するフランス人大学生Philippe Ducと交際していた[6]

その後

1972年7月29日プエルトリコで開催されたミス・ユニバース1972には参加できなかった。1972年5月30日に発生したテルアビブ空港乱射事件の死傷者の約8割がプエルトリコ人だったとされ、テロを恐れたレバノン政府はジョルジーナの出国を認めなかった[7][8]

1978年1976年という説もある[3])、黒い九月の指導者であるアリー・ハサン・サラーム[9]Ali Hassan Salameh[10])と結婚。ハネムーンでハワイとディズニーランド(カリフォルニア)をめぐる[11]。妊娠がわかるとベイルートのアパートに戻る。サラームも別にアパートを借りる[12]

1979年1月22日神の怒り作戦Operation Wrath of God)の一環として、サラームはモサドの設置した自動車爆弾で瀕死の重傷を負う。翌23日死亡[1]。このとき、ジョルジーナは妊娠6か月だった[12]

1990年、レバノンの歌手Walid Touficと再婚。2人の子供を儲ける[13]

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出典

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