アル・ケーライン

アメリカの野球選手 (1934 - 2020) ウィキペディアから

アル・ケーライン

アルバート・ウィリアム・ケーラインAlbert William "Al" Kaline, 1934年12月19日 - 2020年4月6日)は、アメリカ合衆国メリーランド州ボルチモア出身の元プロ野球選手右翼手)。右投右打。

概要 基本情報, 国籍 ...
アル・ケーライン
Al Kaline
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1957年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地 メリーランド州ボルチモア
生年月日 (1934-12-19) 1934年12月19日
没年月日 (2020-04-06) 2020年4月6日(85歳没)
身長
体重
6' 2" =約188 cm
180 lb =約81.6 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 外野手
プロ入り 1953年 (ドラフト制度なし)
初出場 1953年6月25日
最終出場 1974年10月2日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1980年
得票率 88.3%
選出方法 BBWAA選出
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現役22年間をデトロイト・タイガース一筋で過ごし、"Mr. Tiger"(ミスター・タイガー)と呼ばれた。

経歴

要約
視点

少年時代

ケーラインは1934年12月19日にメリーランド州ボルチモアで生まれる。家は非常に貧しく、身内でもセミプロの野球選手はいたが、家族は誰も高校まで進学した者はいなかった。

幼少時より少年野球を始め、主に投手をしていたが、ケーラインが8歳のときに自らの左足に骨髄炎を発症してしまい、その患部を除去する手術を受けたために終生左足にハンデを抱くことになってしまうものの、幸い投手であったことから左足に負担がかからずに少年時代を過ごせたという。

高校は地元・ボルチモアのボルチモア・サザン・ハイスクールに進学し、当初はバスケットボールアメリカンフットボールの選手だったが、怪我をしたことにより野球に転向する。高校の野球チームでは投手が多くいたため、外野手にコンバートされた。

後にケーラインは、高校時代の自らを「劣等生」と振り返るが、高校時代の教師と信頼を得たことで無事に高校生活を過ごし、そして野球選手になれたと振り返っている。

メジャーリーガー時代(1953年 - 1974年)

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1957年、当時22歳

1953年にケーラインは高校を卒業し、デトロイト・タイガースと契約。この時の契約金が3万5000ドル(現在のレートでは33万4459ドル)だったため、当時MLBに適用されていたボーナス・ルール[1]が適用され、同年6月25日タイガースに合流してメジャーデビューを果たし、同年は30試合に出場した。また、背番号も新人時代は「25」をつけていたが、その翌年より「6」をつけることになる。

1955年、20歳のケーラインは152試合に出場、同年のオールスターゲームにも初出場し、この後1967年まで連続出場する。そして、シーズン終了時のケーラインは打率.340、27本塁打、102打点、200安打の成績を記録し、MLB史上最年少の首位打者となり、これがケーライン唯一の打撃タイトルである。MLB史上最年少首位打者は、チームの大先輩タイ・カッブとわずか1日差であった。また、MVP投票でも同年受賞したヨギ・ベラに次ぐ2位投票数を獲得した。

1956年も前年の勢いで打率.314、27本塁打、128打点を記録するほか、守備でも18補殺を記録した。1957年、新たに創設されたゴールドグラブ賞を初受賞し、さらに1958年にも23補殺を記録する。

1961年、打率.324を記録し、同年首位打者になったチームメイトのノーム・キャッシュ(.361)に次ぐ打率だった。

1962年は開幕から35試合までに打率.345、13本塁打、38打点を記録したところの同年5月26日、ニューヨーク・ヤンキース戦の試合中に鎖骨を骨折して、この後57試合欠場という長期離脱を余儀なくされた。それでも、復帰後はシーズン終了までに100試合出場して29本塁打、94打点を記録しており、同年のシーズンオフは日米野球に参加(タイガース単独チーム)して来日している。

1963年は打率.312、27本塁打、101打点を記録し、MVP投票でも受賞したエルストン・ハワードに次ぐ得票数を挙げた。

1964年、幼少期より患った左足の骨髄炎から来る痛みに、このシーズンは終始悩まされる。そのため、シーズン終了後に左足の整形手術を受けることになる。 この年以降は怪我との戦いが多く、1967年夏にバットのラックに手をぶつけて骨折、翌1968年は腕を骨折して2か月も戦線離脱を余儀なくされた。
しかし、残されたチームメイトらの奮起やメイヨ・スミス監督の適切な起用もあり、チームはアメリカン・リーグ優勝を果たし、ワールドシリーズに出場することになる。セントルイス・カージナルスを相手に迎えたシリーズでのケーラインは29打数11安打、打率.379、2本塁打、8打点を記録し、チームを1945年以来となるワールドシリーズ制覇に貢献した。

1971年、年俸更改でケーラインはタイガースの選手として初の10万ドル(現在のレートで63万1306ドル)をチームより提示されるが、自身はこれを固辞し、9万5000ドルから10万ドルの間を希望する。これには前年の1970年シーズンの打率.278、21本塁打しか記録していなかったことが一因だったという。

1974年は前年より導入された指名打者としてすごし、同年9月24日、故郷ボルチモアでのボルチモア・オリオールズ戦にてデーブ・マクナリーから二塁打を放って通算3000本安打を達成。達成後に、今シーズン限りの現役引退を表明する。その後最終戦となる10月2日までに通算3007安打を記録して現役を引退した。

ケーラインの残した記録のうち、2834試合出場、1277四球、399本塁打はタイガースの球団記録で、特に本塁打はあと1本で400本塁打となっただけに惜しまれた。また、通算3007安打も、タイ・カッブの球団記録(3902安打)に次ぐ第2位と、堂々たる記録である。

引退後

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ケーラインの背番号「6」。
デトロイト・タイガースの永久欠番1980年指定。

引退の翌1975年から、2002年までジョージ・ケルらと共にタイガース戦の中継放送に関わり、2002年に退任した後はタイガースの球団特別顧問・アドバイザーとして、後進の指導を行った。

1980年に記者投票にてアメリカ野球殿堂デューク・スナイダーと共に殿堂入りを果たす。同年、殿堂入りを記念して古巣タイガースはケーラインの背番号6』をタイガース初の永久欠番に指定した。

現本拠地コメリカ・パークにあるケーラインの銅像は外野守備の名手らしく、外野フェンスに寄りながら捕球する姿となっている。

2020年4月6日、家族より死去したことが発表された[2]。85歳没。なお、死因は明らかにされていない。

選手としての特徴

詳細情報

年度別打撃成績

さらに見る 年 度, 球団 ...
















































O
P
S
1953 DET 30302897001102100--1--151.250.300.357.657
1954 13853550442139183417543957222--04521.276.305.347.652
1955 152681588121200248273211026806821255713.340.421.546.967
1956 15369361796194321027327128711470415510.314.383.530.913
1957 1496365778317029423276901196743733810.295.343.478.821
1958 146607543841703471626685743554624718.313.374.490.864
1959 13659551186167192272719410426721244211.327.410.530.940
1960 1476295517715329415235681945565334718.278.354.426.781
1961 15366558611619041719302821414566244216.324.393.515.909
1962 100452398781211662923694402447313917.304.376.593.969
1963 14561655189172243272831016434541244812.312.375.514.889
1964 146608525771543151724668412375635112.293.383.469.851
1965 125474399721121821818872600372110499.281.388.471.859
1966 14257247985138291292568855168175667.288.392.534.927
1967 1315504589414128225248788226831014716.308.411.541.952
1968 1023893274994141101405364135573394.287.392.428.820
1969 131518456741241702120469120754416111.272.346.447.793
1970 131555467641302441621071223777514920.278.377.450.826
1971 133501405691191921518754461682975712.294.416.462.878
1972 10631427846871121013232101528523311.313.374.475.849
1973 9134731040791301012245410529432810.255.320.394.713
1974 147630558711462821321764221565217512.262.337.389.726
MLB:22年 2834115971011616223007498753994852158313765451041277131551020271.297.376.480.855
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  • 各年度の太字はリーグ最高

年度別守備成績

内野守備
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一塁(1B)三塁(3B)
























1961 DET -111001.000
1965 -121001.000
1968 2215213415.976-
1969 9652031.000-
1970 5237431439.990-
1971 5271031.000-
1972 11374051.000-
1973 3624512132.996-
MLB 13590063997.991232001.000
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外野守備
さらに見る 年 度, 球 団 ...


左翼(LF)中堅(CF)右翼(RF)




































1953 DET 530001.0001181001.00040000
1954 --1352801690.970
1955 --1513061474.979
1956 100001239311.9771423031454.984
1957 561001.0002350230.9451362611022.993
1958 -4121001.0001423112224.994
1959 -121323440.98815380001.000
1960 -142364551.987-
1961 1000022671001.000141308843.988
1962 --100226841.983
1963 -230001.000139257520.992
1964 --136278633.990
1965 -621080001.0005183230.966
1966 -86177511.99554101210.990
1967 -100001302211462.975
1968 520001.000-70129130.977
1969 --118190974.966
1970 --91158321.988
1971 -350001.0001282036001.000
1972 --84110510.991
1973 --641021001.000
MLB 17111001.000489115622143.988203138651466128.985
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関連項目

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