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つながりの社会性(つながりのしゃかいせい)とは、社会学者の北田暁大が導入した用語で、自己充足的・形式主義的なコミュニケーション作法のことである。漢字で繋がりの社会性と表記される場合もある[注 1]。対義語は秩序の社会性。
北田暁大は2002年の著書『広告都市・東京―その誕生と死』にて、社会システム理論家のニクラス・ルーマンの理論を下敷きに、「秩序の社会性/つながりの社会性」という対比を行った。ルーマンは、コミュニケーションは情報内容の伝達自体で完結するものではなく、受け手がそれに対して応答することにより行為が接続されていく過程のことであり、その際に誤解(送り手の意図した意味内容と受け手の解釈した意味内容の齟齬)が生じる可能性を低めるために、適切な(あるいは不適切な)接続行為はどんなものかを決める社会システム(コード)が設定されているのだとしている。北田はその議論を受けて、コミュニケーションにおいて、設定されたコードに忠実にしたがって誤解を可能な限り回避するように行為を接続していく作法(意味伝達志向)を「秩序の社会性」とし、それと対照的に誤解を回避する努力を犠牲にしてでも円滑に(つまり場の空気を破壊しないように[1])行為が接続していくことそのものを重視する作法(接続志向)を「つながりの社会性」と名づけた。[2]
つながりの社会性は、若者文化を中心に1990年代以降に浮上してきたと考えられ、その背景にはインターネット文化や携帯電話の大衆レベルでの普及といったメディア・コミュニケーション環境の変容がある。1980年代までに優位であったテレビ・ラジオ・新聞といった公共的なマスメディアは受け手と送り手の間に設定されたコードに忠実に情報発信するという「秩序の社会性」を体現するものであり、あたかも大衆に「見られているかもしれない不安[注 2]」をかきたてるような存在であったが、1990年代に入って台頭したインターネット上では私生活を逐一ブログに書き込んだりWebカメラで撮影して配信し続けるなどする者が現れ、まるで「見られていないかもしれない不安」に駆り立てられているかのようにだれかとコミュニケーションを接続すること自体を志向する「つながりの社会性」が浮上するようになった。[注 3][4]
1980年代頃から、コンビニエンスストアがストレスから解放されて仲間とつるむたまり場として効率的に若者に利用されており、限定的にはつながりの社会性に相当するものが現れていたことがわかる。これが1990年代になると、(ポケベルを経て)携帯電話が普及したことによって特定の場所性に頼ることなくつながりの社会性が蔓延するようになった[5]。コンビニエンスストアは見知らぬ人の偶発的なコミュニケーションを可能にするのに対し、ポケベル・ケータイといったメディアはすでに見知った人との関係性を強化する手段であるという点が対照的となっている[6]。
コミュニケーションそれ自体が目的化することは北田以前にも論じられており、例えば社会学者の浅野智彦が、若者の間では関係性の構築自体を追求するコミュニケーション様式がみられることを指摘しているほか[7]、社会学者の若林幹夫は携帯電話でのメール交換は用件の伝達ではなく「ふれあい」を目的としたメディアであると論じている[8]。インターネット上での勢力を持つ言説についても、それは意味内容ではなく単純な祝祭感覚に駆動されているだけだとよく論じられ[9]、社会学者の鈴木謙介がネタ的コミュニケーション[注 4]として論じたものはつながりの社会性の類似概念と考えられる[12]。
哲学者のジャン=フランソワ・リオタールは、ポストモダンを大きな物語(社会に共有される理想・規範などの全体性・共同性)が衰退して多数の小規模な物語(島宇宙)が乱立する状態と条件づけて論じた。これを元に、批評家の東浩紀が主に1995年以降の日本社会を「データベース消費(全体性を無視した個別的な消費様式)」「動物化(記号的要素への脊髄反射的な反応)」として論じたり、社会学者の宮台真司が「意味から強度へ」「まったり革命」「終わりなき日常を生きろ」といったキーワードで論じたりしていたが[注 5]、北田の議論や前述の浅野智彦の議論も同様の文脈に位置づけることができる[15][16]。つながりの社会性は、従来の秩序の社会性を維持するために必要とされるような「送り手と受け手の間に共有されるコード」という共同性が失墜したことによって浮かび上がってきたものであり[17]、細分化した各島宇宙の中で、そこへの帰属意識を再確認することを目的とした自己充足的なコミュニケーションが行われていると考えられる[16][18]。
社会学者・批評家の濱野智史によれば、つながりの社会性と類似した「つながり」をテーマとした書籍や論考はゼロ年代半ば頃から量産されており、それらはおおよそ「若者論」「日本論」「電子民主主義論」の3つに大別できるという[9]。
社会学者の栗田宣義は、具体的かつ物理的な空間で会する従来型の相互行為が、仕事や余暇のためにといった外部に目的を有したつながりを基調としやすいのに対し、アンダーグラウンド・コミュニケーションと呼び、つながること自体が目的となる自己充足的なあり方を基調としやすい、としている。これには携帯電話の普及で、いつでも、どこでも連絡し合える利便性と気楽さが情報を曖昧なままにしておくことを可能にしており、メールを介しての相互行為が常態化されているため、実際に会って話す事も減り、対面状況よりも何らかの電子メディアを介した相互行為の方が質・量共に優勢となり、むしろ対面状況の相互行為を統制する場合がままある事がある事が挙げられる[19]。
若者論としてつながりを論じたものは、しばしば携帯電話や2ちゃんねるといった新規メディアへのバッシングに結びつく。俗流若者論批判で知られる後藤和智は、北田の議論もその批判の対象としており、きわめて限定された範囲内で確認される事柄についてサブカルチャーと社会学を牽強付会に結びつけたものにすぎないと指摘している[20]。そして、北田の議論を含む「コミュニケーションの内容よりもそれが行われていること自体を重視する」ような一連の言説について、接続自体が目的化していると論じられる2ちゃんねるなどでも真剣な論争が行われている事例はあるとして「議論の内容」に注目すべきだと述べている[21]。ビジネス書においては「つながり」が肯定的に捉えられるのに対し、若者論ではそれが否定的に評価される理由として、若者にとってのつながりは、それが(たとえばビジネスの世界で豊かな人脈を確保するといったような)なんらかの目的を達成するための手段として利用されているのではなく、コミュニケーションの接続自体を目的化している点にあると濱野智史は述べている[22]。
日本論としての「つながりの社会性」の議論は、場の空気を読むことを重視する日本のコミュニケーション作法をつながりの社会性と関連付けるもので、濱野智史自身もつながりの社会性に順応した形で設計されたと解釈できる日本のネットサービスは、空気を読むことを基調とする日本の文化の上に成立しているとしている[23](他方で、FacebookやTwitterのように、友人に対して自分の行動履歴を即時的に通知できるように設計されたSNSが米国でもゼロ年代後期に台頭していることから、日本におけるつながりの社会性が世界へ波及・拡散する可能性も示唆している[24])。北田の議論は日本の若者文化やインターネット文化を題材として展開したもので、その内容は日本国外にはあまり知られていないが[25]、日本とアメリカで主要SNSサイトの総ユーザー数に対する総ページ更新数を比べると日本のサイトの方が高い(つまり日本人のほうが頻繁にページ更新を行っている)ことなどから日本でより強くつながりの社会性が機能していると考えられる[26]。ただし、携帯電話を持っていなかったりすぐに返信できなかったりすると不安になるというような利用者の傾向は、携帯電話の普及率の高い北欧でも確認されている[27]。
電子民主主義論としては、2004年から2年間にわたって開催されたised(情報社会の倫理と設計についての学際的研究)において日本のインターネット環境で電子民主主義の成立を目指す際に内容ベースの討議を妨げると考えられるつながりの社会性を克服することができるかということが主要な論点となり[28]、つながりの社会性は同研究会でもきわめて頻繁に参照される概念となった[29]。
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