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日本の作詞家 (1934-) ウィキペディアから
新潟県立新発田高等学校在学中に若山牧水の「白鳥は哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ」に出会い、身の震えるような感動を覚える[1]。立教大学文学部中退後は北海道に渡り、業界新聞記者、セールスマン、興信所調査員、ルポライターなどを経験[1]。青島幸男と知り合ったことが契機となり、以後放送作家[2]として各種音楽番組を手がけるが、仕事上「昭和歌謡全集」(新興楽譜出版社)を隅々まで目を通したことで、歌謡詩に興味を持つようになる[1]。
作詞活動は1967年から美川憲一の「ネオン化粧」でデビュー[2]し、西城秀樹「情熱の嵐」、松崎しげる「愛のメモリー」等、ヒット曲を世に送り出す。西城とは1971年頃に親しいレコード会社のディレクターから「今度、広島の沢田研二と言われている子を出すから、(詞を)書かないか」と言われ、上京してきた西城とレコード会社で初めて面会[3]。たかは「背がすらっと高く、あいさつもハキハキしている好青年。何かオーラみたいなもの」を感じ、「格好いいなあ」という印象を抱いた[3]。デビュー曲「恋する季節」を「麻生たかし」のペンネームで書き、たかは「声に凄く特徴がある。押しつけがましくなく、突き抜けている声」に魅了され、当時よく見ていたアメリカのミュージカルスターを西城の姿に重ねていた[3]。「愛のメモリー」は「万葉集」から、藤原鎌足が采女安見児を得たときに詠んだ歌「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり」を基に作詞し[4]、スペインの「マジョルカ音楽祭」に作ったラブ・バラード風のスケールの大きな曲で、松崎の歌唱力をアピールするに相応しく最優秀歌唱賞、総合2位になる[2]。
1980年に作詞家として独立し、五木ひろし「おまえとふたり」、川中美幸「ふたり酒」、美空ひばり「おまえに惚れた」、都はるみ&岡千秋「浪花恋しぐれ」を送り出す[2]。1987年には新人であった坂本冬美の「あばれ太鼓」で80万枚を超える大ヒットを記録し、坂本は第29回日本レコード大賞新人賞を受賞[2]。
作詞活動の傍ら、日本作詩家協会副会長、日本音楽著作権協会理事、日本音楽作家団体協議会常任理事も務める[1]。
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