かつての深夜ラジオ番組 ウィキペディアから
1969年6月3日より放送開始。放送時間は月曜 - 土曜深夜[注釈 1] → 月曜 - 金曜深夜 24:30 - 27:00(0:30 - 3:00)。1978年4月から、月曜 - 金曜深夜 25:00 - 27:00(1:00 - 3:00)に変更した。
生放送で、パーソナリティのトークと聴取者からの葉書、リクエスト音楽によって構成された。 若き日の土居まさる、みのもんた、橋本テツヤ、落合恵子、吉田照美といった歴代の文化放送の人気アナウンサーを筆頭に1970年代後半は当時の人気アイドルである郷ひろみなどをパーソナリティに起用したり、東京へ本格進出する以前に地方(特に大阪、名古屋地区)の深夜放送での人気を背景に笑福亭鶴瓶、兵藤ゆきを起用するなど、バラエティ豊かなパーソナリティ陣を擁し、同時間帯に放送した『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)、『パック・イン・ミュージック』(TBSラジオ)と並び、深夜放送の全盛期を支え、「深夜放送 御三家」と呼ばれた[1]。パーソナリティはアイドル的 人気を誇り、土居まさる、橋本テツヤは深夜放送の人気を背景にテレビ司会者に転向して、成功した。
末期は放送時間を30分 縮小して、完全に『オールナイトニッポン』と『パックインミュージック』の裏番組となった。
期間 | 月曜日 | 火曜日 | 水曜日 | 木曜日 | 金曜日 | 土曜日 | |
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1969.4 | 1969.12 | みのもんた | 橋本テツヤ | なかにし礼 | 小島まこと | 土居まさる | 金原亭桂太 |
1970.1 | 1970.3 | 加藤諦三 | 桂竜也 | ||||
1970.4 | 1970.9 | はしだのりひこ | 桂竜也 | 橋本テツヤ | |||
1970.10 | 1971.9 | 土居まさる | みのもんた | かまやつひろし | 落合恵子 | 加藤諦三 | |
1971.10 | 1972.9 | かまやつひろし はしだのりひこ |
野末陳平 | ||||
1972.10 | 1973.3 | 谷村新司 ↓ 谷村新司 ばんばひろふみ |
せんだみつお | みのもんた | 黒沢順一 | ||
1973.4 | 1973.9 | 中田秀作 | 落合恵子 | せんだみつお | |||
1973.10 | 1974.9 | せんだみつお | 落合恵子 | 土居まさる | 黒沢順一 | 下田逸郎 | |
1974.10 | 1974.12 | 落合恵子 | グレープ | せんだみつお | なべおさみ 水沢アキ |
梶原茂 | |
1975.1 | 1975.9 | せんだみつお | グレープ | 山本雄二 水沢アキ | |||
1975.10 | 1976.3 | 山本雄二 | (放送終了) | ||||
1976.4 | 1977.3 | 甲斐よしひろ | 井上順 | ||||
1977.4 | 1977.9 | なぎら健壱 | 山本雄二 | ||||
1977.10 | 1977.12 | 佐々木功 | |||||
1978.1 | 1978.3 | (週替わり) | |||||
1978.4 | 1979.3 | かぜ耕士 | 笑福亭鶴瓶 | 吉田照美 | 長谷川きよし | 吉田拓郎 | |
1979.4 | 1979.9 | 岸田智史[2] | ふとがね金太 | ||||
1979.10 | 1979.12 | (不明) | |||||
1980.1 | 1980.3 | 浜田省吾 | |||||
1980.4 | 1980.9 | 兵藤ゆき[2] | 吉田照美 | ||||
1980.10 | 1981.3 | 桜田淳子[2][注釈 2] | 郷ひろみ[2] アン・ルイス[2] ↓ 郷ひろみ ピンク・レディー |
大友康平[2] | |||
1981.4 | 1981.9 | やしきたかじん | 郷ひろみ | ぽん太 (小林寛子)[注釈 3] |
大友康平 | ザ・ぼんち |
1981年9月をもって、帯番組としての『セイ!ヤング』は終了し、後番組はそれまでのような若者向け深夜放送ではなくなった。
グレープ時代にパーソナリティを務めていたさだまさしは終了の方針を聞き、「若者向けの深夜番組が復活するまで、俺が(文化放送の)深夜放送の灯を守り続ける」と『セイ!ヤング』の名を引き継ぐ形で、同年10月10日より土曜深夜に『ナイト&ラブ さだまさしのセイ!ヤング』の放送を開始した(後に『さだまさしのセイ!ヤング』と改題)[3][4] 。さだの話芸と、リスナーの投稿はがきに支えられて、1994年4月2日で終了するまで、放送期間12年半、放送回数600回を越える長寿番組となった。また、さだがはがきを読む際に「**の**さんから。いらっしゃーい」と言って土鈴を鳴らすことでも知られていた[5]。
さだは、年間百数十公演という多忙なコンサートツアーやレコーディングをこなしながら(さだはソロコンサート開催4000回超という日本記録を持っている)、原則として生放送で放送した[3]。このため、当時長野県諏訪市に構えていた自宅の最寄である信越放送諏訪放送局やツアー先の最寄りの放送局、時には宿泊先のホテルから放送が行われることも多かった。
1986年1月18日の放送は、群馬県での公演を終えてすぐ、移動途中からでも生放送が出来るように中継車に乗って文化放送に向かったが、23時の時点で到着できず、文化放送まであと数百メートルという所で急遽イタリア料理店に入って生放送を始め、小声で痔の内容のはがきを読み始めた。しかし、ゲストの堀内孝雄が既にスタンバイしているとあって、改めてスタジオに向かうことにし、6分53秒の曲『もーひとつの恋愛症候群』(アルバム『自分症候群』収録)を流し、これとCMの間にさだはスタジオに入り改めて生放送を開始した[6]。
1988年8月6日の放送は、長崎市内で行われたコンサート『夏 長崎から さだまさし』の終了後、長崎放送からの生放送だったが、さだが遅れて間に合わなかったため、本番組で月1回映画情報を担当していたおすぎと、当時のさだのマネージャー・廣田泰永がつないだ。23:30前にさだが到着し、コンサートのお礼などを話し始めたが、この日のコンサートの出演者だった松山千春も入り、さだ・松山・おすぎによる暴露のし合いなどでトークが盛り上がり、結局この日は1枚もはがきを読めずに番組が終わるという珍しい回となった[6]。
なお、レコーディングやコンサートツアーなどの都合上、どうしても生放送ができない回は録音放送を行った。ただし、録音とは一切言わず、「諸般の事情」と称して放送した。この際には、後述する通常の生放送とは違う企画で放送されることが多かった。
公開番組ではなかったが、文化放送(新宿区若葉の局舎当時)からの放送時には「通りがかりの人々」としてファンがスタジオに入っていたこともある。これは住宅街にある局舎前に入り待ち・出待ちのリスナーが深夜たむろすることによる、周辺への影響を懸念した局側の特別措置であった。
公式に「スタジオに入って番組を見ることができます」と明言する公開放送ではなく、放送時間中に文化放送前に来てしまったリスナーをやむを得ず入れる形であるために、番組上は(半ばネタの意味合いも込めつつ)「文化放送内に入って第1スタジオの中を通るルートで徒歩移動中だったが、ふと脇を見るとさだまさしが番組をやっていたので」足を止めて見て笑っている、あくまでも通りかかっただけの人たちである、という設定がとられた。番組が終了する24時半は、終電も出てしまった時間ということもあり、この時間文化放送に来ること自体やその帰路についてもリスナー個々の自己責任での行動が求められた。止むなく行っていたこととはいえ、局やスタッフ側のリスナーへの一定の信頼と、その信頼に応えるべくマナー遵守を徹底したリスナー側、双方の関係が極めて良好であったからこそ可能になった稀有な例と言える[5]。
後の『セイ!ヤング21』月曜日でも文化放送から公開を行ったが、情勢の変化による局舎保安上の問題や録音が多かったことなどから、「通りがかりの人々」の名前を残しつつも事前申込制となった。2020年代の現在においても、このような措置をとる局は存在しないといってよい。
以下の局は飛び乗り。
ここでは主に番組末期の1990年代初頭のものを記す。さだは1枚でも多くリスナーのはがきを紹介することを優先していたため、シンガーソングライターがやっている番組なのにもかかわらず、歌がほとんどかからない回も多かった。また、さだの妹の佐田玲子がゲストとして来ることも多かった。
これらネタはがきコーナーは、後の『セイ!ヤング21』月曜日でも江戸落語の昇進システムを用いた「お笑い三流亭」、料理人としてシェフを目指す「お笑いリストランテ」が放送された。
コーナーの後は何枚か普通のはがきを読み、廣田マネージャーやゲストなどとフリートークをしていた。その後『主人公』のピアノ演奏が流れ、さだが「岩手の皆さんを待ちましょう」と言って、24:00となる。
一時期この枠は消滅するが、リクルート提供(クレジット上は海外旅行情報誌「AB-ROAD」名義)で『さだまさしのセイ!ヤングアネックス』として復活する。ここで紹介するのは主に「アネックス」時代のコーナーである。番組末期のスポンサーは、当時さだがテレビCMのキャラクターを務めていたダスキンが務めた。
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1988年頃、当時はアルミニウムの価格が比較的高かったので、捨てられているアルミ缶を集め、廃品回収・リサイクル業者に売却し、その売却益で車椅子を購入し寄付しようというボランティア企画が番組内で行われた。当時はまだアルミ缶が少なく、またアルミニウムのリサイクルはアルミニウムを生産するよりも電力消費量が格段に少なく済むため環境に優しいという配慮もあった。
東京都新宿区内のさだまさしの関係する施設(店舗)が一次集積場所とされたが、遠隔地在住の番組リスナーに対してはアルミ缶を宅配便などで送ることは、送料等がむしろ高コストになることからしないよう呼びかけ、どうしても協力したいリスナーは番組に対するメッセージを送る封書に、プルタブ(プルトップ)を同封することで、余計な送料をかけずに参加するよう呼びかけられた。当時のプルタブは缶から外れる構造だったため、プルタブの散乱も社会問題となっていた背景もあった(1990年代以降は、缶から外れにくいステイオンタブ式が主流となったため、プルタブが散乱する問題はほとんどなくなった)。
やがて番組企画は終了したが、現在も小学校を中心に番組企画と同様にアルミ缶を回収、あるいは短絡的に捉えステイオンタブ式のプルトップのみをわざわざもぎ取って回収を行うボランティア活動が行われることがある[9][10]。また一部では「プルトップを集めれば車椅子に交換してもらえる」といった都市伝説が生まれることにもなった。
1994年4月改編から『Come on FUNKY Lips!』がスタートするによって若者向け深夜放送が帯番組で復活の運びとなりさだの公言していた「文化放送の深夜放送の灯をともし続ける」目的が達成され、また『大学受験ラジオ講座』が平日から土日のみの放送に移行するため『セイ!ヤング』枠が消滅することや、さだが生放送でのスタイルで喋り続けることが年齢的にきつくなり本業である歌手活動に差し支えるおそれがあったことなどが重なり、番組降板を示唆。その結果、1994年4月をもって『さだまさしのセイ!ヤング』は終了し、『セイ!ヤング』自体も1969年6月~1981年9月の帯番組時代と合わせて24年10ヶ月にも渡る歴史に一度幕を降ろした。
さだは本番組終了後の1994年4月から1998年3月に、この番組のコンセプトを応用した録音番組『(有) さだまさし大世界社』(土曜15:00 - 15:55)を担当した。また、2006年元日未明にNHK総合テレビで放送された『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』は、この番組をテレビ上で再現しようというコンセプトであり、その後も『今夜も生でさだまさし』として月1回ペースで放送されている(詳細は同番組の項目を参照のこと)。2009年末にさだが年越しコンサートを開始して以降は文化放送はコンサートの中継( 『さだまさしカウントダウンスペシャル』 )を行うようになり(東海ラジオにも同時ネット)、一部時間帯はコンサート終了後に生放送を行う『年の初めはさだまさし』との同時放送を行うこともある。
セイ!ヤング放送開始から40年を記念して、文化放送では聴取率調査週間である2009年6月12日夜に『さだまさしのセイヤング』[11]、6月19日夜には『泉谷しげるのセイヤング』[12]として久々に放送が行われた。
2022年4月1日、文化放送 開局70周年ウィークの一環として、『ヴァイナル・ミュージックSP いとうあさこのセイ!ヤング』を同日 3:00 - 5:00[注釈 4]に放送した。番組テーマ曲はセイ!ヤング同様、『夜明けが来る前に』ロック調のアレンジバージョン。
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