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阪神3011形電車(はんしん3011がたでんしゃ)は、阪神電気鉄道が1954年に導入した優等列車用の電車である。
阪神3011形電車 | |
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基本情報 | |
運用者 | 阪神電気鉄道 |
製造所 | 川崎車輛・汽車製造・日本車輌製造 |
製造年 | 1954年 |
製造数 | 15両(3両編成5本) |
運用開始 | 1954年8月13日 |
消滅 | 1964年(3561形・3061形へ改造) |
主要諸元 | |
編成 | 3両編成 |
軌間 | 1,435 mm |
電気方式 | 直流600V |
最高速度 | 110 km/h |
車両定員 | 120人(先頭車) |
自重 | 29.9 t |
全長 | 19,000 mm (先頭車) |
全幅 | 2,800 mm |
全高 | 4,145 mm |
車体 | 高抗張力鋼 |
台車 |
住友金属 FS-202 東芝 TT-6 (3041F) |
主電動機 |
東洋電機製造 TDK-858-B 東芝 SE-516 (3041F) |
主電動機出力 | 59.7 kW |
駆動方式 | 直角カルダン駆動方式 |
制御方式 | 抵抗制御 |
制御装置 | 東芝 MM-1A |
制動装置 | 電空併用自動空気ブレーキ(AR-D) |
備考 | 登場時のデータ |
1954年に梅田 - 三宮間をノンストップ25分で走行する、梅田 - 元町間の特急用2扉クロスシート車両として製造された、阪神電鉄初の高性能車両である。その後の輸送事情の変化に合わせてロングシート化・3扉化改造され、3561形・3061形となった。
本項では、3011形→改造後の3561形・3061形の順に、両形式を紹介する。
全長約14m、幅約2.3mの小型車が運転されていた阪神にとって、大型車の導入は戦前から長らくの悲願であった[1]。施設面では1933年に開業した神戸市内地下線をはじめ、1939年開業の梅田地下駅、さらにそれより以前の1924年に開業した伝法線(現・阪神なんば線)が大型車導入可能なようになっていたほか、阪神本線の各駅も大型車が導入された際にすぐに対応できるよう、ホームを削って後退できる構造になっていた。
大型車の寸法は幅9フィート2インチ・長さは60フィート(メートル法では幅2.8m、長さ18.3m)を想定していた[1]。この寸法の大型車体は851形の計画当初において採用する構想もあったが、諸般の事情から見送られた経緯があった[2]。
車両面でも、1930年代中期にはすでにPCCカーに関する情報を入手しており、これをモデルとした新設軌道線(本線・西大阪線・武庫川線等)向けの軽量で高出力の主電動機を装備した大型車の研究を開始していた。1937年登場の併用軌道線(国道線・甲子園線・北大阪線)向けの71形では、PCCカーで採用された超多段制御装置をモデルとした油圧カム軸式の芝浦製作所製RPM-100を搭載するなど、大型車導入に向けた新技術の採用は進められていた。
1938年の阪神大水害や太平洋戦争末期の戦災、戦後も枕崎台風やジェーン台風によって施設、車両の面で何度も甚大な被害を受けたが、1948年の福島付近のカーブ改良を皮切りに、大型車導入に向けた施設改良工事は順次推進されていった。
ライバル路線の阪急神戸本線や鉄道省東海道本線(京阪神間の急電・緩行)とも戦後の混乱期を脱して復興への道を進んでいた。1949年には阪急の特急と日本国有鉄道(国鉄)の急電が復活、車両面でも同年には阪急に新車の800系が、翌1950年には阪急に810系が、国鉄には関西急電色の80系が投入された。
大阪(梅田) - 三ノ宮(三宮)間の所要時間は国鉄の24分、阪急の28分に対して阪神は36分を要し、戦前から在籍の小型車主体の阪神本線は競争力を失い、1952年の阪神間の1日あたりの直通旅客数は阪神4,257人に対し阪急11,000人、国鉄14,700人と、阪急に対して4割弱、国鉄に対しては3割弱のシェアしか有していなかった。
阪神は大型車導入に向けた施設の改良を進める一方で、1951年には技師長の野田忠三郎をアメリカ・カナダに派遣して技術・経営の実地調査に当たらせたほか、運輸省の昭和26, 27年度科学技術応用研究補助金の支給を受けて1121形1130を種車にカルダン駆動の長期試験を実施、その実績をもとに学識経験者や国鉄、あるいは自動車メーカーの研究者や技術者を招聘し、設計に携わった[2]。
1953年6月には川崎車輛(現・川崎重工業車両カンパニー)・汽車製造・日本車輌製造の各社に対して新車の発注を行った。製造は順調に進み、1954年5月24日に阪神初の高性能大型車として、3011(Mc, 制御電動車) - 3013(M, 中間電動車) - 3012 (Mc) の第1編成が納入され、7月までに3両編成5本の15両が出揃った。
3011形は阪神初の本格的高性能車であるとともに、初の18・19m級となる大型車でもあった[3]。また、同年登場した東急5000系や小田急2200形と並んで、日本の鉄道車両史上高性能電車黎明期の車両として紹介されることが多い。
当初はMc-M-Mcの3両固定編成で登場[4]、車両番号は3011 (Mc) - 3013 (M) - 3012 (Mc) といった形で、10位が編成番号を示し、1位で連結位置を示した。このため当初は301形とも称されていたが、後にトップナンバーの車両番号から3011形と呼ばれるようになった[5]。3011, 3021, 3031の3編成が川崎車輛、3041編成が汽車製造、3051編成が日本車輌製造で製造された[6]。
車体は、高抗張力鋼を多用し[8]、車体構造もモノコック構造に近づけるなど、軽量化に留意した設計となった[4]。前面は非貫通形2枚窓のいわゆる湘南形の流れを汲んだ形状であるが、車端部や裾部にRが設けられているなど、丸みを帯びているのが特徴である[9]。中央下部に車両番号が表記され、正面上部に前照灯、左右の前面窓上に標識灯・尾灯を装備し、前面中央窓下に種別表示板を取り付けた。
全幅は2.8m、全長は先頭車が19.05m、中間車が18.15mとなっており、特に先頭車の全長は阪神の歴代車両の中で最長である[10]。
側面窓配置は先頭車d1D7D1(d:乗務員扉、D:客用扉)、中間車1D7D1、端部に片引戸の幅1,200mmの客用ドアを設けた2扉車で、客用窓は扉間に幅1,150mmの大型の2段式側窓が設けられていたほか、妻側と運転台側に戸袋窓が1個取り付けられた。また、連結面の窓はカーブして側面に至る曲面ガラスが採用された[5]。塗装は上半分がベージュ、下半分があずき色である[8]。
車内は座席にセミクロスシートを採用、扉間に片側5組のボックスシートを設置、扉の前後にはロングシートが配置された[5]。シートモケットは当時の国鉄の二等車に倣った臙脂色として高級感を演出した[10]。
通風装置も電動発電機 (MG) の風道を兼ねた強制通風式のもので、車体中央部に左右2箇所ずつ設けられた空気取り入れ口を活用して換気を行ったほか、冬季には抵抗器の廃熱を風道に送り込んで車内暖房にあてていた[11]。登場時の新聞報道ではこの通風装置が冷房装置と誤認して紹介されている。
全電動車方式を採用したほか、駆動方式は直角カルダンが採用された[8]。直角カルダン方式は日本の標準軌車両の量産車としてはこの3011形が初採用となった[12]。阪神では後の急行用3301形・3501形、普通用5001形(初代)・5101形・5201形で直角カルダンが採用されたが、以後の形式では平行カルダン方式に移行している[13]。
また、3041Fと他の編成では台車と主電動機が異なり、台車は3041F以外の編成が住友金属工業製コイルバネ付のFS-202を装着したが、3041Fは東芝製TT-6を装着した。主電動機も3041F以外は東洋電機製造製TDK-858-Bを搭載したのに対し、3041Fは東芝製SE-516を搭載した。いずれも出力は59.7kWで、1両あたり4基搭載される。
制御器は東芝製の発電ブレーキ付電動カム多段式であるMPM形のMM-1Aを装備し、各車の制御器でそれぞれの車両のモーターを動かす1C4M制御であった。制動装置は電空併用自動空気ブレーキのAR-D形を装備した[14]。パンタグラフは各車両に搭載され、両先頭車での搭載位置はいずれも連結面側であったため、中間車のパンタグラフと隣接している。
1954年5月25日から伝法線において試運転を開始して、8月13日の第36回全国高等学校野球選手権大会開幕日に臨時列車として営業運転を開始した[6][16]。続いて1954年9月15日のダイヤ改正で設定された梅田 - 元町間の特急列車として運転を開始し、大阪梅田 - 神戸三宮はノンストップ25分運転となった[8][6][16]。
なお、本形式の登場時に阪神は最高速度110km/hの認可を得たほか、特急の運転士は指導運転士の中からさらに15人を選抜して任命するなど、ソフト、ハードの面で周到な準備を施した。このように満を持して登場した特急の効果は絶大で、運転開始直後の1954年10月の阪神間直通旅客数は約8,000名を数えるまで激増し、翌1955年の調査では8,821人と、1952年の倍以上にまで増加した。
特急の運転は昼間時のみのため、運転開始前後や早朝の急行運用にも充当されたほか、朝夕ラッシュ時は準急や1957年に新設された区間急行[注釈 1]にも充当された。1957年のダイヤ改正では特急の運行時間を拡大した。
1959年4月のダイヤ改正では梅田、元町両駅を19時40分以降に20分間隔で発車し、主要駅に停車する夜間特急の運転を開始した。夜間特急の停車駅は甲子園、西宮、芦屋、御影、三宮であった[16]。
登場以来本形式の編成は3両を基本としていたが、特急の乗客増に伴って混雑が目立つようになった。また、1958年の急行系「赤胴車」の第一陣である3301形・3501形や普通系「ジェットカー」の試作車である5001形(初代)の登場によって車両の大型化が本格的に開始された。1960年9月のダイヤ改正では、5101形・5201形30両の投入によって昼間時の普通運用を全車ジェットカーで運転するとともに、特急も従来の20分間隔から10分間隔に倍増の上、ノンストップ運転は廃止され西宮、芦屋、御影の各駅にも停車するようになり、特急運用に3301形・3501形が混用されるようになった[注釈 2]。3011形の特急はこのダイヤ改正から4連で運行することとなり、編成の組み換えが実施された。
本形式は1M方式のため編成の組換えがしやすく、全貫通編成が2本と先頭車同士を組み合わせて4連を組成した編成1本の合計3本12両が4連化され、3連の編成は1本が残った。この残った3連には他編成と搭載機器の異なる3041Fが充当され、朝夕の準急運用に限定して使用された。1963年2月のダイヤ改正では特急が赤胴車の4両編成、3011形の5両編成での運行となり、3011形は全貫通編成が1本と3連+2連の編成が2本の5連×3編成に再組成された[17]。
3011形は前面非貫通でブレーキ方式も異なり、クロスシートも混雑への対応が困難となったため、1964年に架線電圧の直流600Vから直流1,500Vへの昇圧準備改造と前面貫通化、ロングシート化の改造が実施された[17]。
15両中14両が3561形・3061形に改造・改番され、先頭車が3561形、中間車が3061形となった[18]。先頭車3052号は中間車の3061号に改造、編成は4両編成3本と2両編成1本となった[17]。
この改造で1両が余剰となり、先頭車の3021が当時増備途上の7801・7901形に編入、付随車化され7901形7922に改番された[19][20]。車体は3扉となり、台車は改造時に他の7901形同様851, 861, 881形から捻出されたボールドウィン78-25AAに換装された。
3561・3061形は、1964年に特急車の3011形を改造した急行系車両の形式である。
1954年に特急用の大型高性能車として登場した3011形は、その後の輸送需要の変化によってロングシート・前面貫通式への改造を行い、急行用車両として共通運用されることとなった。これに伴って1964年に行われた改造・改番により登場したのが3561・3061形である[21]。
種車の3011形は全電動車でMc-M-Mcの3両編成が5本の計15両であったが、改造後は先頭車と中間車によるMc-MまたはM-Mcの2両ユニットが6本、先頭車同士のMc-Mcの2両ユニットが1本の計14両となった[21]。形式もMc車が3561形、M車が3061形となった[22][23]。余剰となった1両は電装解除・3扉化され7901形7922となった[21]。
先頭車10両のうち8両が貫通化改造を受け3561形に、中間車5両は3061形となり、不足する中間車1両は先頭車から中間車への改造で補われた[24]。両数は先頭車が3561形3561 - 3568の8両、中間車が3061形3061 - 3066の6両で合計14両となり、余剰となった1両である3021は7801・7901形に編入されている[25]。
3561形は流線形から貫通扉付の3枚窓となり、大阪向きと神戸向きがそれぞれ4両改造された。車内はロングシートに改造されたが、軽量構造の車体であったため、改造当初は2扉のままであった。妻面の曲面窓も他車と同じ通常の平面窓になった。強制換気装置は撤去されてグローブ形の通風器に変更された。塗装も上半分がクリーム、下半分が朱色の赤胴車標準色となった。
中間車は、先頭車の3052を中間車化改造[注釈 3]した3061と、既存の5両を改番した3062 - 3066からなる3061形となった。架線電圧1,500Vへの昇圧対応のため2両ユニット化され、3561形と3061形の2両固定が6本、3561形同士の2両固定が1本 (3567 - 3568) となった。旧3041Fで使用していた東芝TT-6台車、SE-516主電動機を、予備品および3021の電装解除品を活用して、旧3042の3568以外の全車は台車住友FS-202、主電動機は東洋TDK-858-Bに換装した。
制御器は昇圧対応型の東芝PE-15Bに換装されたほか、制動装置もAR-DからHSC-Dに換装された。HSC-Dはブレーキハンドルの角度で制動力を調整するセルフラップ機構を有しており、阪神では普通用5001形(初代)や急行用3301形・3501形から採用されている[28]。機器類の標準化により、他の赤胴車との併結が可能となった[22]。
この改造と1966年に実施された5001形(初代)のロングシート改造によって阪神ではクロスシートを装備する車両が消滅し、2001年に9300系が登場するまで40年近く、クロスシート車が在籍しないという状態が続いた[注釈 4]。
1967年11月の架線電圧の1500Vへの昇圧に伴う改造で、3561形と3061形は「おしどり方式」による2両ユニットとなった[21][31]。3567を除く大阪向きの車両[注釈 5]のパンタグラフ撤去改造が実施され、3567 - 3568以外はパンタグラフは2両で1基搭載となった。同時にATSの設置が行われた[21]。
1968年には住友製のFS-206台車を新造して3063に装着させ、3063のFS-202を3568に換装して、同車が装着していたTT-6を救援車155に転用した[21]。
1969年から1971年にかけて、3扉化改造が実施された[21]。この際に客室側窓はユニット式に改造され、側面窓配置は先頭車d1D3D3D1、中間車1D3D3D1[注釈 6]となった。同時に通風器もラインデリアになったほか、制御器は東芝製1C8M(1台で8個の主電動機を制御)のPE-15BHに再度換装された。
冷房改造は1974年から1975年にかけて実施された[23][31]。他形式同様分散式MAU-13Hを神戸向き車には6個、大阪向き車[注釈 7]には7個搭載し、パンタグラフは冷房装置搭載場所の確保のため下枠交差式になった。引き続いて列車無線装置のVHF方式への改造や車外放送装置の設置が行われたが、種別・行先表示器は設置されなかった。
改造後の運用は、本形式だけで4連を組むこともあったほか、2連単位で他形式の増結車に充当されることもあった。西九条 - 元町間の西大阪線特急(通称「N特」)での運用も存在した[34]。阪神の部内では「マルカイ」(丸形車の改造)と呼ばれた[35]。
3561・3061形は全長の長い3061号を含むユニットや3567・3568の2両ユニットが編成に組み込まれると編成長が伸びることから、運転や検修の際に注意が求められていた[35]。冷房化改造後は重量増加や老朽化のため発電ブレーキの使用が停止され、発電ブレーキを装備しない7000番台各形式と同様に扱われたとされている[35]。
登場から30年経過した3561・3061形は、老朽化のため1984年より廃車が開始され、8000系により代替が進められた[19]。1985年までに2両ユニットの3567・3568を除いて廃車され、本線での運用は消滅した[10]。
残った3567・3568の2両は、西大阪線(現・阪神なんば線)で運用されていた[10]。この編成は青木駅で乗客(児童)が通過列車の風圧により転倒死する事故が発生した際の当事車両だったこと(最終期の西大阪特急で運用されていた際に発生した事故)から、その裁判資料(証拠品)とされたものである。
1989年9月にさよなら運転が実施され、3567・3568に7801・7901形を併結した6両編成による本線での特急運転が行われた[21]。この最後の2両も同年11月29日付で廃車となり、3561形は形式消滅した。
3021から7901形に編入された7922号車も、1990年7月16日付で廃車となり消滅した。譲渡および保存車両は存在しない。
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