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日本の画家 ウィキペディアから
野田 九浦(のだ きゅうほ 1879年(明治12年)12月22日 - 1971年(昭和46年)11月2日)は、昭和時代の日本画家。本名は道三。「九甫」とも表記。祖父は漢文学者の野田笛浦。弟に脚本家の野田高梧がいる。
東京下谷生まれ。4歳から父が税関長をつとめた函館で過ごし、函館商業学校で学ぶ。1895年に寺崎広業と共に上京し師事。1896年に東京美術学校日本画科に入学するが、美術学校騒動(岡倉天心排斥運動)により1898年に退学。白馬会研究所で黒田清輝に絵を学ぶ。正岡子規に俳句を学ぶ。1907年第1回文展で「辻説法」が二等賞受賞。同年大阪朝日新聞社に入社し、夏目漱石の「坑夫」の挿絵を描いた。大正6年まで勤務。
1912年に北野恒富と大正美術会を結成。1917年第11回文展で特選。 1937年、この年から始まった新文展の審査員に就任[1]。 1947年に帝国芸術院会員となり、日展に出展。画塾煌土社を設立。金沢美術工芸大学教授。狩野探幽の研究でも知られた。
晩年は東京都武蔵野市吉祥寺に暮らし、屋敷跡が市のコミュニティセンターとなっており「九浦の家」と名付けられている。作品および遺品は武蔵野市に寄贈され、武蔵野市立吉祥寺美術館に収蔵されているほか、スケッチブックなどはコミュニティセンターでも展示されている。
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