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日本の儒学者 ウィキペディアから
荻生 徂徠(おぎゅう そらい、寛文6年2月16日(1666年3月21日) - 享保13年1月19日(1728年2月28日))は、江戸時代中期の儒学者、思想家、文献学者。
名は
父は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の侍医だった荻生景明。弟は第8代将軍となる徳川吉宗の侍医を務め、明律の研究で知られた荻生北渓[3]。
朱子学や伊藤仁斎の仁斎学を批判し、古代の言語、制度文物の研究を重視する「古文辞学」を標榜した。古代の言語を全く知らないと朱熹を批判し、多くの場合、仁斎をも批判した。ただし、仁斎の解釈への批判は、それに相当する記述が『論語古義』に見えない場合もある。
江戸に生まれる。幼くして学問に優れ、林春斎や林鳳岡に学んだ。しかし延宝7年(1679年)、当時館林藩主だった徳川綱吉の怒りに触れた父が江戸から放逐され、それによる蟄居に伴い、14歳にして家族で母の故郷である上総国長柄郡本納村(現・千葉県茂原市)に移った[4]。 ここで主要な漢籍や和書、仏典を13年あまり独学し、のちの学問の基礎をつくったとされる。この上総時代を回顧して自分の学問が成ったのは「南総之力」と述べている。元禄5年(1692年)、父の赦免で共に江戸に戻り、ここでも学問に専念した。芝増上寺の近くに塾を開いたが、当初は貧しく食事にも不自由していたのを近所の豆腐屋に助けられたといわれている(「#徂徠豆腐」参照)。
元禄9年(1696年)、将軍・綱吉側近で幕府側用人・
享保7年(1722年)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問に与った。追放刑の不可を述べ、これに代えて自由刑とすることを述べた。豪胆で自ら恃むところ多く、支那趣味を持っており、中国語にも堪能だったという。多くの門弟を育てて享保13年(1728年)に死去、享年63。墓所は東京都港区三田4丁目の
荻生家は現代まで東京で続いており、伝来していた自筆稿本は1970年代にマイクロフィルム撮影され全集(後述)校訂に利用された[5]。荻生家は2022年、これら資料約150点を公共の文化財として保存・活用してもらうため東京大学駒場図書館に寄贈した[5]。儒学や経世論以外に、明代漢詩の注釈書『五言絶句百首解』、徂徠が考案したとされる独自ルールの広将棋解説書『広象棋譜面』、琉球王国江戸上り使節の記録『琉球聘使記』などが含まれる[5]。
朱子学を「憶測にもとづく虚妄の説にすぎない」と批判、朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読み解く方法論としての古文辞学(蘐園学派、日本の儒教学派においては古学に分類される)を確立した。支那趣味を持ち、文学や音楽を好んだ徂徠は、漢籍を読むときも訓読せず、元の発音のまま読むことによって本来の意味が復元できると考えた。
主著『弁名』『弁道』[6]では、「名」と「物」の関係を考察した。「名」とは道や仁義礼智のような儒教の概念のことであり、それは古代中国の聖人(先王)の時代には儀礼や習俗のことである「物」と一致していた。それは先王が「名」を与えることで「礼楽刑政」という儀礼体系を「道」(道徳ではなく社会制度)として成立させ、社会を創出したからである。しかし、後世になると「物」は忘れられ、「名」だけが残った。その「名」を南宋時代の意味で理解する朱子に対して、徂徠は「六経」を読むことで古代の「物」を考証し、本来の「名」を復元できると主張した。
古文辞学によって解明した知識をもとに、中国古代の聖人が制作した「先王の道」(「礼楽刑政」)に従った「制度」を立て、政治を行うことが重要だとした。徂徠は農本主義的な思想を説き、武士や町人が帰農することで、市場経済化に適応できず困窮(「旅宿の徒」)していた武士を救えると考えた。
徂徠は柳沢吉保や第8代将軍徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。人口問題の記述や身分にとらわれない人材登用論は特に有名である。これは、日本思想史の流れのなかで政治と宗教道徳の分離を推し進める画期的な著作でもあり、こののち経世思想(経世論)が本格的に生まれてくる。服部南郭をはじめ徂徠の弟子の多くは風流を好む文人として活躍したが、『経済録』を遺した弟子の太宰春台や、孫弟子(宇佐美灊水弟子)の海保青陵は市場経済をそれぞれ消極的、積極的に肯定する経世論を展開した。兵法にも詳しく、『孫子国字解』を残した。卓越した『孫子』の注釈書と言われている。
直接の弟子筋の他にも徂徠学に影響を受けた者は多い。大坂の町人が運営した私塾である懐徳堂では朱子学者の中井竹山などが徂徠学を批判した[7]。その中からは富永仲基のような優れた文献学者が輩出されていった。また、本居宣長は古文辞学の方法に大きな影響を受け、それを日本に適用した『古事記』『日本書紀』研究を行った。徂徠学の影響力は幕末まで続き、西洋哲学者の西周は徂徠学を学んでいた。
元禄赤穂事件における赤穂浪士の処分裁定論議では、林鳳岡をはじめ室鳩巣、浅見絅斎などが主君のための仇討を賛美して助命論を展開したのに対し、徂徠は義士を切腹させるべきだと主張した(後述のように異説あり)。
と述べている。これは、幕府の諮問に対して徂徠が上申したとされる細川家に伝わる文書だが、真筆であるかは不明[8]。
同じく、浅野家赤穂藩があった兵庫県赤穂市も『徂徠擬律書』は、幕府に残らず細川家にのみ残っていること、徂徠の「四十七士論」(下記)と徂徠の発想・主張に余りに違いがありすぎることから、後世の偽書であるとの考察をしている[9]。
徂徠の弟子・太宰春台が、「徂徠以外に『浪士は義士にあらず』という論を唱える者がなく、世間は深く考えずに忠臣と讃えている」と述べている点から徂徠の真筆であると思われる[12]。
落語や講談・浪曲の演目で知られる『徂徠豆腐[13]』は、将軍の御用学者となった徂徠と、貧窮時代の徂徠の恩人の豆腐屋が赤穂浪士の討ち入りを契機に再会する話である。江戸前落語では、徂徠は貧しい学者時代に空腹の為に金を持たずに豆腐を注文して食べてしまう。豆腐屋は、それを許してくれたばかりか、貧しい中で徂徠に支援してくれた。その豆腐屋が、浪士討ち入りの翌日の大火で焼けだされたことを知り、金銭と新しい店を豆腐屋に贈る。ところが、義士を切腹に導いた徂徠からの施しは江戸っ子として受けられないと豆腐屋はつっぱねた。それに対して徂徠は、
「豆腐屋殿は貧しくて豆腐を只食いした自分の行為を『出世払い』にして、盗人となることから自分を救ってくれた。法を曲げずに情けをかけてくれたから、今の自分がある。自分も学者として法を曲げずに浪士に最大の情けをかけた、それは豆腐屋殿と同じ。」
と法の道理を説いた。さらに「武士たる者が美しく咲いた以上は、見事に散らせるのも情けのうち。武士の大刀は敵の為に、小刀は自らのためにある。」と武士の道徳について語った。これに豆腐屋も納得して贈り物を受け取るという筋。浪士の切腹と徂徠からの贈り物をかけて「先生はあっしのために自腹をきって下さった」と豆腐屋の言葉がオチになる。
「人生には三つの坂がある。上り坂、下り坂、そして『まさか』という坂」という語句は、この徂徠豆腐のセリフである。
『荻生徂徠全集』は、みすず書房と河出書房新社から出版されたが、ともに未完結である[14]。
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