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立見 尚文(たつみ なおふみ/なおぶみ[1]、1845年8月21日(弘化2年7月19日) - 1907年(明治40年)3月6日)は、幕末の桑名藩士、日本陸軍の軍人[2]。最終階級は陸軍大将。男爵。通称は鑑三郎。号は快堂。変名に倉田巴。
実父は桑名藩士(江戸詰め、200石)の町田伝太夫[3]。桑名藩士・立見尚志の養子となった[3]。松平定敬が桑名藩を継いだときに小姓となる。少年期より風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られる。藩校立教館、湯島の昌平坂学問所に学ぶ。
藩主松平定敬の京都所司代就任に伴い京都で藩の周旋役を任される。その後幕府陸軍に出向。歩兵第3連隊に籍を置きフランス式用兵術を学ぶ。フランス教官をして「立見は天成の軍人である。ナポレオンの頃フランスに生まれていたら恐らく30になる前に将軍になっていただろう」と感嘆せしめたという[4]。
徳川慶喜謹慎後も藩内においては実兄・町田武須計らと共に抗戦を主張し、鳥羽・伏見の戦いにおいて大敗を喫した桑名藩の軍制を立て直す。その後、土方歳三と連繋し宇都宮城の戦いで武功を上げる。
桑名藩領の柏崎へ移ってからは実績を買われて投票で雷神隊の隊長に選抜され、続く鯨波戦争・北越戦争ではゲリラ戦を展開して官軍を度々苦しめた。特に北越戦争における朝日山の戦闘では、奇兵隊参謀時山直八を討ち取る殊勲を挙げる。その後会津若松城に赴き、城下の戦いで敗走。出羽国寒河江の長岡山において最後の抵抗をするが、奥羽列藩同盟の中で最後まで抵抗していた庄内藩が降伏した後、明治政府軍に降伏した。
戊辰戦争の敗戦の後は出羽庄内(現在の山形県鶴岡市)において謹慎生活を送る。赦免の後は、戊辰戦争において新政府軍の敵側だった立見は陸軍では出世が望めないと考え、裁判官となり身を立てる。
しかし士族反乱が相次いで起きると、かつての指揮能力を評価され、1877年に請われて明治陸軍入りする。西南戦争では陸軍少佐として旅団一個大隊を指揮。西郷隆盛を討ち取る部隊を率いたことにより、勝利の立役者となった。
日清戦争では陸軍少将として歩兵第10旅団長。その後、陸軍大学校長事務取扱、台湾総督府軍務局長。
日露戦争では陸軍中将として第8師団を率い出征する。黒溝台会戦では、グリッペンベルク率いるロシア第2軍の冬季大規模攻撃を受けた日本軍左翼の重要拠点である黒溝台を救援に向かう。数倍のロシア軍との戦闘は激烈を極め、日本側も増援する中、立見は師団兵力の半数を失いながらも黒溝台を回復し、会戦はロシア軍の退却で終結した。
これらの功績により、旧幕府軍出身者ながら日露戦争終結の翌1906年に陸軍大将に昇進。しかし大将昇進直後に体調を崩して病気休職となり、それから間もない翌1907年3月に61歳で死去した。墓所は青山霊園附属立山墓地。
幕末から明治期において最高の指揮官と言われた。特に野津道貫は「東洋一の用兵家」と高く評価している。
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