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東京都目黒区にある複合施設 ウィキペディアから
目黒雅叙園(めぐろがじょえん)とは、東京都目黒区にある、結婚式場・ホテル・レストランなどの複合施設である。運営法人の株式会社目黒雅叙園(K.K. Meguro Gajoen)はワタベウェディングの完全子会社。土地施設全体は、外資系ファンドのラサール・インベストメント・マネージメントが設立した特別目的会社が所有している。2017年4月1日、ホテル雅叙園東京に施設名称を変更した[2]。
石川県羽咋郡下甘田村出身の創業者・細川力蔵が、1928年(昭和3年)に東京・芝浦にある自邸を改築し、純日本式の料亭「芝浦雅叙園」を経営していたが、東京府荏原郡目黒町大字下目黒字坂下耕地一帯および岩永省一邸[注 1]として記録された建造物を入手し、増改築を進めて1931年(昭和6年)に目黒に「目黒雅叙園」と名付けた料亭を開業した[3]。これは、日本国内最初の総合結婚式場[要出典]でもあった。
本格的な北京料理や日本料理を供する料亭だったが、メニューに価格を入れるなど当時としては斬新なアイディアで軍人や政治家、華族層以外の一般市民の料亭利用者を増やした。また、中華料理の店で一般に見られる円形のターンテーブル(二層構造の円形テーブル上部に料理を載せ回転させることで取りやすくするもの)も1931年(昭和6年)細川力蔵の考案[4]で、その後に中国大陸へ伝わったもの、という説もある[注 2]。
1945年(昭和20年)8月15日正午、大西瀧治郎中将は終戦の玉音放送を軍令部の中庭で聞いた後、当時、海軍病院の分室だったこの雅叙園を訪れて同期生の多田海軍次官を見舞った。その深夜、渋谷区南平台の官舎に帰り、翌16日に特攻作戦の責を取るとして遺書[注 3]を残して14時45分に割腹自決を遂げた。
木造(旧館)の目黒雅叙園は太宰治の小説『佳日』にも登場する。絢爛たる装飾を施された園内の様子は「昭和の竜宮城」とも呼ばれ、ケヤキの板材で作られた園内唯一の木造建築「百段階段」(実際は99段)とその階段沿いに作られた7つの座敷棟宴会場の内の4つは、2009年(平成21年)3月16日に東京都指定の有形文化財(建造物)に指定された[5]。「十畝(じっぽ)の間」、「漁樵(ぎょしょう)の間」、「草丘(そうきゅう)の間」、「静水(せいすい)の間」、「星光(せいこう)の間」、「清方(きよかた)の間」、「頂上(ちょうじょう)の間」、計7つの中から4棟の座敷棟が指定された。映画「千と千尋の神隠し」の湯屋のモデルにもなったもので、樹齢百年の床柱や天井、壁面、ガラス窓にいたるまで贅を凝らし、昭和初期における芸術家達の求めた美と大工の高度な伝統技術が融合した素晴らしい装飾となっている。希望者は申請すれば観覧が可能となっており、イベントや宿泊、食事とのセットで公開されている。2010年(平成22年)1月29日から3月3日までの期間、初めて「百段雛(ひな)まつり」という豪華絢爛な催しが行われた(第一回)。日本全国にある雛文化の中から、非常に贅を尽くしたものが多いといわれる山形の雛を中心に、上記7つの宴会場で飾られることとなり盛況を博した。
昭和初期に建設された木造の旧館においては、敗戦直前の昭和19年頃まで、戦時下の国民が苦しい時局や贅沢禁止令下にもかかわらず、大勢の著名な画家や彫刻家、塗師が出入りし、あるいは泊り込み、部屋ごとに女中と書生付きで数年にわたり内装や絵画作品を完成させたという。金泥の制限で時局の悪化を知ったという画家の逸話もある。その結果、文展やかつて帝展に出品された数多くの作品を所有し館内を飾った。その数は数千点にもおよぶ膨大なコレクションであり、旧館取り壊し時に額装保存された天井画や欄間絵とともに、新館に併設された美術館(目黒雅叙園美術館)で定期的に観覧に供したが、美術館は2002年(平成14年)に閉鎖されて、多くの作品群は散逸し個々の所在は不明である。
現在の敷地は1991年11月に、総工費850億円で大リニューアルしたものである。旧館の老朽化と、隣接する目黒川の水害対策の拡張工事が重なったことから、検討の末、膨大な美術品を修復して移築復元する方法がとられた。設計・施工は日建設計および鹿島建設による。
創業者・細川力蔵亡き後は、合資会社雅叙園として同族による経営が行われてきたが、運営会社であった雅秀エンタープライズは2002年(平成14年)に経営破綻し、外資ファンドリップルウッド・ホールディングスに買収された。雅秀エンタープライズは、現在の株式会社目黒雅叙園として再建され、2004年(平成16年)5月にはワタベウェディングがその株式の66%を取得して傘下におさめた[6]。ワタベウェディングは2005年(平成17年)1月に残り34%も取得(合計100%)、目黒雅叙園を完全子会社とした[6]。2007年(平成19年)には経営破綻した福岡山の上ホテル(福岡県福岡市中央区)の再建スポンサーとなり、傘下におさめている。
2014年8月、森トラストが目黒雅叙園及びアルコタワーなど施設のすべてを、所有するローンスターから買収した後[7][8]、2015年1月、中国政府系ファンドの中国投資有限責任公司(CIC)から資金提供[9][10][11]された米ファンドのラサール・インベストメント・マネージメント・インクが取得した[12][13][14]。
2017年4月1日、ホテル雅叙園東京に施設名称を変更した[2]。
創業者の細川力蔵(1889~1945)は石川県下甘田村米浜(現・志賀町)の農家の六男として生まれ、大阪尋常小学校を10歳で終え、15歳で上京し神田の風呂屋で住み込みで働き始めた[15]。23歳で独立し、芝区芝一丁目で銭湯と瓦斯コークス販売を始めた[16]。中野貫一の長男・忠太郎と知り合い、忠太郎は芝浦に来るたびに力蔵を風呂の三助として指名した。芝浦で土地払い下げがあることを力蔵から聞いた忠太郎は1919年に16万坪を450万円で購入した。力蔵はその謝礼として忠太郎から大金と当地の管理を任され、1920年に芝浦商事株式会社を設立して不動産業を始めた[15][17]。1922年には葉山の芝崎海岸に洋館、和館に部屋数約50室という宏大な別邸を建設[15][18]。関東大震災の翌年、南浜町会(芝浦一丁目会)の会長に就任、1928年には芝浦の自宅を中華料理屋にし「芝浦雅叙園」として開業、1931年に目黒雅叙園を始めた[15]。芝浦花街の三業組合の理事長となり、芝浦花柳界の見番(現・港区立伝統文化交流館)を建設。棟梁には、目黒雅叙園も手がけた酒井久五郎が当たった[19][20]。後妻の敏子は子爵の東坊城徳長の二女(庶子)で、その弟妹に東坊城恭長、入江たか子がいる[21]。長男の細川力(1923年生)は42歳で早世[18]。
「アルコタワー」(Arco Tower)[22]および「アルコタワー・アネックス」(Arco Tower Annex)は、雅叙園の敷地内にある高層オフィスビルで、全面改装時に建築されたもの。高さ103m。
主な入居企業として、アマゾン・ジャパンなど外資系大企業の日本法人が多数挙げられる。かつてはウォルト・ディズニー・ジャパンやマースジャパン、ポルシェ・ジャパン、スクウェアなども入居していた。
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