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日本の武士、官僚、政治家 ウィキペディアから
田中 不二麿(たなか ふじまろ、1845年7月16日(弘化2年6月12日)- 1909年(明治42年)2月1日)は、明治期の日本の政治家、教育行政家[1]。位階爵位は正二位勲一等子爵。号は夢山。名前は「不二麻呂」とも表記され、幕末には寅三郎(とらさぶろう)、国之輔と称した。明治新政府での著名人物としては非常に稀少な尾張藩出身の人物である。
田中 不二麿 たなか ふじまろ | |
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生年月日 |
1845年7月16日 (弘化2年6月12日) |
出生地 |
日本・尾張国名古屋城下 (現・愛知県名古屋市) |
没年月日 | 1909年2月1日(63歳没) |
死没地 | 日本・東京府東京市小石川区目白 |
出身校 | 明倫堂 |
前職 | 官僚 |
称号 |
正二位 勲一等旭日桐花大綬章 子爵 |
配偶者 | 須磨 |
子女 | 阿歌麿(長男)、芳子(養女・河合弘民妻) |
親族 | 都留子(妹)、静子(妹・岡見清致妻)、薫(孫) |
第2代 司法大臣 | |
内閣 | 第1次松方内閣 |
在任期間 | 1891年6月1日 - 1892年6月23日 |
在任期間 | 1884年5月14日 - 1885年12月22日 |
在任期間 | 1881年10月21日 - 1884年5月14日 |
第3代 司法卿 | |
在任期間 | 1880年3月15日 - 1881年10月21日 |
在任期間 | 1878年3月5日 - 1880年3月15日 |
その他の職歴 | |
文部大輔 (1874年 - 1880年) | |
文部少輔 (1873年 - 1874年) |
尾張国名古屋城下出身。慶応3年12月(1868年1月)、新政府の参与となる。明治4年(1871年)、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って教育制度の調査に当たった。帰国後は文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導したが、明治13年(1880年)に司法卿に転じた。以後、参事院副議長、駐伊特命全権公使、駐仏特命全権公使、枢密顧問官、司法大臣を歴任し、晩年は再び枢密顧問官を務めた。
尾張国名古屋城下に尾張藩士の子として生まれ、長じて藩校・明倫堂で和漢古典を学ぶうちに勤皇思想に心酔した。成績優秀につき藩参与に取り立てられる。
時あたかも幕末の動乱期であり、佐幕か尊王攘夷かで尾張藩も意見が二分したが、尊攘派の「金鉄組」に属した。徳川御三家という、藩論を論ずるにあたり大変な神経を使う藩情にもかかわらず、尊皇攘夷の大道を説き続け、同僚の丹羽賢、中村修(後の名古屋市長)らとともに尊皇攘夷建白書を家老ほか藩内要職者に提出。また京に足を運び彼地の尊皇攘夷論者と頻繁に接触した。
青松葉事件以後、実権を握る徳川慶勝の右腕となって藩論の統一に尽力し、一躍藩の内外にその名を知られるようになる。慶応3年(1867年)、王政復古の大号令を受けて参与に任命、同日の小御所会議に尾張藩代表として出席した。
慶応4年(1868年)正月、官軍に徴士。翌年、大学御用掛を拝命し、教育行政に携わるようになる。
明治3年(1870年)、徳島藩で庚午事変(稲田騒動)が勃発すると、特命を受けて現地に急行。関係者聴取の上で短日月の内に報告書を上程し、迅速な騒動鎮定に大いに寄与した。
明治4年(1871年)10月、文部大丞になる。11月12日岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手とし、欧米の学校教育を見聞する。帰国後、欧米教育制度を紹介した『理事功程』15巻を著す。
明治7年(1874年)、9月27日文部大輔となる(1880年まで文部行政の中心となる)。外務卿・陸奥宗光と共に、観測のため来日したメキシコ天文観測隊を歓待し、近代日墨国交の端緒を開く。1876年、フィラデルフィア万国博覧会の視察をかねて渡米し、アメリカ各州の教育行政の調査を実施した[2]。1878年12月、公議による教育政策の決定を提唱して「教育国会ヲ創設スルノ議」を公表した[3]。
明治12年(1879年)、教育令を建白。学制が廃され同令が施行される。教育令は学制にある画一的なあるいは民生圧迫的な側面を退けて、アメリカ式の地方主体の自由主義教育を基調としたもので、6歳から14歳の間における義務就学期間をわずか16ヶ月とし、校舎を設けず教員の巡回で教育を行う移動教育の導入、私立学校の開設認可制度を取り入れるなど画期的なもので親や町村の教育負担を著しく軽減した。
一方において、音楽取調掛を設け、伊沢修二らを欧米に派遣し『蝶々』『霞か雲か』『ローレライ』等のドイツ民謡を教育現場に取り入れると共に音楽教育の近代化を図り、あるいは伊沢と共に体操伝習所を設置し近代体育教育を導入なおかつ日本人身体の科学的調査を行ない、また女子校や幼稚園の開設に関与した。
しかしながら、未就学児の増加ならびにいわゆる学力低下を招いたとして政府内で批判が強まり、教育令実施による学事停滞とその欧化主義的政策展開の責を負って翌明治13年(1880年)3月12日、司法卿に配置換えとなる。
以後は教育行政から遠ざかり、参事院議官、駐イタリア公使、駐フランス公使、枢密顧問官をへて明治24年(1891年)、「藩閥色を薄めるために薩長出身者以外の閣僚を」との伊藤博文・山縣有朋らの要請を受け第1次松方内閣の司法大臣を拝命。後、位階正二位に任ぜられ子爵を授与される。
明治25年(1892年)、司法官弄花事件の影響により司法大臣を辞職する。
明治29年(1896年)11月12日、改正条約発効の準備のための改正条約施行準備委員会副委員長に就任した。
明治42年(1909年)、目白の自宅において65歳で没[4]。墓所は谷中霊園からあきる野市の五日市カトリック墓地に改葬されている。子に地質学者・田中阿歌麿(あかまろ)、孫に経済地理学者の田中薫がいる。
井上ひさしの戯曲『國語元年』は明治7年(1874年)の東京にある架空の文部官吏の邸を舞台に、登場人物がそれぞれのお国訛りを喋ることで好事家の興味をそそる作品であるが、主人公に「全国統一話言葉(はなしことば)制定取調」を任命する上席役人として“文部少輔田中不二麿閣下”が登場する(厳密には主人公が「田中閣下はこう申された」と発言を引用される形)。作中での田中は激しい名古屋弁で主人公を叱責する。
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