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唐澤 富太郎(からさわ とみたろう、1911年4月7日 - 2004年8月11日)は、日本の教育学者、東京教育大学名誉教授。日本教育史を研究。
新潟県出身。東京文理科大学卒。奈良女子高等師範学校(現・奈良女子大学)教授、東京高等師範学校教授、1949年(昭和24年)に東京教育大学教授。1953年(昭和28年)「中世初期仏教々育思想の研究」で東京教育大文学博士。定年退職後、日本女子大学教授。1980年(昭和55年)に日本女子大退職。1993年(平成5年)、教育史の資料を展示した「唐澤博物館」を自宅敷地内(東京都練馬区豊玉北)に開設。
新潟県出雲崎で尋常小学校・尋常高等小学校時代を送る。成績は優秀で「操行並びに学業優秀に付きこれを賞す」の賞状が残されている。14歳で単身上京、豊島師範から東京高師、東京文理大と、師範教育の殿堂で研究に没頭した。戦前はドイツ哲学を学んだ。奈良女高師教授時代には学問場として栄えた古寺を訪ね、法相宗薬師寺の管主橋本凝胤の教えを、当時凝胤の弟子である高田好胤とともに受けた。
学位論文は中世仏教教育をテーマに道元・親鸞・日蓮を研究した。学んだ仏教観は研究対象として終わるだけでなく、生き方にも大きな影響を与えた。永平寺で座禅を組み道元の思想を体感したことがあり、食事・睡眠・排泄まで「日々の生活が則修行」とする生き方は、研究に向かう姿勢に反映した。研究生活には盆も正月も休みもなく、365日が仕事の日々だった。唐の時代の禅僧百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の言葉「一日不作一日不食」を筆で大書し、仕事部屋に掲げていた。
1949年(昭和24年)に東京教育大学に戻り、日本教育史を担当する。1955年(昭和30年)から1956年(昭和31年)にかけて、『学生の歴史』『教師の歴史』『教科書の歴史』から成る「近代教育史三部作」を出版した。その後世界の教科書に目を向け、54ヵ国の教科書を集めて1961年(昭和36年)に『教科書から見た世界の教育』を発刊する。この世界の教科書研究が注目され、1962年(昭和37年)にユネスコに招かれてドイツで講演を行い、また欧米16ヵ国の教育の現状を視察した。
教科書研究で一段落付いたところで、教育制度や法令といった旧来の子ども不在の教育史から離れ、現実にその時代を生き教育を受けた側である子どもに視点を取った教育の実態に迫ろうとした。どんな教材で学び、どんな道具で筆記し、どんな作品を作ったのか。子どもはどう評価されていたのか。家庭ではどんな手伝いをし、どんなおもちゃで遊び、どんな躾を受けたのか。子どもを取り巻く学校、家庭、社会生活にかかわる実物資料を通して、教育の実態に迫る試みだった。そのため、江戸時代の寺子屋から、戦後の墨塗り教科書などに至る100年あまりの子どもの生活文化資料を収集することになった。その数は数万点に及んだ。その一部、7000点余りが唐澤博物館に展示されている(見学は予約制)[1][2]。
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