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日本の実業家(1870−1961) ウィキペディアから
正田 貞一郎(しょうだ ていいちろう、1870年3月29日(明治3年2月28日) - 1961年(昭和36年)11月9日[2])は、日本の実業家。位階は正五位。勲等は勲三等。
生家は群馬県館林において「米文」の名で米問屋を営み、明治に入って醤油醸造業に従事した[3]。横浜で外国米輸入商売をしていた正田作次郎の長男として生まれるが、翌年父が風邪をこじらせて26歳で亡くなり、群馬県館林の祖父の下で育てられた[3]。
1884年(明治17年)上京、1887年(明治20年)東京高等商業学校(現・一橋大学)に入学[3]。外交官を志望していたが、卒業直前に家業を担っていた叔父が急逝したことから本家の家業を手伝うことになった[3]。親友の小田柿捨次郎に依頼し、サンフランシスコから製粉機械の輸入を行い[4][5][6]、1900年(明治33年)館林製粉株式会社を創立、専務[3]。1907年(明治40年)日清製粉を合併、館林製粉の名前は地方的な名前に聞こえるからと日清製粉の名を残した[3]。本社を東京に移して専務となり、1924年(大正13年)社長、1936年(昭和11年)会長、1949年(昭和24年)相談役[3]。
この間1929年(昭和4年)大日本麦酒の植村澄三郎とともに発起人となり、日本初の製パン用イースト製造会社・オリエンタル酵母工業を発足[3]。また、1931年(昭和6年)日本栄養食料(現日本農産工業)、日清製糸(現アテナ製紙)なども設立した[3]。17年東武鉄道会長[3]。1945年(昭和20年)5月の東京大空襲で日本農産工業社長を務めていた四男・正田順四郎を失う[3]。1946年(昭和21年)7月17日、貴族院勅選議員に任じられ[3][7]、研究会に所属し1947年(昭和22年)5月2日の貴族院廃止まで在任した[2]。
『正田貞一郎小伝』243頁「正田貞一郎年譜」より作成。
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