東奥義塾高等学校
青森県弘前市にある高等学校 ウィキペディアから
青森県弘前市にある高等学校 ウィキペディアから
東奥義塾高等学校(とうおうぎじゅくこうとうがっこう)は、青森県弘前市大字石川字長者森にあるキリスト教(プロテスタント)系の私立高等学校。通称は「義塾」。
お願いと注意・警告:「東奥義塾中学校」について記載する場合は、必ず改名を行ってからにして下さい。 |
弘前藩の藩校稽古館は、1872年(明治5年)5月、弘前漢英学校へと引き継がれたが、同年8月の学校制度改革により、廃止となった。このため、旧藩主である津軽承昭による財政的援助のもと、菊池九郎が創立者となり、旧藩校の教師、施設、教科書などがほぼ引き継がれる形で、同年11月、弘前漢英学校が開学した。まもなく菊池が学んだ慶應義塾にならって東奥義塾と名付ける。
1874年(明治7年)、英語教師として東奥義塾に来ていたジョン・イングの母校であるアズベリー大学に塾生5名を派遣。当初から高い給与で外国人教師を雇い、アメリカの教科書を使用していたため、1878年(明治11年)の『日本奥地紀行』の著者イザベラ・バードにカレッジと言われた。現に東奥義塾出身者5名が1877年(明治10年)に初めてアメリカに留学しているが、すぐに現地の大学に進学できるなど、現地の学生にひけをとらなかったとされている。
しかしながら、外国人教師はいずれも伝道者であり、伝道による宣教効果が上がるにつれ、また、本多庸一塾長などによる自由民権運動が活発化するにつれて、風あたりが強くなり、1882年(明治15年)末には旧藩主からの財政支援も途絶えることとなった。財政難から1901年(明治34年)3月末、弘前市へ移管されたものの、1910年(明治43年)、県立工業学校(現・青森県立弘前工業高等学校)の弘前設置(校舎は東奥義塾を転用)と引き替えに廃校することとなり、それまで県へ移管することとなった。県立工業学校開校に伴い、県立弘前中学校東奥義塾は1914年(大正3年)3月に廃校となった。その後、米国メソジスト・ミッション(伝道教会)と東奥義塾再興を願う地元関係者の働きで、塾長に笹森順造を迎え、1922年(大正11年)に再興となった。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.