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奈良県奈良市にある東大寺に伝来する仏像 ウィキペディアから
本項東大寺の仏像(とうだいじのぶつぞう)では、奈良県奈良市にある聖武天皇ゆかりの寺院・東大寺に伝来する仏像について説明する。
8世紀に日本の首都であった奈良を代表する寺院である東大寺は、「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。東大寺には、「奈良の大仏」として知られる、高さ約15メートルの盧舎那仏(るしゃなぶつ)像をはじめ、日本仏教美術史を代表する著名作品が多く所蔵されている。
本項では東大寺に所在する仏像彫刻について概観する。なお、東大寺の概要については「東大寺」の項を、大仏については「東大寺盧舎那仏像」の項を参照のこと。
東大寺は、8世紀に聖武天皇の発願で造立された盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)、いわゆる「奈良の大仏」を本尊とする寺院である。仏教による国家鎮護を願った聖武は、天平15年(743年)10月15日に「盧舎那仏造立の詔」を発した。大仏は当初近江国紫香楽(現・滋賀県甲賀市)で造り始められたが、計画を変更し、2年後の天平17年(745年)から大和国添上郡山金里(現・東大寺の所在地)であらためて大仏造立が始められた。大仏開眼供養が行われたのは天平勝宝4年(752年)4月9日のことである。国力を結集して造立した大仏は、治承4年(1180年)の平重衡の南都焼討と永禄10年(1567年)の三好・松永の兵火で罹災し、その都度復興された。現存する大仏は上記の2度の兵火で甚大な被害を受けており、奈良時代のオリジナルは脚部や台座などのごく一部に残るのみで、その他の大部分は中世および近世の補作である。大仏を安置する金堂(大仏殿)は、18世紀の再建であるが、伝統工法による木造建築としては世界最大級のものである[1][2]。
大仏殿の東方の若草山麓には、法華堂(三月堂)、「お水取り」で著名な二月堂などの堂宇があり、これらの堂宇が建つ地区を上院(じょういん)と称する。法華堂は、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の兵火をまぬがれて現存する奈良時代建立の仏堂であり、本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん、ふくうけんじゃくかんのん)像をはじめとする奈良時代の仏像群を安置している。この上院地区には東大寺の前身寺院である金光明寺があった。また、金光明寺のさらに前身の寺院として、「金鐘寺」(こんしゅじ、きんしょうじ)と「福寿寺」が存在したことが史料からわかっている。これら前身寺院はいずれも大仏殿東方の山麓にあったとみられるが、正確な所在地については諸説ある。また、法華堂の建立年次、法華堂本尊の不空羂索観音像の造立年次については、8世紀の第2四半期頃と見る点では異論がないが、正確な年次については諸説があり確定していない[3]。
治承4年(1180年)の兵火の翌年にあたる養和元年(1181年)、当時61歳の俊乗房重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)が東大寺復興の大勧進(総責任者)に任命された。同人の尽力により、兵火で罹災した大仏と大仏殿、中門、南大門が復興された。また、大仏の両脇侍像、大仏殿の四隅に安置された四天王像、中門の二天像、南大門の仁王像などの仏像群が、運慶、快慶ら、いわゆる慶派の仏師たちによって造立された。なお、大仏殿と中門は永禄10年(1567年)の兵火で再度焼けており、上述の鎌倉時代復興の仏像群のうち、現存するのは南大門の仁王像のみである[4]。
国宝。奈良〜江戸時代。像高14.73メートル。 国宝指定名称は「銅造盧舎那仏坐像」。一般に「奈良の大仏」として知られる東大寺の本尊像で、鋳銅製である。奈良時代に聖武天皇の発願で造立され、天平勝宝4年(752年)に開眼供養が行われた。ただし、現存する大仏は、脚部や台座蓮弁などの一部に奈良時代のオリジナルが残ってはいるが、頭部は江戸時代の、体部の大部分は鎌倉・室町時代の補鋳である。本像は、『華厳経』に説く、盧舎那仏(るしゃなぶつ)という名の仏である。盧舎那仏は「毘盧遮那仏」(びるしゃなぶつ)とも表記し、サンスクリットの「ヴァイローチャナ」(「あまねく照らす」の意)の音訳である。『華厳経』に説く「蓮華蔵世界」という広大無辺の世界の教主であり、宇宙の真理そのものを表す仏とされている[5]。
『続日本紀』によれば、聖武は天平12年(740年)2月、河内国大県郡(現・大阪府柏原市[6])の知識寺で盧舎那仏の像を拝した。このことが機縁となり、聖武は自らも盧舎那仏像を造立することを発願した[5]。聖武と光明皇后の皇子である基王(もといおう)は神亀5年(728年)、生後1年足らずで夭折した。その後も天皇周辺では長屋王の変(神亀6年・729年)、疫病による藤原四兄弟の相次ぐ死(天平9年・737年)、藤原広嗣の乱(天平12年・740年)など、不穏な出来事が相次いだ[7]。こうした時代背景で聖武は仏教に深く帰依し、仏教による国家鎮護のため、天平13年(741年)2月14日に「国分寺建立の詔」、天平15年(743年)10月15日に「盧舎那仏造立の詔」を相次いで発した[8]。行基を勧進(責任者)に任じて大仏造立の工事が始まったが、当初、大仏は奈良の東大寺ではなく、当時天皇の離宮があった近江国紫香楽(現・滋賀県甲賀市)の甲賀寺に造られる予定であった[9]。甲賀寺に造られつつあった大仏は、天平16年(744年)には骨柱(銅像を鋳造するための原型の骨組み)ができあがっていた[10]。聖武は在位中にたびたび遷都を行い、平城京から山背国の恭仁京に移った都は、難波京を経て、天平17年(745年)5月、ふたたび平城京へ戻った。平城還都とともに大仏の造立も平城京で行われることとなり、同年8月から大和国添上郡山金里(現・東大寺の所在地)であらためて大仏造立が始められた[11]。翌天平18年(746年)頃には大仏の土製の原型が完成し、天平勝宝元年(749年)には鋳造作業が一通り終わり、仕上げの作業に入っている[12]。大仏開眼供養が行われたのは天平勝宝4年(752年)4月9日のことである。この開眼供養の盛大豪華であったことは『続日本紀』に記録されており、同書は「仏教が日本に伝来して以来、このような盛大な儀式はなかった」(原文:仏法東帰、斎会之儀、未嘗有如此之盛)と述べている。この時点では大仏の鍍金(金メッキ)は完成しておらず、光背もまだ作られていなかったが、この天平勝宝4年(752年)が日本への仏教伝来の年(『日本書紀』によれば欽明天皇13年・西暦552年)から数えて200年目の節目の年であるということで、取り急ぎこの年に開眼供養を行ったとする説(吉村怜の説)が広く受け入れられている[13]。
大仏は治承4年(1180年)の平重衡の兵火(南都焼討)で甚大な被害を受けた。その後、東大寺再建勧進職に任じられた俊乗房重源の尽力によって復興勧進が行われ、大仏の鋳造は宋人・陳和卿の助力を得て完成し、文治元年(1185年)に開眼供養が行われた。建久6年(1195年)には再建大仏殿が落慶し、建仁3年(1203年)、後鳥羽上皇の行幸を得て、いわゆる「東大寺総供養」が行われた[14]。こうして鎌倉時代に復興された大仏と大仏殿は、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵火(東大寺大仏殿の戦い)でふたたび焼けてしまった。その後、大仏と大仏殿は仮復旧されたが、仮の大仏殿は大風で倒壊してしまい、大仏は長らく露座(雨ざらし)の状態であった。露座の大仏を見かねた龍松院公慶は貞享元年(1684年)、大仏復興勧進を開始。仮復旧の状態であった仏頭の補鋳などを行って、元禄5年(1692年)に大仏の開眼供養が行われた。大仏殿の落慶は公慶の没後の宝永6年(1709年)のことであった。これが現存する大仏と大仏殿である[2]。現存する大仏は、頭部は江戸時代、体部の大半は鎌倉時代と室町時代に造られたもので、奈良時代当初の部分は、脚部や台座の蓮弁などの一部に残るのみである。2度の兵火を経て残る台座の蓮弁には、線刻で仏・菩薩の像が表されており、奈良時代の絵画資料として貴重である[14]。
国宝。鎌倉時代(1203年)。寄木造。像高阿形836.3センチ、吽形842.3センチ。
国宝指定名称は「木造金剛力士立像」。東大寺の正門にあたる南大門内の左右に安置される、一対の金剛力士像である。金剛力士とは、いわゆる「仁王」のこと(以下本項では「仁王像」と表記する)。開口する阿形(あぎょう)像、口を閉じる吽形(うんぎょう)像の2体一対で、両像とも像高8メートルを超える寄木造の大作である。鎌倉時代を代表する仏師である運慶らが中心になり、建仁3年(1203年)に造立された。両像とも上半身裸形、下半身には裳(も)を着ける。頭には髻(もとどり)を結い、胸飾、腕釧(わんせん)、足釧(そくせん)を付け、肩から天衣を垂らす。阿形像は腰を右に捻って立ち、右腕は下げて長大な金剛杵(こんごうしょ)を肩に寄せかけるように持ち、左手は五指を広げる。吽形像は腰を左に捻って立ち、右腕は曲げた肘を高く上げ、第1・2指を捻じ、左手は金剛杵を持つ[15]。阿形像と吽形像には作風の違いがあることが指摘されている。阿形像は口髭や顔面に浮き出た血管を表現するのに対し、吽形像にはこれらの描写がなく、全体に大づかみな造形になっている。また、阿形像は頭部、体部、腕などがほぼ同一平面上にあり、全体に平面的、絵画的な作風であるのに対し、吽形像はむしろ立体的な奥行の表現にすぐれていると評されている[16]。こうした作風の相違から、平成の大修理で銘文が発見される以前は、阿形像を快慶、吽形像を運慶が主に担当したとする見方が有力であった[17]。しかし、平成の大修理時に、阿形像の持つ金剛杵の内面に運慶と快慶の名が書かれていることが発見され、吽形像の像内納入の経巻に定覚(じょうかく)と湛慶の名が見出されるに至り、これら4人の仏師(運慶、快慶、定覚、湛慶)が各像の制作をどのように分担したのか、あらためて議論を呼ぶことになった[18]。
創建時の南大門は、応和2年(962年)に大風で倒壊。『山槐記』に応徳元年(1161年)に南大門の再興が企てられたとの記載があるが、実際に再興が完成したのかどうかは定かでない。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では、大仏殿などが灰燼に帰したが、この時に南大門が焼けたという記録はなく、治承4年の時点では南大門の本格的な再建はされていなかった可能性がある[19]。治承の兵火後、俊乗房重源が中心になって行われた復興事業のなかで、大仏殿、中門とともに南大門も再建されることとなり、再建南大門(現存の門)は正治元年(1199年)に上棟した。仁王像の像立はその4年後の建仁3年(1203年)である[19]。『東大寺別当次第』によれば、仁王像の制作は建仁3年7月24日に着工され、同年10月3日に開眼。高さ8メートルを超える2体の木像の制作はわずか69日間で終わっている。同書によれば、仁王像は運慶、備中法橋、安阿弥陀仏、越後法橋の4人の大仏師が小仏師16人を率いて制作したという。このうち安阿弥陀仏とは快慶のことであり、備中法橋、越後法橋はそれぞれ湛慶と定覚を指すとみられる[20]。湛慶は運慶の長男で、蓮華王院(三十三間堂)本尊の千手観音坐像などの現存作品がある。もう一人の定覚については、同人が単独で作った仏像は現存せず、運慶らとの血縁関係の有無も不明である。大仏と大仏殿は戦国時代、永禄10年(1567年)の三好・松永の兵火で再度焼けたが、この時は南大門と仁王像は無事であった。1988年から1993年にかけて行われた仁王像の解体修理の際、像内からは経巻などの多くの納入品が発見され、また、像内各所に多数の墨書があることがわかった[18]。
本像には、その巨大さ以外にも、一般の仁王像とは異なる点がある。日本の他の寺院では、門の向かって右に阿形像、左に吽形像を配するのが通例だが、東大寺南大門像では通例とは逆に、向かって右に吽形像、左に阿形像を配する。また、一般に仁王像は正面向き、つまり、南側を正面とする門であれば南向きに安置するのが普通であるが、東大寺南大門像は正面向きではなく、門の中央の通路の方を向いて、阿形像と吽形像が向かい合うように安置されている。本像のように、仁王像を向かい合わせに安置するのは珍しいが、前例がないわけではない。たとえば、奈良・薬師寺の中門の二天像(現存せず)は向かい合わせに立っていたことが、発掘調査で確認された礎石から判明している[21]。阿吽の配置が左右逆になっている例としては、寺門に安置されたものではないが、東大寺法華堂(三月堂)安置の仁王像がある。法華堂仁王像は、向かって右の吽形像、左の阿形像ともに頭部を堂内中央の本尊の方へ向けており、当初からこの配置だったことが明らかである。南大門仁王像の図像的典拠として、京都・清凉寺の釈迦如来立像の像内納入品であった宋時代の版画「霊山変相図」に描かれた仁王像が南大門像と似ていることが指摘されている(熊田由美子の説)。この版画に描かれた仁王像は、吽形像が右足先を跳ね上げている点などの細部に至るまで、図像的特色が南大門像と一致している。清凉寺釈迦像は、東大寺出身の僧・奝然(983年渡宋、986年帰日)が、宋で作らせ、日本に持ち帰った像である。版画「霊山変相図」それ自体は清凉寺釈迦像の胎内に納入されていて人目に触れなかったものであるが、同種の版画を重源が目にして、仁王像造立の参考にした可能性がある[15]。
上述のように、『東大寺別当次第』の記載によって、仁王像の制作時期と作者についてはおおよそのことがわかってはいたが、1988年から1993年にかけて行われた解体修理によって、前述の4人の大仏師(運慶、快慶、定覚、湛慶)が仁王像の作者であることがあらためて確認されるとともに、新たな謎も生じている。仁王像については、像表面の清掃、鳩の糞の除去などは行われていたが、巨像であるため、本格的な解体修理は造像以来1988年まで行われていなかった。しかし、経年変化による材の矧ぎ目のゆるみなどの損傷が目立ってきたため、国庫補助を得て、美術院国宝修理所の小野寺久幸が中心となって解体修理が実施された。通常、美術院の行う仏像修理は、仏像を京都にある美術院の工房へ運び込んで行うが、仁王像の場合は巨像であるため、南大門の近くにあった東大寺学園の跡地に修理場を特設して修理を行った[22]。仁王像は、像の背面から突き出した「懸木」(かけぎ)という角材によって南大門の貫(ぬき)に固定されて立っているが[23]、平成修理ではこの懸木をはずし、像をクレーンで吊り上げて初めて門外に搬出した。修理所に運び込まれた像は、細かい部品まですべて分解し、木材の材質強化、劣化した釘の取り換え、彩色層の剥落防止などの処置を行った後、再度組み上げられた[24]。修理の過程で像の構造の細部が判明した。また、像内からは経巻などの納入品が見出されるとともに、数多くの墨書が発見され、多くの新たな知見が得られた[18]。
阿形像と吽形像とで細部には相違があるが、いずれもヒノキ材の寄木造で、基本的な構造は以下のとおりである。各像とも、頭部から体部中央を縦に通って支脚(重心をかけている方の脚)に至る、1本の長大なヒノキ材が構造の核になっている。約60センチ角のこの縦材を中心にして、その前後左右に縦材7本を組み付けて頭・体から支脚の部分を形作り、遊脚(重心をかけずにゆるめている方の脚)には別に2材を寄せる。以上の計10本の木材が根幹材となり、これらの周囲にさまざまな大きさの材を細かく寄せて細部を形作る[25]。体部の前面と背面および面部には細かく材を寄せ、頭上の髻(もとどり)、上腕部、前腕部、手先、足先などもそれぞれ別材から作る[26]。各材の接合には太枘(だぼ)という木製の枘(ほぞ)や、鉄の鎹(かすがい)、鉄釘を用いている[26]。細部の隙間を埋めたり、形の修正をしたりするために、「マチ材」「へぎ板」「嵌め木」などと呼ばれる小材を多数用いており、これらを含めた部材の総数は阿形2,987点、吽形3,115点である[27]。使われていた鎹は阿形454本、吽形354本。釘は阿形1,040本、吽形1,101本であった[27]。像の表面は、もとは彩色されていた。像表面に麻布を麦漆で張り、錆漆で目止めをした後、白土(はくど)地を施して彩色を行っていたが、これらは現状ではほとんど剥落し、木肌が露出している。阿形像の裳の裏には緑青、群青、朱による宝相華文がわずかに残っている。また、阿形像の右掌に赤色顔料が残存していたところから、像の肉身部は当初は赤色を呈していたとみられる[28]。解体修理により多くの新知見があったが、その一つとして、この仁王像は、いったん彫り上げた後、細部に微修正を行っていたことが判明している。いったん彫り上げた眼の上に小材を足して視線を下向きに修正しており、乳首の位置を修正したり、臍の位置を下げ、これに合わせて裳の上縁を下げるなどの修正が行われている。吽形像では、振り上げた右腕の角度や長さも造像途中で変更している[29]。前述のとおり、この仁王像は阿形像と吽形像が向かい合うように、門の中央の通路の側を向いて安置されており、そのため、参拝者は至近距離から像を見上げることになる。前述の、像の眼の角度や臍の位置などの修正は、現場合わせの際に、下からの視線を意識して行われたものとみられる。南大門の、仁王像を安置している部分(左右両端の間)の南側正面は板壁でふさがれており、現状では仁王像の姿は門の正面側(南)からは見えない。しかし、調査の結果、この板壁は後から入れたもので、門の建立当初は壁がなく吹き放しであったことがわかっている。仮にこの状態で仁王像を向い合わせに安置すると、南正面から見た場合は像の側面が見えることになってしまう[30]。以上のことから、当初の計画では仁王像を正面向きに安置する予定であったものを、何らかの理由で現状のような向い合わせの安置方法に変更し、それに伴って眼の角度や臍の位置などの修正を余儀なくされたものと推定されている[31]。
解体修理時に、吽形像の像内に『宝篋印陀羅尼経』(ほうきょういんだらにきょう)が納入されているのが発見された。これは同像の右胸奥の根幹材に鎹で留められていたものである。同経の奥書には「建仁三年八月八日」の書写年月日、執筆者である「恵阿弥陀仏」の名とともに、「造東大寺大勧進大和尚南無阿弥陀仏」(重源のこと)の名があり、「大仏師」として定慶と湛慶の名が2行に書かれ、その下に「小仏師」として計12人の仏師の名が2行に書かれている[32]。この奥書には運慶および快慶の名は見えない。一方、阿形像の持つ金剛杵の内部(木材の矧ぎ面)からも墨書が見出され、そこには「建仁三年癸亥七月廿四日始之」の日付とともに「大仏師法眼運慶」「アン阿弥陀仏」(「アン」は梵字)「少仏師十三人」「造東大寺勧進大和尚南無阿弥陀仏」などと書かれていた[33]。「アン阿弥陀仏」は快慶のことである。この「アン阿弥陀仏」には「大仏師」の肩書が付いておらず、しかも1行前の「大仏師法眼運慶」よりも行頭を1字下げて書かれている。「少(小)仏師十三人」については人数を記すのみで仏師の個名は書かれていない。阿形像の像内にも吽形像と同様に『宝篋印陀羅尼経』が納入されていた。これは像の右ふくらはぎ部分の内刳(うちぐり)から発見されたもので、当初は像の頭部内面に紐で留めてあったものが、後に落下したものとみられる。同経の奥書にも運慶・快慶とみられる人名が書かれているが、料紙の朽損が甚だしく、正確な判読は不可能である。これらの銘記により、仁王像の造立に運慶、快慶、定覚、湛慶が関わったことはあらためて確認されたが、これら4名が実際の造像をどのように分担したのかについてはさまざまな解釈がある。銘記を素直に解釈し、阿形像は運慶と快慶が、吽形像は定覚と湛慶がそれぞれ担当したという見方もあるが、運慶が仁王像制作全体の総指揮を取ったとする見方が有力である[17]。吽形像納入経巻には12人の小仏師の名があるのに対し、阿形像金剛杵墨書は小仏師の人数を「13人」としている。また、前出の『東大寺別当次第』には小仏師は「16人」とあり、人数が一致していない。『別当次第』の記載については、本来「12人」と書くべきところを大仏師4人を重複して数えたため「16人」になったとの解釈もあるが、正確なことは不明である[34]。
国宝。奈良時代。塑造。像高持国天160.5センチ、増長天162.2センチ、広目天169.9センチ、多聞天164.5センチ。 国宝指定名称は「塑造四天王立像」。天平勝宝7歳(755年)、唐僧鑑真によって設立された東大寺戒壇院の中心堂宇である戒壇堂に安置される。戒壇堂内の壇上中央に多宝塔があり、これを護るように壇上四隅に四天王像が立つ。現存する戒壇堂と多宝塔は享保18年(1733年)の再建であるが、四天王像は奈良時代の作である。ただし、戒壇堂に本来安置されていた四天王像は銅造であったことが史料からわかっており、現在安置されている四天王像(塑造)は材質が異なるため、後世他所から移入された像であることが明らかである[35]。壇上、東南隅に東方を守護する持国天像が立ち、以下、西南隅に南方守護の増長天像、西北隅に西方守護の広目天像、東北隅に北方守護の多聞天像が立つ。各像とも塑造(粘土製)で、もとは彩色されていたが、当初の色彩はほとんど剥落し、像表面は白色を呈している。各像の瞳の部分には石が嵌入されている。この石は黒色に見えるが、学術調査時に持国天像の瞳に光を当てたところ、石は緑色を呈しており、像によって石の色を変えている可能性がある[36]。各像の台座天板には光背支柱用の枘穴があるが、もとあった光背はすべて亡失している[36]。各像の手先、足先などに補修や後補の部分があるが、脆弱な素材である塑像としては保存状態はよい[37]。4体のうち、堂内前方に立つ持国天、増長天の2体は目を大きく見張り、怒りの表情をあらわにして仏敵を威嚇する。持国天は冑を被り、口を「へ」の字に結ぶのに対し、増長天は冑がなく、開口する。前者は左足、後者は右足で邪鬼の頭を踏みつけるなど、対称的に造形されている。一方、堂内後方に立つ広目天、多聞天の2体は遠方を見るように目を細め、怒りを内に秘めた表情で静かに立つ。このように、4体からなる群像としての変化を意識した造形がされている[38]。本作はこのような群像としての均衡、自然で均整のとれた動態表現が高く評価されており、『奈良六大寺大観』は本作を「日本彫刻史上における古典様式の頂点」と評している[39]。前述のとおり、この四天王像は当初から戒壇堂にあったものではなく、他所から移入されたものであることが明らかである[35]。本像はその作風や塑土の土質が東大寺法華堂の日光・月光(がっこう)菩薩像と共通することが指摘されており、もとは日光・月光像と一具の像として法華堂に安置されていた可能性が高い[40]。
法華堂(三月堂)は大仏殿の東方、若草山麓にある東大寺の仏堂である。境内北西にある転害門(てがいもん)などとともに、東大寺に現存する数少ない奈良時代建築の一つである。堂は諸仏を安置する「正堂」(しょうどう)とその手前の「礼堂」(らいどう)の2棟を繋いだ形になり、正堂部分は奈良時代の建立、礼堂部分は鎌倉時代の改築である[41]。正堂の須弥壇には、中央に本尊の不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん、ふくうけんじゃくかんのん)立像、その左右に梵天・帝釈天立像、本尊の手前左右に一対の金剛力士立像、須弥壇の四隅に四天王立像が立つ。これら諸仏のほか、本尊の背後の厨子内には秘仏・執金剛神(しつこんごうしん・しゅこんごうしん)立像が北向きに安置される。以上の諸仏のうち、本尊、梵天・帝釈天、金剛力士(一対)、四天王(4躯)の計9体は乾漆造、執金剛神像は塑造である。かつては以上の諸仏以外に、塑造の伝日光菩薩・月光(がっこう)菩薩立像、同じく塑造の吉祥天・弁才天立像(一対)、木造の不動明王及び二童子像、木造の地蔵菩薩坐像が安置されていたが[42]、これらの像は2011年の東大寺ミュージアム開館後はそちらへ移されている。
大仏造立以前、平城京東方の若草山付近には「金鐘寺」(こんしゅじ、きんしょうじ)および「福寿寺」という、東大寺の前身にあたる寺院が存在した。この2つが天平14年(742年)に合併して金光明寺(大和国国分寺)、のちの東大寺になったと考えられている[3]。これら前身寺院と法華堂の関係は複雑難解である[3]。『東大寺要録』は金鐘寺の創建を天平5年(733年)のこととするが、金鐘寺のさらに前身は、聖武天皇によって神亀5年(728年)に創建された山房(金鐘山房または金鍾山房)にさかのぼる[43]。神亀4年(727年)、聖武天皇と光明皇后の間には第一皇子の基王(もといおう)が生まれた。生後間もない基王は皇太子に立てられるが、生まれて1年も経たずに病死してしまった。皇子の死を悲しんだ聖武はその菩提を弔うため、「山房」を建てることとした。『続日本紀』によれば、神亀5年9月には基王の冥福を祈らせるために智行僧9人を選び、同年11月、智努王を造山房司長官に任命した。この智行僧9人のうちには東大寺初代別当・良弁が含まれていたとみられる[1]。この山房の所在地については確証がなく、東大寺二月堂の北方にある丸山西麓の丸山西遺跡が山房跡ではないかといわれているが、春日奥山の香山堂(こうぜんどう)跡をこれにあてる説もある[44]。この山房を「金鍾山房」と称するのは天平11年(739年)7月の「皇后宮職移案」(こうごうぐうしき い あん)という文書が初出である。天平12年(740年)、良弁はこの金鍾(金鐘)山房に新羅僧の審祥を請じて『華厳経』の講説を行っている[45]。もう一つの前身寺院である福寿寺は、皇后の政務機関である皇后宮職と関連の深い寺院であった。『正倉院文書』に、天平10年(738年)に福寿寺のために紫紙の『大般若経』の書写が始まったとの記載があり、この時点での福寿寺の存在が確認できる。福寿寺の所在地についても確証はないが、現在法華堂や二月堂の建つ、上院地区にあったものと推考されている[46]。現東大寺付近には他にも天地院、辛国堂などの関連寺院があった。天地院は和銅元年(708年)、行基の創建とされ、二月堂北方の丸山山上にあった[47]。大仏殿の西方、戒壇院付近にも先行寺院があり、それが前述の辛国堂である[48]。
正倉院に伝わる『東大寺山堺四至図』(さんかいしいしず)という絵図には天平勝宝8歳(756年)時点の東大寺境内の様子が描かれているが、この絵図によると、当時、上院地区には「千手堂」と「羂索堂」があり、さらに東の春日山中には「香山堂」(こうぜんどう)があったことがわかる[49]。このうち、千手堂は現存しないが、羂索堂は現在の法華堂(本尊は不空羂索観音)のことである[50]。香山堂は、春日山の東方、春日山石窟仏付近にその遺構が残っている。この遺構は前述のとおり、聖武の建立した「山房」の跡とする見方もある[44]。羂索堂の建立時期や当初の尊像構成については研究者によってさまざまな説が唱えられており、今後も新たな説が展開される可能性がある[51]。
国宝。奈良時代。像高362.0センチ。 本像は法華堂(三月堂、羂索堂)の本尊で、堂内須弥壇中央の八角二重の壇上に立つ。三眼八臂、すなわち、額に縦に第三の眼をもち、8本の腕をもつ像である。法華堂内の仏像のうち、本像を含む9体は脱活乾漆造である。脱活乾漆造とは、粘土製の原型の上に麻布を漆で張り合わせて形成した張子状のもので概形を作り、これに木屎漆(漆に木粉等を混ぜたペースト状のもの)を盛り上げて塑形したものである(原型の粘土は後に掻き出す)。像名の「不空」は「空(むな)しからず」の意、「羂索」の原義は古代インドで捕縛用に用いられた縄のことであり、不空羂索観音とは「衆生を漏れなく救い取る観音」を含意する。光背は四重の光輪に透彫の宝相華文をあしらい、長短48本の光条を放射状に配置する。頭上の宝冠は銀製で、翡翠、琥珀、瑠璃、真珠、水晶などの貴石類2万数千個で荘厳し、冠の正面中央には銀製の阿弥陀如来の化仏(小像)を付けている。本像はその安定感のある像容、8本の腕が構成する空間表現の巧みさなどが、美術史家によって高く評価されている。倉田文作は本像を「天平美術の最高峰」「脱活乾漆技法の完熟した頃の一典型」と評している[52]。町田甲一は本像を「天平の時代精神をよくあらわしている」としたうえで「天平盛期の最高傑作」と位置付けている[53]。
国宝。奈良時代。像高梵天402センチ、帝釈天403センチ。 法華堂(三月堂)内、本尊不空羂索観音像の左右に立つ、一対の像。材質は不空羂索観音と同じく脱活乾漆である。梵天・帝釈天は、仏教成立以前から古代インドで信仰されていた最高神であるブラフマーとインドラが仏教に取り入れられて護法神とされたものである。法華堂安置の一対は、左方(拝観者から見て、向かって右)の、衣の下に甲(よろい)を着けた像が梵天像、右方(向かって左)の甲を着けない像が帝釈天像と呼ばれている。梵天・帝釈天像を一対で表す場合は、甲を着ける像を梵天とするのが普通であり、法華堂像の場合は梵天と帝釈天の呼称が通例とは逆になっている[54]
国宝。奈良時代。像高阿形326.4センチ、吽形306.0センチ。 法華堂内、本尊不空羂索観音像の前方左右に立つ、一対の像。金剛力士とはいわゆる仁王のことである。材質は不空羂索観音像と同じく脱活乾漆である。仁王像は、日本では阿形像(あぎょうぞう、開口)と吽形像(うんぎょうぞう、閉口)の一対を寺院の山門の左右に安置することが多く、上半身裸形に表すのが通例だが、法華堂安置の一対は裸形ではなく甲(よろい)を着用している。日本の仁王像は阿形像を向かって右、吽形像を向かって左に置くのが一般的だが、法華堂像の場合は阿吽の配置が通常とは逆になっており、拝観者から見て、向かって右が吽形像、向かって左が阿形像である。阿形像のみを「金剛力士」と呼び、吽形像を「密迹力士」(みっしゃくりきし)と呼び分ける場合もある[55]。
国宝。奈良時代。像高持国天309センチ、増長天300センチ、広目天304センチ、多聞天310センチ。 法華堂内、須弥壇の四隅に立つ4体一具の像。材質は本尊不空羂索観音と同じく脱活乾漆である。東南隅に東方を守護する持国天像が立ち、以下、西南隅に南方守護の増長天像、西北隅に西方守護の広目天像、東北隅に北方守護の多聞天像が立つ[56]。
国宝。奈良時代。像高170.4センチ。 法華堂内、本尊不空羂索観音像の背後の厨子内に北向きに立つ。平素は非公開の秘仏で、毎年、良弁忌の12月16日にのみ開扉、公開される。材質は法華堂内の他の像とは異なり、塑造(粘土製)である。奈良時代に作られた塑造の仏像は、経年変化で当初の彩色が剥落して白色を呈しているものが多いが(例:東大寺戒壇堂四天王像、東大寺旧法華堂日光・月光菩薩像)、本像は秘仏であったため保存がよく、甲(よろい)などの各所に制作当初の彩色や文様が残っている。執金剛神(しゅこんごうしん、しつこんごうしん)とは、サンスクリットの「ヴァジュラパーニ」(「金剛杵を持つ者」の意)の意訳で、仏敵や煩悩を打ち砕く武器である金剛杵を持つ護法神である。日本ではこれを2体の像として表現し、寺院の山門の左右などに安置する例が多いが、これを1体で表したものが執金剛神である。『日本霊異記』には執金剛神像を祀って日夜修行に励んでいた金鷲優婆塞(こんじゅうばそく)に関する説話が収録されており、この金鷲は東大寺初代別当・良弁のこととされる。平将門の乱の時には、執金剛神像の元結紐(もとゆいひも)が蜂となって飛び去り、将門を刺したという伝説もある[57]。
国宝。奈良時代。像高伝日光207.2センチ、伝月光204.8センチ。 もと法華堂に安置されていた像。もとは本尊不空羂索観音像が立つ八角二重壇の上段左右に立っていたが、2011年の東大寺ミュージアム開館後はそちらへ移された。拝観者から見て、向かって右の像を日光菩薩、向かって左の像を月光(がっこう)菩薩と呼んでいるが、これは本来の名称ではない。本来の像名については、「梵天・帝釈天」とする説があり、「縁覚」(仏の教えによらず、自ら悟りを開いた者の意)の像とする説もある。材質は塑造で、もとは彩色されていたが、当初の色彩は袖の内側などの一部に残るのみで大部分は剥落し、像表面は白色を呈している[58]。
法華堂の建立年代、本尊不空羂索観音像をはじめとする諸仏の制作年代、制作事情については、明治期以来多くの研究が積み重ねられ、さまざまな説があって、いまだ決着をみない。天平19年(747年)の『正倉院文書』(「金光明寺造物所解」)に、国中公麻呂が金光明寺の「羂索菩薩」の「光柄及び花蕚」用に「鉄二十挺」を請求したとの記録があり、これを法華堂不空羂索観音像の光背と台座に関するものとみて、 この頃を像の完成時とする見方がある[59]。一方、天平12年(740年)、藤原広嗣の乱の平定のために諸国に観音像を作らせる勅命が出されたことを本像造立と結びつける説、同じ天平12年、東大寺の前身寺院である金鐘寺にて初めて華厳経の講説が行われており、本像はこの時までに作られていたとする説もある。法華堂の建物自体の建立年代については、屋根瓦に恭仁京式の文字瓦が使用されていることから、恭仁京の造営が行われていた天平13・14年(741 - 742年)頃の建立とする説がある[60]。法華堂の建立を741 - 742年、不空羂索観音像の完成を747年とした場合、堂が建立されてから最初の数年間は本尊が不在であったのかという疑問が生じる[40]。現在の法華堂内の不空羂索観音像の安置状況を見ると、像本体と光背の位置が合っておらず、光背が本来の位置よりかなり下方にずれて取り付けられていることは、古くから指摘されている[61]。法華堂が当初から不空羂索観音像を安置するために建てられたものであれば、このように光背の位置がずれているのは不自然である。また、『東大寺要録』所収の「桜会縁起」(さくらええんぎ)という記録に、「不空羂索観音像の安置場所はなかなか決まらなかった」という記載がある[62]。これらのことは、不空羂索観音像は法華堂の当初からの本尊ではなく、後に他から移入されたものである可能性を示唆している[60]。法華堂は「羂索堂」とも呼ばれるが、「羂索堂」の名称の史料上の初見は、天平勝宝元年(749年)の「東大寺写経所注文」である。したがって、遅くとも同年までには法華堂の本尊として不空羂索観音像が安置されていたことがわかる[60]。堂内のその他の像については、不空羂索観音像と材質が等しく、像高の大きい乾漆像8体(梵天・帝釈天、金剛力士一対、四天王)が当初像であり、本尊と材質が異なり(塑造)、像高の小さい日光・月光菩薩像は客仏(後世、他所から持ち込まれた仏像)とする説が、かつては有力であった[63]。しかし、その後の調査の進展の結果、むしろ客仏と見られていた日光・月光菩薩像の方が本来の安置仏であったと考えられるに至っている[40]。
1996年から1999年にかけて、法華堂内の仏像が修理された際、不空羂索観音像が立つ八角二重壇の調査が行われた。その結果、二重壇の下段には計6体の仏像を安置していた痕跡のあることがわかった。また、八角二重壇の上段には各角に計8個の丸孔があることが早くから指摘されている[64]。上段の8個の丸孔については、ここに8本の柱を立て、屋根を架け、柱間を吹き放しとした「宝殿」が設置されていたと推定されている[65]。すなわち、八角二重壇は本来はこの「宝殿」の基壇として作られたことになる。法華堂の天井に取り付けられている天蓋3面のうち、東西の2つは奈良時代のものだが、中央、すなわち本尊の頭上の天蓋は鎌倉時代の作である。本尊の位置に屋根付きの「宝殿」があったとすれば、その位置には天蓋は不要であり、中央の天蓋のみが新しいのはそのためとみられる[65]。二重壇の下段には、正面と背面を除く残りの6辺のそれぞれに平面八角形の台座が置かれていた痕跡が見出された。文化庁の調査官の奥健夫は、これら6つの台座痕跡の大きさが、法華堂の伝日光・月光菩薩像、および戒壇院の四天王像(計6体)の台座の寸法に近いことを指摘し、(1)当初法華堂には不空羂索観音とは別の本尊が安置されており、(2)後に不空羂索観音像と二重壇が運び込まれ、壇の下段に伝日光・月光菩薩像と戒壇院四天王像の計6体を安置した、と推定した[66]。川瀬由照は、執金剛神像は東大寺成立以前から単独で信仰されていたと規定したうえで、(1)東大寺の前身の山房には執金剛神像が本尊として祀られ、その周囲に伝日光・月光菩薩像と戒壇院四天王像が安置されていた、(2)これらの像は、後に山房から羂索堂(現・法華堂)に移された、と推定した[67]。
重要文化財。奈良時代。像高吉祥天202.0センチ、弁才天219.0センチ。 もと法華堂(三月堂)に安置されていた2体の塑像。もとは本尊不空羂索観音像の斜め後方の左右に、厨子に納めた状態で安置されていたが(東が弁才天、西が吉祥天)[68]、2011年の東大寺ミュージアム開館後はそちらへ移された。この2像は天暦8年(954年)に焼失した東大寺吉祥院から法華堂に移されたものとするのが定説である[68]。弁才天像は後世しばしば作られた琵琶を持つ坐像ではなく、『金光明最勝王経』に説くところの八臂の立像である。吉祥天、弁才天ともに保存状態が悪く、特に弁才天像は面相部の塑土が剥落するなど破損が甚だしかったが、1993年から1995年にかけて、美術院国宝修理所の松永忠興が中心となって実施した解体修理で当初の像容を取り戻している[69]。
重要文化財。南北朝時代。像高不動明王86.5センチ、矜羯羅童子(こんがらどうじ)78.0センチ、制多迦童子(せいたかどうじ)88.7センチ。 もと法華堂に安置されていた像。法華堂内陣の東南、梵天像の手前に安置されていたが、2011年の東大寺ミュージアム開館後はそちらへ移された。左脚を踏み下げて坐す不動明王像の左右に矜羯羅童子、制多迦童子を配した三尊像である。ヒノキ材の寄木造で玉眼を嵌入する。像表面は胡粉地に彩色を施すが、現状では剥落して素地を表す部分が多い。胸飾、腕釧、臂釧、足釧は銅製のものを取り付けている。曲線を多用する衣文表現に時代の特色が表れている。制多迦童子像の足枘銘から、本一具は応安6年(1373年)の制作で、像内に舎利3粒と結縁交名帳を納入したこと、絵仏師は法橋清玄であることがわかるが、木仏師の名は足枘銘からはわからない。木仏師は作風から高天仏師(たかまぶっし)の高天円源(賢)かと推定されている。本像は近世末まで法華堂で行われていた当行(千日不断花供)の本尊の一つであった。当行とは、千日間、花を供え続ける行法である[70]。
重要文化財。鎌倉時代。像高84.3センチ。 もと法華堂に安置されていた地蔵像。法華堂内陣の西南、帝釈天像の手前に安置されていたが、2011年の東大寺ミュージアム開館後はそちらへ移された。右手に錫杖、左手に宝珠を持つ通常の地蔵像である。ヒノキ材の寄木造で、前後に2材を矧ぎ、内刳を行い、玉眼を嵌入する。表面は布張り、漆下地に彩色とするが、これらは大部分剥落している[71]。
重要文化財。奈良時代および鎌倉時代。寸法(最大径)は中天蓋169.5 センチ、東天蓋184.2センチ、西天蓋179.9センチ。 法華堂の天井に取り付けられた3面の木造彩色の天蓋で、彫刻部門で重要文化財に指定されている。3面とも中央に大型の蓮華を置き、その周囲に小型の蓮華をそれぞれ8つ配置する。中心の大蓮華には木造漆箔の光条を多数取り付け、四方八方へ光を発するさまを表している。大蓮華と小蓮華の間は茎でつなぎ、間の空間には葉を表す。各蓮華の中心にはそれぞれ銅鏡を嵌めている。東西の天蓋は奈良時代のものだが、一回り小さい中央の天蓋は時代が下り、鎌倉時代の作とみられる。これらの天蓋は、『正倉院文書』の中で当時の用語で「倒蓮華」(とうれんげ)と呼ばれているものに該当するとみられ、「倒蓮華」の現存唯一の遺品として貴重である[72][73]。
国宝。鎌倉時代。像高82.5センチ。 大仏殿東方にある俊乗堂に安置される像。像名は「重源上人坐像」とも称する。平素は非公開で、毎年7月5日の俊乗忌と12月16日の良弁忌にのみ開扉される。鎌倉時代の東大寺大仏復興の大勧進職(総責任者)を務めた俊乗房重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)の肖像彫刻である。重源は建永元年(1206年)、86歳で没しているが、本像はその像容からみて、重源最晩年の姿を写したものとみられる。本像の表現には理想化や形式化がみられず、老僧の容貌をありのままに写し取っている。重源は背中を丸め、首を前方に突き出したポーズで坐し、節くれ立った両手で数珠をまさぐる姿に表される。左右の目は見開きの大きさが異なっており、落ち窪んだ眼窩、眼の下のたるんだ皮膚、筋張った首などを美化せずに写実的に表す。重源は年老いて肉体は衰えているが、眼光は鋭く、口を「へ」の字に結んだ表情には大仏復興という難事業を成し遂げた人物の強靭な意志が感じられる。像はヒノキ材の寄木造で、頭部は前後の2材、体部は正中線で矧ぐ左右2材から彫成して内刳を行い、体部材に首枘を設けて頭部材を挿入している。さらに両体側、丸めた背中の部分、両袖口、両手先などに別材を矧ぐ。眼は玉眼を用いず彫眼とする。像表面は黒漆地の上に白土の下地を施し、肉身部は赤褐色、着衣は藍鼠色で彩色する。首枘を長めに作って、前方に突き出した首の出を調整している。両手は小指に細かい矧ぎ木をして、数珠をまさぐる手の形を調整している。像の作者は不明であり、運慶作とする説(水野敬三郎など)、快慶作とする説(小林剛など)がある。重源との関係の深さという点では、作者としてふさわしいのは快慶だが、本像の作風は快慶のそれとは異なっている。運慶作とする説についても、それを証明する史料はない[74][75]。
国宝。平安時代。像高92.4センチ。 大仏殿東方にある開山堂の八角厨子内に安置される像。平素は非公開で、毎年12月16日の良弁忌にのみ開扉される。東大寺初代別当・良弁(ろうべん)の像である。良弁は東大寺の前身である金鐘山房(後の金鐘寺)に住して、新羅僧・審祥から華厳教学を学び、大仏開眼後、東大寺の初代別当に就任した。像はヒノキ材(カヤ材とも)の一木造で、両肩の外側、腰部などに別材を矧ぎ、両前膊、両手先も別材とする。内刳は行わない。像表面の白土(はくど)地の彩色は当初のものが残っている。像は法衣の上に袈裟をまとい、右手に如意(仏具の一種)を持つ姿に表す。この如意は古様であり、厨子内に置かれている杖とともに、良弁遺愛の品と伝えている。袈裟は条葉部(縁取り)に朱、田相部(「条葉」に囲まれた区画)は白群の地に白緑と墨で文様を描く。良弁の忌日法要は、同人の死去から2世紀以上経った寛仁3年(1019年)11月16日に始まったもので、本像はこの時に造立されたものと推定されている。衣文線や唇、人中線などのしのぎ立った刻み方、両脚部の厚み、眼球の盛り上がりなどの表現方法には、平安時代初期、9世紀頃の彫刻様式が顕著に現れている[76][74][77]。
国宝。鎌倉時代。像高87.1センチ。 鎌倉時代の仏師・快慶の作。写実表現の的確さと仕上げの入念さから、快慶の代表作の一つに数えられている。もとは東大寺鎮守の八幡宮(現・手向山八幡宮)の神体として祀られていた像で、明治初年の神仏分離の際に東大寺に移された。現在は大仏殿の西方にある勧進所八幡殿に安置されている。平素は非公開で、毎年10月5日のみ公開される。僧形八幡神(そうぎょうはちまんしん)とは、本地垂迹説に基づき、八幡神(応神天皇、誉田別尊)を仏教の僧侶の姿に表したものである。八幡神は、東大寺の大仏建立の際にも神託を下し助成したとされる、東大寺とはゆかりの深い神である。治承4年(1180年)の平重衡の兵火では、東大寺や興福寺の伽藍とともに東大寺鎮守の八幡宮も焼失した。治承の兵火後の東大寺の復興を主導した俊乗房重源は、鎮守八幡宮の再建にあたり、当時、鳥羽の勝光明院宝蔵にあった八幡神画像を請い受けて八幡宮の神体にしようと考えていた。その八幡神画像は、京都高雄の神護寺から鳥羽天皇に献上されたものであったが、神護寺の僧・文覚による返還運動の結果、同画像は神護寺に返還されることになった。重源はやむをえず、件の画像の代わりに彫像の僧形八幡神像を快慶に造らせることとしたものである。勝光明院にあった八幡神画像の原本は現存しないが、神護寺には鎌倉時代に制作された同画像の写しがある。この写しを東大寺の僧形八幡神像と比較すると、額のしわの数などの細部に至るまで一致しており、快慶が画像を忠実に写した彫像の制作を意図していたことが明らかである。本像は法衣の上に袈裟を着けて坐す僧形像で、右手に錫杖、左手に数珠(亡失)を持ち、蓮華座上に坐す。保存状態がよく、像表面には当初の彩色が残り、台座、光背、持物の錫杖も当初のものが残る。頭体の主要部は正中線で左右二材矧ぎとし、これに両体側部、膝前、両腰脇、両手先などに別材を矧ぎ足す。本像は快慶作品には珍しく玉眼を用いず、瞳の部分に黒漆状のものを塗って眼光を表現する。本像における玉眼の不使用は、割首(木造の仏像制作時に、面相部の仕上げなどのために、頸部にノミを入れて割り放すこと)をしていないこととともに、神像としての聖性、神威を表したものと解釈されている。肉身部は肉色に塗り、法衣は黄褐色の上に衣文の縁の部分に金泥彩を施す。袖口や襟元からわずかにのぞく下衣には白群を塗る。袈裟はその図柄から「遠山袈裟」と呼ばれるもので、条葉部(縁取り)は群青で塗った上に金泥の線で縁取り、田相部(「条葉」で囲まれた四角い区画)は黄褐色の地に緑青、群青、代赭などの繧繝彩色(うんげんさいしき)で遠山文様を表す。台座は請花のみの一重座で、蓮弁を朱と緑青の繧繝彩色とする。円形の光背は木製、漆箔仕上げとし、縁部は銅製鍍金である。像内は麻布を貼った上に、聖性を表す赤色顔料(丹)を塗った入念な仕上げとし、その上に長文の銘文が記されている。銘文には「建仁元年十二月廿七日御開眼」の年記とともに、施主として「巧匠アン阿弥陀仏快慶」(「アン」は梵字)の名があり、続いて小仏師28人、漆工3人、銅細工1人の名がある。続けて、願主として今上天皇(土御門天皇)、七条女院(藤原殖子)、太上天皇(後鳥羽院)、八条女院(暲子内親王)、東大寺別当弁曉、守覚法親王(仁和寺、後白河天皇息子)、明恵、明遍等の名がある。この銘文中には東大寺復興大勧進(総責任者)の重源の名が見えず、仏師である快慶が施主でもあるように書かれていること、小仏師28人の中に「運慶」の名があることなどの謎があり、本像がなんらかの特殊な事情のもとに造像されたことを示唆している[78][79][80][81]。
国宝。奈良時代。像高47.5センチ。灌仏盤径88.7 - 89.2センチ。東大寺ミュージアム所在。 誕生釈迦仏とは、釈迦が生まれてすぐ7歩歩んで、両手でそれぞれ天と地を指し、「天上天下唯我独尊」と言ったという伝説を造形化したもの[82]。日本の仏教寺院では、釈迦の誕生日とされる4月8日に灌頂会(かんじょうえ、別名は降誕会、花祭りなど)という行事が行われ、その際に誕生釈迦仏に五種の香水(こうずい)を注ぐ風習がある。本像は銅製鍍金で、同じく銅製の灌仏盤(誕生仏に注いだ香水を受けるもの)と一具で国宝に指定されている。誕生釈迦仏の像は通常、像高10センチ前後の小像が多いが、本像の像高は47.5センチである。本像の面相は大仏殿前に立つ金銅八角燈籠(奈良時代)に浮彫りされた菩薩像のそれと似ており、本像も大仏や八角燈籠と同じ頃、すなわち8世紀半ば頃の作とみられる。誕生釈迦仏としては大作であることから、本像は天平勝宝4年(752年)の大仏開眼会に際して制作されたものとする説と、聖武天皇の一周忌以降の制作とする説がある[83]。天を指す右腕は前膊の半ばに継ぎ目があり、そこから先は後補である。像は像高の割に重量が大きく、像内には鋳造時の中型(なかご)の土が詰まったままになっていると推定される。腕や体部には肉のくびれを明確に表し、幼児の体形を表現している。像の足下の木製台座は後補のものだが、像とともに伝わる銅製灌仏盤は一具の奈良時代のものである。盤の立ち上がり部分には、魚々子地(ななこじ)に簡略なタッチで種々の図柄を彫り表している。表されている図柄には、山岳、雲、草花、樹木、鳥、蝶、獣(獅子、麒麟など)、童子、飛仙などがある[84][85]。
俊乗堂は平素は非公開で、毎年7月5日と12月16日のみ公開される。(本尊の木造俊乗上人坐像(国宝)については既述。)
大仏殿西方にある勧進所は、江戸時代に僧公慶が大仏復興勧進の事務所を置いたところである。勧進所の敷地内には八幡殿、阿弥陀堂、公慶堂などがあるが、平素は非公開。毎年10月5日のみ公開される(公慶堂は4月12日も公開)。(八幡殿の僧形八幡神像(国宝)については既述。)
戒壇堂は通年拝観可能。千手堂は特別公開時を除き非公開。
以下に、東大寺ミュージアムに保管されている像、奈良国立博物館に寄託の像などについて説明する。
以下に、「彫刻」として重要文化財に指定されている、東大寺所蔵の仮面類と獅子頭について略説する。
指定年月日は官報告示に基づく。文化庁編『国宝・重要文化財総合目録』(第一法規、1980)および『国宝・重要文化財大全 別巻』(所有者別総合目録・名称総索引・統計資料)、毎日新聞社、2000、も参照。
像 名 | 安置場所 | 重要文化財 (旧国宝) 指定日 | 国宝指定日 | 備考 |
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銅造盧舎那仏坐像 | 金堂 | 1897.12.28 | 1958.02.08 | |
乾漆不空羂索観音立像 附 黒漆塗八角二重壇 | 法華堂 | 1897.12.28 | 1952.03.29 | 附の壇は2010年6月29日追加指定(同日付け文部科学省告示第104号) |
乾漆梵天・帝釈天立像 | 法華堂 | 1901.08.02 | 1952.03.29 | |
乾漆金剛力士立像 2躯 | 法華堂 | 1901.03.27 | 1952.03.29 | |
乾漆四天王立像 | 法華堂 | 1897.12.28 | 1952.03.29 | |
塑造日光菩薩・月光菩薩立像 | (旧法華堂) | 1897.12.28 | 1952.03.29 | |
塑造執金剛神立像 附 漆塗厨子 | 法華堂 | 1899.08.01 | 1951.06.09 | 附の厨子は2010年6月29日追加指定(同日付け文部科学省告示第104号) |
塑造四天王立像 | 戒壇堂 | 1897.12.28 | 1952.03.29 | |
銅造誕生釈迦仏立像・銅造灌仏盤 | 1902.04.17 | 1952.11.22 | ||
木造金剛力士立像 2躯 附 像内納入品 | 南大門 | 1901.03.27 | 1952.03.29 | 像内納入品は1995年6月15日追加指定(同日付け文部省告示第93号) |
木造俊乗上人坐像 | 俊乗堂 | 1901.03.27 | 1951.06.09 | |
木造僧形八幡神坐像 快慶作 | 勧進所八幡殿 | 1901.08.02 | 1957.02.19 | |
木造良弁僧正坐像 | 開山堂 | 1901.03.27 | 1951.06.09 | |
木造弥勒仏坐像 | (旧法華堂) | 1901.03.27 | 2015.09.04 | |
木造如意輪観音・虚空蔵菩薩坐像 順慶・賢慶・了慶・尹慶等作 | 金堂 | 1977.06.11 | ||
石造獅子一双 | 南大門 | 1897.12.28 | ||
木造阿弥陀如来立像 快慶作 | 俊乗堂 | 1906.09.06 | ||
木造愛染明王坐像 | 俊乗堂 | 1906.09.06 | ||
木造地蔵菩薩坐像 | 念仏堂 | 1902.04.17 | ||
塑造弁才天・吉祥天立像 | (旧法華堂) | 1902.04.17 | ||
木造不動明王二童子像 | (旧法華堂) | 1906.09.06 | ||
木造地蔵菩薩坐像 | (旧法華堂) | 1906.09.06 | ||
木造天蓋3面(所在法華堂) | 法華堂 | 2011.06.27 | ||
木造訶梨帝母坐像 | 二月堂参籠所食堂 | 1906.09.06 | ||
木造千手観音立像 | (旧三昧堂) | 1902.04.17 | ||
木造阿弥陀如来坐像 | 三昧堂 | 1949.02.18 | ||
木造公慶上人坐像 | 勧進所公慶堂 | 1906.09.06 | ||
木造五劫思惟阿弥陀坐像 | 勧進所阿弥陀堂 | 1906.09.06 | ||
銅造釈迦・多宝如来坐像 | (旧戒壇堂) | 2013.06.19 | ||
厨子入木造千手観音・四天王立像 附 旧厨子後板及び扉7面 | 戒壇院千手堂 | 2005.06.09 | ||
木造鑑真和上坐像 | 戒壇院千手堂 | 1906.09.06 | ||
木造愛染明王坐像 | 戒壇院千手堂 | 1906.09.06 | ||
木造菩薩立像 | 中性院 | 1957.02.19 | ||
木造地蔵菩薩立像 | 真言院地蔵堂 | 1949.02.18 | ||
木造四天王立像(新禅院伝来) 附 像内納入品 | 真言院地蔵堂 | 1994.06.28 | ||
厨子入木造地蔵菩薩立像 | 知足院 | 1949.02.18 | 厨子は2015年9月4日追加指定(同日付け文部科学省告示第143号) | |
木造釈迦如来坐像 善円作 附 像内納入品 | (旧指図堂) | 1957.02.19 | ||
木造阿弥陀如来坐像 | (旧勧進所) | 1906.09.06 | ||
木造聖観音立像 | 1949.02.18 | |||
木造十一面観音立像 | 三昧堂 | 1949.02.18 | ||
木造地蔵菩薩立像 快慶作 | (旧公慶堂) | 1906.09.06 | ||
木造持国天立像 附 像内納入品 | 1912.09.03 | 附の納入品は2005年6月9日追加指定(同日付け文部科学省告示第88号) | ||
木造多聞天立像 | 1902.04.17 | |||
木造十二神将立像 | 1940.10.14 | |||
銅造舟形光背(二月堂本尊光背) | 奈良国立博物館寄託 | 1901.08.02 | ||
木造青面金剛立像 | 1929.04.06 | |||
木造閻魔王坐像・木造泰山府君坐像 | 2007.06.08 | |||
銅造如意輪観音半跏像(菩薩半跏像) | 1924.08.16 | |||
木造伎楽面29面・乾漆伎楽面1面 (附木造伎楽面残欠5片(4面分)、乾漆伎楽面残欠7片(3面分)) | 1902.04.17他 | |||
木造舞楽面9面(皇仁庭4、散手、貴徳、陵王、納曽利2) | 1902.04.17他 | |||
木造伎楽面2面 | 1902.04.17他 | |||
木造行道面(蝿払)2面 | 1974.06.08 | |||
木造菩薩面3面(附 残欠4片) | 1974.06.08 | |||
木造獅子頭 | 1902.04.17 | |||
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