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作家 ウィキペディアから
本多 勝一(ほんだ かついち、1932年[† 1]1月28日 - )は、日本の新聞記者・ジャーナリスト・作家[1]。元朝日新聞編集委員[1]。
長野県下伊那郡大島村(現在の松川町)に生まれる[1][† 2]。
長野県飯田高松高校卒。高校3年次の担任はのちに日本古生物学会の会長を務めた鹿間時夫であった。同級に富永明夫がおり、後に本多の義兄となった[3]。
本多には脳性小児麻痺の妹がいた。父は雑貨商を営んでおり、本多には薬科大学に進むことで薬局を加えた店の跡を継いでほしいと願っていた。本多は高校で木原均の講演に感銘を受け、京都大学で遺伝学を学びたいと考えた[4]ため、父と衝突した。結局、薬剤師の資格を取得すれば好きなことをやってもよいとの妥協案を受け入れ、千葉大学薬学部に進学。
1954年、千葉大を卒業して京都大学農学部農林生物学科へ1回生として入学、山岳部に入部[4]。
山岳部の雰囲気はアルピニズムに傾倒しており、本多が心酔していた今西錦司や西堀栄三郎らから始まる探検の伝統は引き継がれていなかった。本多は現役生や若手OBと「パイオニア・ワーク」(創造的な登山)について議論を重ねつつ、海外遠征を目論み、同志とともに岩村忍や今西、京大カラコルム=ヒンズークシ学術探検隊から帰還した梅棹忠夫(大阪市立大学助教授)らの助言を受けた[5]。そうして山岳部二回生を中心にヒマラヤ遠征を計画したものの、若手OBの一部の反対は根強いものがあった。
本多らは梅棹に「煽動」され、まず探検家OBを講師とした「第1回探検講座」を5回にわたって実施[4]。講師は今西、中尾佐助、川喜田二郎、桑原武夫、梅棹、藤田和夫であった[4]。探検講座の最終回を終えた1956年3月2日の夜、同じく山岳部に所属していた高谷好一ら11人で日本初の探検部を創設[4]。初代顧問は今西、梅棹、中尾、藤田、川喜田、伊谷純一郎であり[4][† 3]、探検部長は今西の助言で芦田譲治に依頼した[5]。
本多らは梅棹、今西、川喜田などの自宅を訪ねるなかで、とりわけ京都大学の近くにあった梅棹の自宅を頻繁に訪れた。梅棹は探検やフィールドワークのノウハウを情熱的に注ぎ込んだ。話題は多岐にわたり、談論風発の場となった。本多は、取材の方法や基本的なものの考えかたにおいて、生涯で最も深く強い影響を梅棹から受けた[4]。
1956年、探検部で最初の海外遠征隊「東ヒンズークシ学術調査隊」を結成し、藤田和夫(大阪市立大学助教授)を隊長としてフォールドワークに赴いた。学生の隊員は本多と吉場健二の2名であった。京都駅には探検部や山岳部の関係者が集まり、今西の発声による「ヤッホー」の唱和で見送られた。その帰途、便乗していた貨物船が第一次南極観測に向かう『宗谷』とすれ違った。宗谷には副隊長で第一次南極越冬隊長となる西堀栄三郎が乗船しており、11月29日、無線ではじめて西堀と言葉を交わした。西堀は親友である今西への伝言を述べ、探検部が南極にも目を向けて実力をつけるよう助言した。
1957年、本多が隊長を務める京大探検部の3人でヒマラヤの6000m級処女峰シャハーンドクの登頂を試みたが、頂上まで100m余りの地点で敗退[† 4][6]。
1958年、『知られざるヒマラヤ 奥ヒンズークシ探検記』(角川書店)を発刊。
1959年、朝日新聞社に入社[1]。同期に筑紫哲也、轡田隆史らがいる[† 5]。
1959年4月から1962年7月まで札幌勤務[8]。1961年には入社3年目にして『きたぐにの動物たち』を59回にわたって連載し、同年、角川新書から「朝日新聞北海道支社報道部編」として出版された[† 6][8][9]。序文を寄せた犬飼哲夫は本書を「いまだ記載されなかった人類の歴史の側面を語る新しい試み」であり、それが「成功をみたことは祝福に値する」と絶賛した[9]。当時、朝日新聞や小雑誌などに執筆した紀行文・ルポルタージュは1979年に『北海道探検記』として発刊された[8][† 7]。
1963年1月22日、愛知大学山岳部薬師岳遭難事故にて大スクープ[10]。薬師岳の太郎小屋脇にヘリコプターで強行着陸し、本多が小屋の中を確認して報道したものであり、号外が発行された[10]。
1963年の朝日新聞連載『カナダ・エスキモー』が注目を集め、つづいて1964年には『ニューギニア高地人』を連載、反響を呼んだ[11][12]。本多はベトナム戦争の取材に取り組みたかったが、一連の連載が好評を博したため、1965年には『アラビア遊牧民』を連載[11][12]。藤木高嶺とのコンビによるこれらのルポルタージュは「極限の民族」三部作とされ、文化人類学・民族学にインパクトを与えた[1][13][14]。1964年に菊池寛賞を受賞[† 8]。
1967年にはベトナム戦争が苛烈を極める南ベトナムを1年にわたって現地取材[15]、連載ルポとして朝日史上最大の反響を呼ぶ[16]。翌1968年には北ベトナムを取材[15]。一連の報道はルポルタージュの白眉と言われ[17]、1968年に第11回JCJ賞および第22回毎日出版文化賞、1969年にボーン・上田記念国際記者賞を受賞。
ベトナム戦争におけるアメリカの振る舞いを取材するなかでアメリカそのものを「よく見たい」と考え[16]、1969年、アメリカ合州国を半年にわたって取材[18]。
『思想の科学』1970年6月号に掲載された文化人類学批判「調査される者の眼」は反響を呼び、山口昌男は『展望』1970年10月号に「調査する者の眼:人類学批判の批判」を寄せた。本多は『展望』1971年8月号の「殺す者の眼:山口昌男の文章をめぐって」において、山口の批判には「自己顕示症」がみられると切って捨てた。
日中国交正常化前の1971年には中国における戦争中の日本軍の行動を中国側の視点から掘り起こした『中国の旅』を連載[19]。本書は南京事件論争の大きなきっかけとなった。
1972年、加納一郎の古希記念事業として探検関係者の「総力を結集」した朝日講座『探検と冒険』全8巻の編集委員となり、第7巻『日本とその周辺』の責任編集を担った。
1972年6月22日、アイヌ民族の萱野茂が二風谷アイヌ文化資料館を開館した。開館式を取材した本多は、その後の萱野を継続的に支援した。萱野が1992年の第16回参議院議員通常選挙に日本社会党から比例代表で立候補した際には呼びかけ人となった。虐げられつづけるアイヌ民族についての報道・論考は、初任地の北海道支社勤務時代(1959年-1962年)から取り組んでおり、1983年には朝日新聞紙上で長期連載を行っている。
1972年10月から11月と1973年の5月から7月にかけて北ベトナムを石川文洋とともに取材[20]。
1973年から月刊誌『家庭画報』と『潮』にてコラム「貧困なる精神」の連載を開始。「貧困なる精神」は『潮』に1988年2月号まで連載され、社外への寄稿を制限する朝日新聞社の方針に従って『朝日ジャーナル』に引き継がれた。
1975年6月から8月にかけて石川文洋とともにサイゴン陥落後のベトナムを取材[20]。
1976年に『日本語の作文技術』を発刊し、1982年に文庫化。自身最大のベストセラーとなり、版を重ねている[4]。
1978年2月から石川文洋とともにベトナムを取材し、ポル・ポト政権下におけるカンボジア大虐殺の証言を多数得た[20]。1980年には政権崩壊後のカンボジアを現地取材し、虐殺を立証した[21]。
1983年、12年ぶりに中国取材を行い、日本軍が杭州に上陸してから南京に至るまでの進撃コースをたどり、1984年には朝日ジャーナルに半年にわたって連載[22]。洞富雄や藤原彰らと南京事件調査研究会を立ち上げ、南京大虐殺の調査・報告を行った。
1991年、朝日新聞を定年退職[1]。
『朝日ジャーナル』の最終号となった1992年5月29日号の連載コラム「貧困なる精神」において有志による日刊新聞の発行構想を発表した[23]。
『噂の真相』1993年2月号のインタビューにおいて、日刊紙に先行して週刊誌の創刊を予定していることを公表[24]。1993年7月から4号発行された月刊金曜日の編集委員となり、「創刊の言葉」の原案を起草[25]。1993年11月の週刊金曜日発刊後、2024年まで編集委員を務める[26]。1994年5月から1997年3月まで社長兼編集長を務め、1999年まで社長を務めた[26][27]。
2003年4月から10月まで、山中登志子とともに月刊『あれこれ』を発刊。
朝日新聞の記者として、1960年代から『極限の民族』三部作やベトナム戦争、アメリカにおける黒人やインディアンの問題などの多彩なルポルタージュを発表[12]。祖父江孝男は1970年の本多との対談で「至るところでセンセーションを巻き起こし」たと述べている[12]。
『極限の民族』三部作についての評価として以下がある。
ベトナム戦争の取材にあたっても、解放区で自ら生活し、戦闘だけでなく解放区で暮らす人々の暮らしをあわせて詳細に記録した[36]。陸井三郎は、米軍が前線に出てきてから終戦までの間に解放区における生活と戦闘を報じた外国人記者は(短期滞在を除けば)本多以外に現れなかったとし、本多の一連の作品を「歴史にのこる意義ふかい作品」と評した[36]。
井川一久は、1978年発刊の『カンボジアはどうなっているのか』について、ポル・ポト政権下におけるカンボジア大虐殺の存在を「世界で最も早く実証しようとした試み」であるとする[21]。1980年の現地取材をもとにする『カンボジアの旅』は、その「規模と様態を最も客観的な形で実証」した[21]。
角幡唯介によれば、沢木耕太郎が意識する書き手の1人として本多を挙げたといい、「事実」を厳密に扱う本多の姿勢が日本のノンフィクション界に大きな影響を与えたとする[14]。
角幡は、近代登山や探検、冒険を考える上で本多の著書は避けて通れず、必読であるとしている[14][37]。2012年には『冒険と日本人』『新版・山を考える』『リーダーは何をしていたか』の3冊から再編集された『日本人の冒険と「創造的な登山」』が山と溪谷社から文庫で発刊され[† 10][38]、2021年には『アムンセンとスコット』が朝日文庫で再版された[† 11][39]。
もっとも発行部数の多い著作は1982年(単行本は1976年)に発刊された『日本語の作文技術』であり、文庫化から32年を経た2014年にも林修の推薦文による帯で再版されるなど、ロングセラーとなっている[40]。続編である『実戦・日本語の作文技術』も合わせると累計100万部を超える[41]。斎藤美奈子は『文章読本さん江』において、本書を丸谷才一『文章読本』、井上ひさし『自家製 文章読本』とともに文章読本界の新御三家とした[† 12][42]。
日本において標準語が偏重され方言が軽んじられていることを批判している[44]。一方で、普通語(標準語)以外の地方語が徹底的に弾圧されていた文化大革命期の中国を「共通語と方言(または少数民族言語)との間に階級差別のない関係」を実現したとして賞賛する発言も残している[45]。
新渡戸稲造の『野球と其害毒』(『東京朝日新聞』連載)の後を承け、『貧困なる精神』のすずさわ書店版第21集は『新版「野球とその害毒」』のサブタイトルで、野球害毒論を説いた。
朝日新聞社時代の同期で広島ファンの筑紫哲也が巨人の金満補強を嘆いて『週刊金曜日』に「野球自体への興味が薄れつつある」と書くと[46][47]、本多は「結構なことだなあ。巨人がもっともっと大選手をかき集めて、毎年ひとり勝ちになって、巨人ファン以外はだれも職業野球になど関心を失って、球場が赤字つづきになる。すばらしいことではなかろうか。不正が敗北するわけだから。どうか巨人「軍」よ、来年も再来年も勝ちつづけてくれ」と感想を返した[48][49]。
2010年6月、日本共産党機関紙の『しんぶん赤旗』6月号外に支持者の一人として名前を連ねている[50]。2008年2月1日の「赤旗」創刊80周年によせての寄稿では、新聞をとるなら「赤旗」も併読紙として重要だと購読をすすめている[51]。
2010年9月12日付の「赤旗」読者の広場(投書欄)に一読者として「選挙制度改正大運動に賛成」と題して小選挙区制を批判、2021年6月20日付同欄に東京都・ジャーナリスト・89歳として「東京五輪反対」の投書を行っている。
本多の生年は、著書によって1931年(昭和6年)、1932年(昭和7年)、1933年(昭和8年)の3通りを記しており、どれが正しいのかは不明である。たとえば『中国の旅』ハードカバー版(1972年、朝日新聞社)によると1931年であり、同書文庫版(1981年、朝日新聞社)によると1933年であり、『殺される側の論理』(1982年、朝日新聞社)によると1932年であるという。2011年のインタビューでは本多は1931年生まれと語っている[52]。生年月日を記した資料『現代日本人名録98』および『20世紀日本人名事典』によると、1932年1月28日生まれだが戸籍上は1931年11月22日生まれであるという[53][1]。殿岡昭郎の『体験的本多勝一論』(2003年、日新報道)によると、1987年3月3日、京都地裁で開かれたベトナム僧尼団焼身自殺をめぐる民事裁判の原告本人質問にて、本多は「1933年4月28日生まれである可能性がある」と発言している。本多は「私はですね、いわゆる旧制中学に入って間もなく戦争が終わった世代なものですから」[54]、「私が(旧制)中学二年になった一九四五年四月」[55]と述べている。
『中国の旅』にて、「2人の日本軍将校が百人斬り競争を行った」との当時の報道を紹介したことに対し、その将校の遺族3人から、事実無根の報道をされたとして、朝日新聞社等と共に謝罪や損害賠償を求める訴訟を起こされた(百人斬り競争#名誉毀損裁判)。2005年8月24日東京地裁は原告の請求を棄却した。原告は控訴したが、2006年5月24日東京高裁は一審判決を支持し、控訴を棄却した。原告は最高裁判所に上告したが、2006年12月22日最高裁は上告を棄却した。
『中国の日本軍』において、「中国の婦女子を狩り集めて連れて行く日本兵。強姦や輪姦は幼女から老女まで及んだ」とキャプションをつけた写真を掲載している[要ページ番号][† 14]。産経新聞によれば、この写真は『アサヒグラフ』の1937年11月10日号に掲載された写真で、日本軍が保護する"日の丸部落"で農作業を終えて日本軍兵士に守られながら帰宅する女性や子供が写ったものであったが、中国側はこれを「旧日本軍が女性らを連行する場面」と紹介していたという[56]。この写真は南京大虐殺紀念館でも展示されていたが、信憑性に乏しいと指摘されていた[56]。同館がこの写真の展示をとりやめたことが2008年12月に明らかになっている[56]。2014年にこの件について週刊新潮からのインタビューを受け、「アサヒグラフに別のキャプションで掲載されているとの指摘は、俺の記憶では初めてです」「確かに誤用のようです」とコメントした[57]。
『新潮45』2000年12月号で、週刊金曜日を退社した元社員の西野浩史は「私が見た反権力雑誌『週刊金曜日』の悲惨な内幕」という文章を発表し、
などを、自分の体験談として発表している。
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