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日本の政治家、弁護士 ウィキペディアから
星 亨(ほし とおる、嘉永3年4月8日〈1850年5月19日〉 - 明治34年〈1901年〉6月21日)は、日本の英学者、弁護士、政治家。
江戸・築地の左官職人の子に生まれる。明治維新後に横浜税関長となり、後に渡英して法廷弁護士(バリスタ)資格を取得、日本でも代言人(後の弁護士)となる[1]。
1882年(明治15年)、自由党に入党し、『自由新聞』の経営に参加。1884年(明治17年)には自ら新聞『自由燈』を創刊し、政府批判の論客となったが、その前後に官吏侮辱罪などで2回入獄。1887年(明治20年)には在野各党の大同団結運動を推進した[1][2]。
1892年(明治25年)、第2回総選挙に当選し、衆議院議長を務めた。翌年、後藤象二郎とともに取引所設置をめぐる疑獄事件に連座して除名されたが、議長解任決議を数度にわたって無視し、登院したことで知られる[1]。
日清戦争後、韓国の法律顧問に就任し、1896年(明治29年)には駐米公使に就任。1898年(明治31年)に憲政党内閣(隈板内閣)が誕生すると帰国して憲政党を分裂させ、1900年(明治33年)に伊藤博文とともに立憲政友会を結党した。同年の第4次伊藤内閣で逓信相として初入閣したが、東京市疑獄事件の中心人物と目され辞職[1][3][4]。1901年(明治34年)、伊庭想太郎に刺殺された[1]。
生前は金権党利党略の徒として激しく批判されたが、実際は我が国に立憲体制を根付かせ、独立不羈の強国としなければならないという強い思いに貫かれていた。 その勉強振りは凄まじく獄中でも当時最先端の経済書であるジェヴォンズやマクラウドを原書で読んでいた。
星の政治主張・手法は、積極的建設主義(Positive constructive)であり、軍事拡張、産業の発展により日本を不覊独立の国とすること、その手法として地方からの港湾・鉄道・大学等のインフラ整備の要望を政党が取り込み実現し、地域への利益誘導を図り、支持獲得・党勢拡大を目指す日本型政党政治の原型を築いたとされる。自身が独立不羈の星は、自由党→政友会を中心とした我が国の立憲体制確立と積極主義による国力増強に決定的な役割を果たした。
旧暦・嘉永3年4月(1850年5月)、江戸築地小田原町(現・東京都中央区築地)に、左官職人佃屋徳兵衛の長男として生まれる(幼名浜吉)。母は松(相模国浦賀の漁夫の娘)。二人の姉がいた。徳兵衛の破産失踪後、娘二人を奉公に出し、松は浜吉を連れて漢方医星泰順と再婚、星姓を名乗った[5]。
一家で横浜に転居後、神奈川奉行所付蘭方医渡辺貞庵に弟子入りし、そのつてで、通商上英語のできる人材育成のために幕府が設立した横浜英学所(文久2年設立:ヘボンが設立と教授に参画[6])で英学を学び始めた。その後、江戸で持参金を約して御家人小泉家の養子となり、役務として幕府陸軍三兵隊(文久2年創設)の軍事調練に加わるが挫折(のち養子も破談)。開成所教授前島密の家塾に入り、前島の仲介で慶応3年(1867年)に開成所に入所、英語世話役心得に推され仏語も学んだ。さらに同所教授何礼之の私塾に移り、同年10月に何が海軍所へ転出する際、その推薦で同所英語世話役となったが、戊辰戦争勃発により3か月で失職。横浜居留地で『万国新聞紙』を発行していた英国領事館付牧師マイケル・ベイリーを手伝い、英字新聞の翻訳で日銭を稼いだ[7]。
明治元年(1868年)、開成所同窓生らの縁で若狭国小浜藩英学校教師、さらに大阪に移った何礼之の瓊江塾助教となり、明治2年9月(1869年10月)には何が設立に尽力した大阪洋学校訓導、翌年同校が大学南校分校(大阪開成所)となると小助教となった。まもなく、陸奥宗光から洋学教師の人選を依頼された何の推薦で、大阪の和歌山藩邸で洋学助教として教え、のち同藩兵学寮(明治2年末設置)出仕となった[7]。
廃藩置県後の明治4年8月(1871年10月)に陸奥が神奈川県知事に就任すると、同時期に星も和歌山県貫属の身分[8]で横浜の英学校・修文館の教師に就任。明治5年3月(1872年4月)、神奈川県二等訳官に補され、学校事務取扱として修文館(啓行堂)教頭に任ぜられた[7]。さらに、大蔵省租税頭兼任となった陸奥の引き立てにより、同年4月に大蔵省雇、9月には租税寮七等出仕となり、新暦・1874年(明治7年)1月、横浜税関長(租税権助・従六位)に抜擢された。ところが同年5月、いわゆる「女王事件」[9]を引き起こし、7月に非職扱いとなった。
まもなく、同年9月に太政官より英国留学を命ぜられ、翌月に横浜出航、1875年(明治8年)1月、ロンドンのミドル・テンプル(4大法曹院の一つ)に入学、1877年(明治10年)6月には法廷弁護士 Barrister 資格取得者となった[7][10]。帰国後、1878年(明治11年)2月には、司法省付属代言人(後の弁護士)の第一号となった[1]。初の大仕事である高島炭鉱事件での後藤象二郎の弁護で一挙に名を高め、官庁依頼の訴訟では高額の弁護料を要求し、財産を築く。
1882年(明治15年)、前年10月に結成された自由党(84年10月解散)に入党し、機関紙『自由新聞』の経営に参加。以降、民権運動の他の領袖たちが機会主義的に右顧左眄するなかで、一貫して自由党の維持と運動の再建に尽力する。1883年(明治16年)4月の党大会で常議員に就任。7月より治罪法に基づく初の高等法院裁判として福島事件の国事犯審理が東京高等法院で開かれた際、星は被告河野弘中の弁護人を務めた[11]。6月、党総理の板垣退助が欧州漫遊から帰国後、藩閥政府との対抗する意欲を失い、総理辞任、自由党解党を唱えるが押し留め、翌1884年(明治17年)3月の党大会で板垣に総理再任を承諾させた。5月に新聞『自由燈』(後朝日新聞社に売却し、「東京朝日新聞」となる)を創刊。同年9月22日、前日の演説が官吏侮辱罪にあたるとして新潟で逮捕され、12月18日、新潟軽罪裁判所は重禁固6か月、罰金40円と判決。この間9月に自由党員による加波山事件が出来し、責任追及を恐れた板垣と土佐派は星不在の11月の党大会で解党を決議。 また、1885年(明治18年)末に発覚した大阪事件をめぐる裁判では大井憲太郎らを弁護した。
1886年(明治19年)10月24日、星・中江兆民らが発起人となり、東京で旧自由党員を中心に全国有志懇親会を開き、星らは小異を捨てて大同団結すべしと主張。藩閥政治を批判し、1887年(明治20年)の三大事件建白運動に参加した。これがきっかけで、保安条例で東京を追われ[12]、出版条例違反で投獄される。
釈放後の1888年(明治21年)に日本を発ち、カナダに7か月、その後ワシントン州、ニューヨークに3か月、英国に1年、さらにドイツ帝国(ベルリン)に滞在し、1890年(明治23年)に帰国[13]。この外遊で日本の民権運動の意義を訴えたが全く相手にされず、日本が西洋人の眼中にないことを痛感、それまでの民力休養論者から、他国から畏敬され国勢を発展させるための租税増徴と軍備増強を是とする富国強兵の立場に転向し、同年結成の立憲自由党に参加した[1]。
1892年(明治25年)、自らの衆議院議長就任を公約として第2回衆議院議員総選挙に栃木県第1区から出馬、当選を果たした[14]。陸奥宗光の意向を受け、「独立倶楽部」を星支持でまとめた岡崎邦輔の奔走もあり、第2代議長に選出された。第三議会では陸奥の指示もあり、松方内閣を厳しく追い詰めた。内閣弾劾決議が可決され、追加予算は削除され、追い込まれた松方内閣は辞職した。次いで成立した元勲総出の第2次伊藤内閣に、天皇から不信を蒙っていた陸奥が外相として入閣したのは、元老が星が主導する自由党との協調なくしては議会政治運営が不可能であることを悟ったことによる。
第四議会を前に自由党幹部は「世間の風評に構わず飽くまで積極的建設主義(Positive constructive)の方針を執り、この主義に合うものは全て採用すること、吏党とか民党とか批評に構わざること」を決議し、第四議会においては陸奥と協調し、自由党を強引に伊藤内閣支持に転換させ、予算案に関する「和協の詔勅」の受諾で党内をまとめた。これは藩閥政府対民党という構図を崩壊させた日本政治史上最大の画期であり、議会第一党が政府を批判するのみでなく、国家的見地に立ち、政府との妥協や調整を通して施策に責任を持つ体制の濫觴であり、その後の政友会や自民党に引き継がれた日本の立憲政党政治確立への大きな一歩であった。しかしその過程で、地租軽減を公約としていた党内や民党連合を壊された改進党、存在を軽視された吏党議員からは恨みを買うこととなり、その憎悪は星議長に対する不信任として噴出した。
1893年(明治26年)11月29日、衆議院にて相馬事件の被告弁護、取引所からの収賄疑惑などにより議長不信任案が可決される[15]。星は議長辞職を拒否したため、さらに12月1日議長不信任上奏案が可決された。翌2日、明治天皇は上奏は議長更迭の請願か、議院の不明を謝するの意かと質問し、衆議院は後者の意とする奉答案を可決。12月5日、衆議院は議院法第96条に基づき星に対して一週間の登院停止の懲罰、さらに同13日には最も重い懲罰である議員除名が議決された。しかし、3か月後の衆院選挙で再選され、政界に復帰した。
その後政務委員として党幹部に返り咲くが、苛烈な選挙で莫大な借金を残し、日清戦争開戦による挙国一致ムードの中で政争は棚上げとなり、星の活動の場は失われた。失意の中で朝鮮視察に赴き、井上馨駐朝公使から朝鮮経営に参画するよう勧められ、1895年(明治28年)3月、朝鮮に渡り法務部門顧問となる[16]。しかし、三国干渉により朝鮮での日本の権威は失墜し、星は親日派の内部大臣朴泳孝を閔妃に取り入らせ、宮廷を握ろうと画策するが失敗、8月には井上が公使を辞任した。後任の三浦梧楼からは軽視され、10月の閔妃暗殺事件でも計画の埒外に置かれ、善後策協議のための使者として東京へ向かい、そのまま朝鮮へは戻らなかった。
自由党と伊藤内閣との提携は専ら林有造と伊東巳代治との間で維持されたため星の出番は無く、陸奥も日清戦争終結の心労から病床にあった。板垣入閣問題で伊藤邸に乗り込むなどしたが、既に党内全体が政府との提携を是認している状況では、少数派の関東派を率いる星が主導権を取ることはかなわず、党内で孤立した星は1896年(明治29年)2月、伊藤博文に外国行きの希望を洩らす。 4月に駐米公使に任命され、関東派を陸奥に託し渡米した。この間、法典調査会委員、鉄道国有調査会委員などにも任ぜられた。
1898年(明治31年)の第1次大隈内閣(隈板内閣)では、外務大臣として入閣する予定であったが、大隈重信首相がこれを拒否、憲政党分裂を生む原因となった。1899年(明治32年)の憲政党東北出張所開設式において、東北築港、東北鉄道完成、東北大学設置を決議。 「自由党は専制の昔時において破壊の運動をなせるも、憲政の今日は積極的に建設の運動をなしつつある者なり」とし、「経済、交通において西南に比して劣る東北は鉄道、築港等の建設主義を取らなければならない、自由党は東北において必ず是等の事業を成就しなければ責任を全うしたものでない」とする、日本政党史上画期的な演説をなす。それまで、田舎代議士の機嫌を取るための厄介ごとと考えられていた地方的利益実現要求を、利用すべき資源と捉えて積極的に喚起し、その実現を政府と提携する政党に期待させることで党勢拡大を図る戦略を開発、確立した。1900年(明治33年)発足の立憲政友会に参加したことで伊藤博文から信頼を受け、第4次伊藤内閣において逓信大臣として初入閣。その逞しい政治手腕から「おしとおる」と渾名された。収賄などの噂も絶えなかったが、星の活躍への嫉妬によるもので本人は金銭に無頓着であった。[15][17]。
1900年(明治33年)11月15日、東京市会汚職事件に関して市参事会員を兼任していた星逓信相らが告発され、12月20日星は辞表を提出。同月22日、原敬が後任として任命された。日本裏面史より見れば、三多摩の村野常右衛門、森久保作蔵など大阪事件以降の自由党右派の壮士たちを政界に引き入れていることから、たとえ星自身が金銭的に潔白であるとしても、東京市政の疑獄の数々には星の責任も大きいと言われる。
1901年(明治34年)6月21日午後3時過ぎ、東京市会議長に就任していた星は、東京市庁参事会議事室内で市長・助役・参事会議員らと懇談中、元東京市四谷区学務委員の伊庭想太郎(心形刀流剣術第10代宗家)によって刺殺された[18]。満51歳没。その2年前に星は静岡県の長沢雄盾宅にて、大本の出口王仁三郎と会談し、出口に死を予言されていた[19]。墓所は東京大田区の池上本門寺。
妻は星つな(津奈、綱、綱子)、養嗣子の星光が家督相続した。
1894年(明治27年)、官約移民の廃止にあたって、星は私約移民体制の設置を日本政府に働きかけ、民間移民会社の認可を取り付けた。以後、日本の民間会社を通した斡旋が行われるようになった。当時は海外移民と国内との送金業務は横浜正金銀行が独占していたが、星は五大移民会社(広島海外渡航会社、森岡商会、熊本移民会社、東京移民会社、日本移民会社)のうち主要数社の事業に関与していた[21]。当時ホノルルで稼働していた鉄道を国内へも導入しようとした井上敬次郎の活動にも助力した[22]。
利光鶴松、小林清一郎、大塚常次郎、横田千之助、渡辺亨、磯部保次、林謙吉郎、小久保喜七、日向輝武、井上敬次郎、渡辺勘十郎、菅原伝などがいる[33][34]。
星は海外経験を積ませて党の原動力とする狙いから渡米者の一部を支援し、帰国後には自由倶楽部員を政党機関紙誌などの要職や移民事業などに重用した。彼らは星派の中核を担う人材となり、自由倶楽部員も多くが星派に連なり、壮士の政治上昇の契機となった[35]。
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