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庵原軌道(いはらきどう)は、かつて静岡県庵原郡辻村(現・静岡市清水区)の東海道本線江尻駅(現・清水駅)から、庵原郡庵原村金谷(現・静岡市清水区庵原町)の庵原金谷駅を結んでいた軽便鉄道である。
1909年(明治42年)、庵原郡庵原村出身の衆議院議員で製紙会社社長の西ヶ谷可吉[注釈 1]は「村発展のためには鉄道建設が必要である」として[1]、西ヶ谷を始めとする庵原村、袖師村、安倍郡清水町(いずれも現在の静岡市清水区)の有志らが発起人となり、同年12月13日付で庵原軌道敷設特許申請を鉄道院に届け出た[1]。翌1910年(明治43年)4月20日に敷設免許がおり、庵原軌道株式会社が設立。初代社長に西ヶ谷が就任した[2]。当初は馬車鉄道(軌間610mm)を計画していたが、1911年(明治44年)10月14日付で動力を蒸気に、軌間を762mmに変更を行っている[2]。
1913年(大正2年)12月16日、鉄道院東海道本線江尻停車場の西側を起点に、西久保までの区間が開通。翌1914年(大正3年)5月22日に庵原金谷まで開通した。本来はこの先、伊佐布(いざぶ、現・清水区伊佐布)まで路線を計画していたが、道路拡張工事が必要なことや、費用面などに阻まれ断念している[2]。
開業当初は物珍しさから乗客が多かったものの、次第に減少し空席が目立つようになった。その頃、辻村から清見寺(現・清水区興津清見寺町)へ至る路線も計画していたが、土地や家屋の買収ならびに移転交渉に手間取り、工事になかなか着手することができなかった[2]。さらに、社長の西ヶ谷が別の事業で多額の負債を抱えてしまい[3]、資金繰りが困難なほど経営は行き詰まった。その上、給料の支払いも滞り、従業員の服装は冬場でも夏服という有様であった[2]。そして再三にわたる給料遅延から、1915年(大正4年)5月12日には運転休止に追い込まれる。従業員は全て休業し、製茶で賃金を得ていたという[2]。同年5月28日には運転を再開するが、翌1916年(大正5年)3月14日に再び運転休止になる。乗客・貨物ともに減少する一方であり、累積赤字の増加から結局、同年6月2日をもって会社は解散。同年7月17日に全線廃止された[4]。開業から廃線までは僅か2年半であり、同じく静岡県に存在した光明電気鉄道よりも短命であった。
廃止時点
廃止時点、山崎 (1993) および今尾 (2008) による
江尻駅 - 辻学校前駅 - 辻町駅 - 秋葉前駅 - 西久保駅 - 神明前駅[注釈 2] - 庵原役場前駅 - 庵原郵便局前駅 - 庵原新田駅 - 庵原金谷駅
事業者名は廃止時点のもの
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