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日本のタレント、俳優、元アイドル、歌手 ウィキペディアから
山田 隆夫(やまだ たかお、芸名:山田 たかお[注 1]、高座名:鈴々舎 鈴丸〈れいれいしゃ すずまる〉、1956年〈昭和31年〉8月23日 - )は、日本のタレント、シンガーソングライター、落語家、俳優。5代目鈴々舎馬風門下でもある。東京都江東区深川出身。親類は、山田純大、杉良太郎(山田勝啓)がいる。
1956年8月23日、東京都江東区で生まれ育つ。6人兄弟姉妹の末っ子として誕生する。幼少期、材木問屋の実家が詐欺に遭い全財産を失う[1]。それにより両親がいつも暗い顔をしていたので、山田は落語で両親を心から笑わせたいと思うようになり、これが落語に興味を持つきっかけになった[2]。
渋谷区猿楽小学校時代には学芸会で演目に参加して人気があった。10歳の時、フジテレビの『ちびっこのどじまん』でデビュー[1]。番組の審査員に声をかけられ、NHKの歌番組に出演。さらに、その様子を目にした脚本家に見初められ『劇団ひまわり』に所属[1]。その後複数の番組に出演し、1970年からは日本テレビの『笑点』の「ちびっ子大喜利」にレギュラー出演した[2]。
「ちびっ子大喜利」の座布団10枚獲得記念賞品がレコードデビューだったことから、1973年にずうとるびを結成し、歌手デビューを果たす[2]。ずうとるび在籍時代には歌手として、第26回NHK紅白歌合戦に出場。その後(1975年3月)日本大学豊山高等学校を卒業する。
1977年、結婚を機にずうとるびを脱退[2]。建前上は結婚のため脱退となっているが、実際はこの頃ずうとるびの音楽的方向性の考え方の相違から、当時は他のメンバーと険悪な状態になっており[1]、山田自身の意思による脱退だった(しかし、山田はメンバーらと後に和解し、2020年再結成に至っている)。
ずうとるび脱退以降は俳優に主軸を置いた活動となるが、脱退と同時にずうとるびとして出演していた番組を軒並み降板することになった。そのため仕事の数が急激に減り、当時すでに所有していたマンションが主な収入源となる時期があった。このときの出演番組のひとつにNHKの子供向け番組『おかあさんといっしょ』があり、毎週土曜日に放送されていたコーナー『どんどんどん』のお兄さんを1980年度の1年間務めた。この間、17歳でプロボクサーのライセンス(プロボクシングC級ライセンス)を取得した[3][4]。
俳優としても活動しており、多数のテレビドラマや映画に出演している。1987年にアメリカ映画『太陽の帝国』(スティーヴン・スピルバーグ監督)に出演[1]、オーディションにより決定したがその際には「キリストのお墓が日本のお寺にあるって聞いて、実際にそのお寺に行ってお坊さんに『本当にお墓はあるの?』って聞いたら、お坊さんが言ったんです。『イエス、イエス』」というギャグを披露し合格した[5]。また、これに伴い山田は役作りのために坊主頭になっている。その時期、警察署の一日署長を務めたことがあり、その写真が笑点40周年記念本に収録されている。
この演技が認められ、『ミスター・ベースボール』に通訳の役で出演が内定。山田自身も出演を公表していたものの、後に出演が取りやめとなった。
1984年10月7日から松崎真の後任として、『笑点』大喜利での6代目座布団運び役に就任[1]。山田は前述の通り以前『笑点』の「ちびっ子大喜利」に出演していたことから、事実上番組に復帰した形となる。これまで座布団運びを務めてきた人は体格の良い者が多かったが、「重い座布団をちっちゃいのが運んだらおもしろいんじゃないか」という5代目三遊亭圓楽と番組プロデューサーのアイデアで、岐路に立っていた山田に白羽の矢が立った[6]。山田の色紋付は当初赤紫だったが、1年後朱色(番組では赤と扱われることが多い)に変わる。定紋は『剣かたばみ』。最初の挨拶の時は「座布団と幸せを運ぶ、山田隆夫です」というキャッチフレーズがあり、2015年の一時期は山田の挨拶がこのキャッチフレーズのみだったことがある。2016年頃から地方収録の時には、「山田流座布団運び家元とその一座でございます」という歌舞伎風の芝居がかった挨拶をするのが恒例となっている。
年齢的にはベテランながらいつまでも下働き的な役目をしていることから、回答者からしばしば「今日(今週)限りで番組卒業・クビ」「来週からは新座布団運びが登場」「あんな仕事は誰でもできる」「山田の挨拶はつまらん」「いい加減辞めてほしい」「山田、座布団運び卒業するってよ」「じゃま田隆夫」などと罵倒されることが多く[注 2]、これに反発して回答者を突き飛ばす(突き飛ばした直後に文句を言う時もある。)など荒いやり方で座布団を没収する。罵倒されなくてもごく稀に突き飛ばして座布団を没収することもある。これは、目立たなくなりがちな座布団運びを番組に絡ませようという5代目三遊亭圓楽の提案が元で始まった。山田の罵倒ネタは林家たい平、桂宮治を中心に、かつては林家こん平、6代目三遊亭円楽(楽太郎)、桂歌丸なども多用していた(特にこん平とたい平が多用した)。座布団の没収に関して5代目圓楽からは「山田君に任せます」と言われたり罵倒した回答者を嗜めるなどこの行為を黙認されていたが、歌丸や昇太からは奪った枚数+1枚(稀に2枚以上)を与えるように指示されることが多くなった[注 3]。また、歌丸司会就任以降は、冒頭の挨拶の際に司会者から「○○な座布団運びのご挨拶からどうぞ」と、ほぼ毎回貶した形で紹介をされている[注 4]。歌丸司会時代、歌丸がメンバーの山田罵倒回答にほぼ座布団をあげており、自身への罵倒回答に座布団をあげる様指示を出された時は小声で「何で?」等不満を漏らしていた。
子作りネタでいじられ、5代目圓楽からは「動くバイアグラ」と言われた事がある。
昇太の司会就任以降は、宮治や六代目円楽の後任として加入した春風亭一之輔から、「楽屋の弁当を盗んだ」などと弄られることがある。
芸歴上は、林家木久扇の卒業を期に全員が後輩になったが、メンバーからは「山田くん」と呼ばれている[注 5]。2010年ごろからパーマをかけた独特の髪形にしており、これも「人間の髪型じゃない」「爆発に巻き込まれた人」などといじられることがあるほか、歌丸からは「カビの生えたような頭を直しなさい」と苦言を呈されている[7]。
江戸川区在住時代は5代目圓楽から「江戸川のスター」と紹介されることが多かったが、東京都の区画整備により高圧鉄塔が建つために立ち退き、横浜市に引っ越した。新居落成時には、番組でメンバーのお宅訪問が行われた[注 6]。山田本人はこの邸宅を「座布団御殿」と呼んでいる。また、細木数子からの助言を受けて、2011年には東京都江東区にマンションを建設したが、12年後にそのマンションが再開発の対象区域となり、国から売却を求められたため、多額の利益を得たことを明らかにしている[8][9]。
5代目圓楽は山田の背が低いことから「山椒は小粒でピリリと辛い」「総身が知恵」と紹介したこともあった。
なお、笑点には座布団係に徹するために本名で出演しているが、鈴々舎馬風に入門し、落語家として「鈴々舎鈴丸」という名を持っている。入門のきっかけは笑点の座布団運びになったことで、落語での世界のしきたり・作法や立ち居振る舞いなどを勉強する意味で、落語家修行を始めたものである[6]。番組内では時折「大喜利メンバー入り」の意思を宣言しており、稀に大喜利で回答することもあるため弟子入りしたとも考えられている。
1998年7月には自身が務めていた「大喜利」の座布団運びを若手大喜利のメンバー[注 7]に任せることとなり休んだが、視聴者から苦情や抗議が殺到したことに加えて、五代目圓楽と歌丸を含めたメンバーからも「山田君を座布団運びに戻さないなら、笑点は他局でやる!」と要望したこともあって1か月ですぐに復帰した[10]。
2020年5月17日放送分以降は新型コロナウイルスの流行の影響で、番組の収録形式がリモートに変更になったことに伴い、山田は出る幕がないことから不要不急として一時休演することになった[注 8]。しかし視聴者から心配する声が相次いだことにより、6月14日以降は挨拶の時のみ電話音声やVTRで出演するようになり、8月23日放送の「チャリティー笑点」(生放送)からスタジオ出演に復帰している。
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