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日本の微生物学者、医師 (1853-1931) ウィキペディアから
北里 柴三郎(きたざと しばさぶろう[注 1]、1853年1月29日〈嘉永5年12月20日〉- 昭和6年〈1931年〉6月13日)は、日本の微生物学者、教育者。位階勲等は、従二位勲一等男爵。
貴族院議員、私立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)創立者兼初代所長、土筆ヶ岡養生園(現・東京大学医科学研究所附属病院)創立者兼運営者、私立北里研究所、北里研究所病院(現・学校法人北里研究所)創立者兼初代所長ならびに北里大学学祖、慶應義塾大学部医学科学長(1920年から慶應義塾大学医学部初代学部長)、慶應医学会初代会長、慶應義塾大学病院初代院長。
「近代日本医学の父」として知られる。1889年(明治22年)に破傷風菌の純粋培養に成功、翌1890年(明治23年)に血清療法を開発、さらに、1894年(明治27年)にペスト菌を発見し、「感染症学の巨星」と呼ばれる。第1回ノーベル生理学・医学賞では、最終候補者(15名のうちの1人)まで選ばれた[1]。
北里柴三郎は肥後国阿蘇郡小国郷北里村(現・熊本県阿蘇郡小国町)に生まれた[2]。父の惟保(これのぶ、1829年 - 1902年)は、熊本藩惣庄屋家北里家の分家の北里家の当主であり[3]、庄屋を務め、温厚篤実、几帳面な性格であった。母の貞(てい、1829年 - 1897年)は豊後森藩士加藤海助の娘で幼少時は江戸で育ち、嫁いでからは庄屋を切りもりした。柴三郎の教育に関しては甘えを許さず、親戚の家に預けて厳しい躾を依頼した。闊達な性質で、柴三郎の指導者としての性格は母親譲りであろうとされる[4]。
柴三郎は8歳から2年間、父の姉の嫁ぎ先の橋本家に預けられ、漢学者の伯父から四書五経を教わった。帰宅後は母の実家に預けられ、儒学者・園田保の塾で漢籍や国書を学び4年を過ごした。その後、久留島藩で武道を習いたいと申し出たが、他藩のため許可されず、実家に帰って父に熊本に遊学を願い出た。
1869年(明治2年)、柴三郎は細川藩の藩校時習館に入寮したが翌年7月に廃止になってしまった。その後、一時的に帰郷して地元の小国郷で教師、役所見習として採用されている(1870年8月26日付の辞令の控えが2022年に発見された)[5]。
1871年(明治4年)、藩立の西洋医学所に入学[5]。そこで柴三郎は教師のマンスフェルトに出会い、医学の世界を教えられ、これをきっかけに医学の道に目覚めることになった。マンスフェルトから特別に語学を教わった柴三郎は短期間で語学を習得し、2年目からはマンスフェルトの通訳を務めるようになった。マンスフェルト、職員、生徒の集合写真にはマンスフェルトの横に柴三郎が写っている[6]。
1875年(明治8年)、柴三郎は23歳で上京し、東京医学校(現・東京大学医学部)へ進学したが、在学中よく教授の論文に口を出していた為、大学側と仲が悪く、何度も留年した。
1883年(明治16年)、柴三郎は医学士となった。在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信するに至り、予防医学を生涯の仕事とする決意をし、「医道論」を書いた。演説原稿が残っている[7]。卒業時の成績(この時、31歳)は26名中8位であった[8]。その後、長與專齋が局長であった内務省衛生局へ就職した。
柴三郎は同郷で熊本医学校の同期生であり、東大教授兼衛生局試験所所長を務めていた緒方正規の計らいにより、1885年(明治18年)、ドイツのベルリン大学へ留学した。緒方正規と北里柴三郎は同郷で、熊本医学校では同期であったが、緒方は北里より3年早く東京医学校に入ったので、北里が東京医学校を卒業した時には、緒方は内務省衛生局では上司の立場になっていた。
ドイツでの柴三郎は、コッホととても仲良くなり、コッホに師事して大きな業績を上げた。1887年(明治20年)、石黒忠悳陸軍省医務局長はベルリンを訪問して、柴三郎にペッテンコーファー研究室に移るように指示したが、コッホは石黒と面会し、北里柴三郎という人物の期待の大きさを強調したので、石黒は異動命令を撤回した[11]。
1889年(明治22年)、柴三郎は世界で初めて破傷風菌だけを取り出す「破傷風菌純粋培養法」に成功した。翌年の1890年(明治23年)には破傷風菌抗毒素を発見し、世界の医学界を驚嘆させた。さらに「血清療法」という、菌体を少量ずつ動物に注射しながら血清中に抗体を生み出す画期的な手法を開発した。
1890年(明治23年)には、同僚であったベーリングと連名で「動物におけるジフテリア免疫と破傷風免疫の成立について」という論文を発表した。第1回ノーベル生理学・医学賞の候補に柴三郎の名前が挙がったが、血清療法をジフテリアに応用したベーリングが受賞した[注 3][12]。人種差別のために受賞できなかったという明確な証拠は見つかっていない[注 4][13]。
論文がきっかけで北里柴三郎は欧米各国の研究所、大学から招聘の依頼を数多く受けるが、国費留学の目的は日本の脆弱な医療体制の改善と伝染病の脅威から国家国民を救うことであるとして、柴三郎はこれらを固辞し、1892年(明治25年)に日本に帰国した。
北里柴三郎はドイツ滞在中に、脚気の病原菌の発見を発表した緒方正規に対し、実験手法の不備を指摘し病原菌発見を否定した。先述の通り緒方は北里の上司だったことがあり、東京大学総長加藤弘之から「師弟の道を解せざる者」と激しい非難を浴びた。森林太郎(森鴎外)からは「識ヲ重ンセントスル余リニ果テハ情ヲ忘レシノミ」と評され、北里は「情を忘れたるものに非ず。私情を制したるものなり」と反論した[14]。
帰国した北里は、学界および社会に向かって伝染病研究機関設立の必要性を熱心に説いた。そして、1892年(明治25年)6月、中央衛生会の長谷川泰、高木兼寛、石黒忠悳らが伝染病研究機関設立を建議した。しかし、仮に建議が通ったとしても事業開始は翌年4月以降であり、北里に無為に約1年を過ごさせるのはなんとかしたいという人が増えてきた[15]。
北里のような優れた学者が無為に過ごすことを憂いた福澤諭吉は、まずは仕事ができるようにすべきだと考えて援助を行った。1892年(明治25年)10月初旬に芝公園内で研究所の着工が始まり、ひと月余りで十余坪の伝染病研究所が設立した。同年11月には、伝染病研究所は大日本私立衛生会から伝染病研究を委託され、年間3600円の財政支援を受けた[16]。
1893年(明治26年)、伝染病研究所が手狭になったため、芝区愛宕町の内務省の用地に移転を計画した。その頃、伝染病研究所の事業が国民の福祉に関係あることが識者に注目され、衆議院議員の長谷川泰ら175人の議員の賛成を得て、国が北里の伝染病研究所に補助金を出す建議が衆議院に提出され、認められた[17]。
1893年(明治26年)、移転先の工事に着工しようとしたところ、危険なものを設立させてはならないと多数の芝区民による移転反対運動が起こった。さらに、元東大総長の渡辺洪基らも反対運動に参加した。世間でも騒がれて、社会的な問題に発展していった。その影響で、北里は研究事業をすることができなくなり、大日本私立衛生会の委託を辞して、海外からの招聘を受けようとも考えた。そこで、大日本私立衛生会では建設事務の一切を会の責任で行うことを約束し、事務担当者に永井久一郎を立てた。1894年(明治27年)2月に工事は完了した[18]。
1894年(明治27年)、北里柴三郎はペストの蔓延していた香港に政府・内務省から調査研究するように派遣され、病原菌であるペスト菌を発見するという大きな業績を上げた[19]。同じ頃、東大も青山胤通を派遣するが、青山は不運にもペストにかかってしまった。この時、東京大学派に属し青山と親交のあった森林太郎[注 5]は、北里の発見したペスト菌がニセモノであると「鴎外全集~北里と中浜と~」(第三十三巻)の中で批判している。
1899年(明治32年)、「私立伝染病研究所」は、国から寄付を受けて内務省管轄の「国立伝染病研究所」となり、北里は伝染病予防と細菌学に取り組むことになった。
その後、伝染病研究所は研究員が増え、業務範囲も増えて芝区愛宕町の建物では手狭になったので、1902年(明治35年)、東京の白金台に2万坪の土地を購入し、1906年(明治39年)11月、伝染病研究所、血清薬院、痘苗製造所の3機関の入る国立伝染病研究所(現・東京大学医科学研究所)の建物が新たに完成した。
北里柴三郎はかねがね伝染病研究は衛生行政と表裏一体であるべきとの信念のもと、内務省所管ということで研究にあたっていたが、1914年(大正3年)、政府は所長の北里柴三郎に一切の相談もなく、伝染病研究所の所管を突如、文部省に移管し、東大の下部組織にするという方針を発表した。これには長年の東大の教授陣と北里柴三郎との個人的な確執が背景にあると言われている。しかも、その伝染病研究所は青山胤通(東京帝国大学医科大学校長)が所長を兼任することになるが、北里はこの決定に猛反発し、その時もまだ東大と反目していた為、すぐに所長を辞任した。そして、新たに私費を投じて「私立北里研究所」(現・学校法人北里研究所。北里大学の母体)を設立した。そこで新たに、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどの血清開発に取り組んだ。
福澤諭吉没後の1917年(大正6年)、慶應義塾医学所が廃校になってから37年後、慶應義塾は国から医学科設置を許可され、「慶應義塾大学部医学科」が誕生した。北里柴三郎は福澤による長年の多大なる恩義に報いるため、学長[20][注 6]に自ら進んで就任した。新設の医学科の教授陣のメンバーにはハブの血清療法で有名な北島多一(第2代慶應医学部長、第2代日本医師会会長)や、赤痢菌を発見した志賀潔など北里研究所の名だたるスター研究者を惜しげもなく送り込み、柴三郎は終生無給で慶應義塾大学医学部(1920年、大学令により昇格)の発展に尽力した。
明治以降、日本では多くの医師会が設立され、一部は反目し合うなどばらばらの状況であったが、1917年(大正6年)に全国規模の医師会「大日本医師会」が設立され、北里柴三郎はその初代会長に就任した。その後、大日本医師会は、1923年(大正12年)に、医師法に基づく「日本医師会」となり、柴三郎は初代会長としてその組織の運営にあたった。
以下は「北里研究所誌」より[7]。
また、1920年(大正9年)、北里は慶應義塾大学医学部付属病院の開院式で、次のように語っている。
「予は福澤先生の門下生ではないが、先生の恩顧を蒙ったことは門下生以上である。ゆえに不肖報恩の一端にもならんかと、進んで此の大任を引き受けたのである。我らの新しき医科大学は、多年医界の宿弊たる各科の分立を防ぎ、基礎医学と臨床医学の連携を緊密にし、学内は融合して一家族の如く、全員こぞって斯学の研鑽に努力するを以て特色としたい」(「三田評論」、大正9年)
名字の「北里」の読み方に「きたざと」と「きたさと」の2つが存在するが、本来は「きたざと」である。
「きたざと」と発音するのは、子孫や、出生地の小国町、北里柴三郎記念館など[61]。
「きたさと」と発音するのは、学校法人北里研究所(北里大学)や、北里を紙幣デザインに選んだ際の財務省の発表、それを受けたテレビ局など[61]。また、文部科学省の教科書検定では「きたざと」は誤りとしている[62]。
北里は留学先のドイツで「きたざと」と呼んでもらうために、ドイツ語で「ざ」と発音する「sa」を使い「Kitasato」と署名した。その署名が英語圏では「きたさと」と読まれ、英語圏の読み方が一般的となっていった[61][63][64]。
以下は北里研究所誌より[71]。
以下は北里研究所誌より[74]。
以下は北里研究所誌より[76]。
以下は北里研究所誌より[77]。
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