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日本の武士、海軍軍人 (1843-1914) ウィキペディアから
伊東 祐亨(いとう すけゆき/ゆうこう[1][2]、天保14年5月20日〈1843年6月17日[2]〉- 1914年〈大正3年〉1月16日[2])は、日本の海軍軍人[3]。元帥海軍大将従一位大勲位功一級伯爵。初代連合艦隊司令長官を務めた。通称は四郎左衛門、四郎。号は碧海。家紋は庵木瓜。
薩摩藩士・伊東祐典の四男として鹿児島城下清水馬場町に生まれる。飫肥藩主・伊東氏に連なる名門の出身である(伊東祐安の養子で弟の右衛門の子孫という)。開成所にてイギリスの学問を学んだ。当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われている。江川英龍のもとでは砲術を学び、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学ぶ。 薩英戦争では決死隊を編成、スイカ売りに偽装してイギリス艦に近づくも失敗に終わった[4]。鳥羽・伏見の戦い前の江戸薩摩藩邸の焼討事件で江戸から脱出し、戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍した。
明治維新後は、海軍に入り、明治4年(1871年)に海軍大尉に任官。明治10年(1877年)には「日進」の艦長に補せられた。明治15年(1882年)には海軍大佐に任官、「龍驤」、「扶桑」、「比叡」の艦長を歴任する。明治18年(1885年)、横須賀造船所長兼横須賀鎮守府次長に補せられた。同年イギリスで建造中であった「浪速」回航委員長となり、その就役後は艦長に任じられ、明治19年(1886年)に海軍少将に進む。のち海軍省第一局長兼海軍大学校校長を経て、明治25年(1892年)12月12日には海軍中将に任官、横須賀鎮守府長官兼海軍将官会議議員を拝命[5]。明治26年(1893年)に常備艦隊長官を拝命し、明治27年(1894年)の日清戦争に際し、7月18日に初代連合艦隊司令長官を拝命した。
日本の連合艦隊と清国の北洋水師(中国北洋艦隊)との間に黄海上で明治27年(1894年)9月17日12時50分より行われた黄海海戦では、戦前の予想を覆し、圧倒的有利であった清国側の大型主力艦を撃破し(日本側の旗艦「松島」の4217tに対し、清国側の旗艦「定遠」は7220tと、倍近い差があった)、黄海の制海権を確保した。この戦いは日清戦争の展開を日本に有利にする重大な転回点であった。清国艦隊はその後も抵抗を続けたが、陸上での敗色もあり、北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏を決め、明治28年(1895年)2月13日に威海衛で北洋艦隊は降伏。丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げた。伊東は没収した艦船の中から商船「康済号」を外し、丁重に丁汝昌の遺体を送らせたことはタイムズ誌で報道され、世界をその礼節で驚嘆せしめた[6]。戦争後は子爵に叙せられ 軍令部長を務めた。明治31年(1898年)に海軍大将に進んだ。日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治38年(1905年)の終戦の後は元帥海軍大将に任じられた。政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うした。
明治40年(1907年)には伯爵に叙せられた。従一位、功一級金鵄勲章、大勲位菊花大綬章を授与される。大正3年(1914年)、腎臓炎のため70歳で薨去した。墓所は東京都品川区の海晏寺。
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