九子奪嫡
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九子奪嫡(キュウシ-ダッチャク)または九王奪嫡 [1](キュウオウ-) は、清朝聖祖康熙帝の諸皇子がアイシンギョロ氏の家督 (=嫡)、即ち清朝の帝位継承権をめぐって繰り広げた一連の暗闘 (を指す歴史学の術語) である。
即位後に摂政オボイの傀儡として辛酸を舐めさせられた康熙帝は、皇族勢力への牽制を目的として、自らの諸皇子が各々の勢力をもつことを許した。ところがそれがやがて党閥的性格をもつに至り、更に皇太子胤礽が廃位されると、諸皇子とその勢力は次代皇帝の玉座を我がものとすべく暗闘をはじめた。「九子奪嫡」の謂は、初期に9人の有力皇子とその勢力がそれぞれに玉座を窺ったことに因む。
最終的に九の勢力は統廃合を経て四阿哥・胤禛 (後の雍正帝) の「四爺党」と八阿哥・胤禩の「八爺党」との一騎討ちとなり (但し八爺党は最終的に十四阿哥を支持した)、臨終の康熙帝が四阿哥・胤禛を指名したことで闘争はひとまず幕を閉じたものの、元号が雍正に改まったのちも、結果に不満を抱いた八爺党による胤禛への攻撃は明に暗に続いた。胤禛に敵対した皇子らは後に容赦ない粛清を加えられ、一部は悲惨な最期を遂げた。また、胤禛践祚に関連した噂が民間に伝わり、野史として「雍正簒位」が現在まで言い伝えられて来たことは、雍正帝の評価を低めてきた一因となっている。