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ホシュート(ᠬᠣᠱᠤᠳ カルムイク語:Хошут、モンゴル語:Хошууд、中国語:和碩特)は、モンゴル系遊牧民族オイラトの一部族(ホシュート部)で八部オイラト[1]の一つ。一時期はオイラト部族連合の盟主となるほど強盛を誇った。呼称はカルムィク語(オイラト語)に準じたホシュートのほか、現代モンゴル語に準じたホショード、チベット語に準じたホショトの名でも呼ばれる。
オイラト年代記である『四オイラト史』によると、ホシュートの起源はチンギス・カンの同母弟ジョチ・ハサルにまでさかのぼるという。ハサルの子孫は代々ホルチン部の部族長であったが、ホルチン部の系譜にはそこから分岐してホシュート部を創始したという人物名が記録されておらず、氏族名もボルジギン氏(ホルチン部)とオジエト氏(ホシュート部)とでは異なるため、この説は疑わしい。ただし、ホシュート部のオジエト氏がモンゴルの一部族であったのは確かであり、トゴン・タイシとエセン・ハーンのオイラト帝国時代にオイラトの傘下に入ったモンゴル部族がホシュート部となり、そのままオイラトになったものと思われる[2]。
モンゴル年代記である『蒙古源流』によると、モンゴルのトゥメト部長アルタン・ハーンが16世紀後半にオイラト征伐に乗り出し、オイラトのホイト部,トルグート部,バートト部,ドルベト部,ホシュート部の首長たちを殺害したという。これ以降、モンゴルとオイラトの対立が続くこととなるが、基本的に宗主権はモンゴル側にあった[3]。
1620年にオイラトのトルグート部とジュンガル部がモンゴルのハルハ部を攻撃したことに端を発し、オイラトとモンゴルが戦闘状態となった。1623年に四(ドルベン)オイラト連合軍[4]はハルハ部長でアルタン・ハーン[5]であるウバシ・ホンタイジらを殺害し、モンゴルの従属下から独立を果たした[6]。
1625年、ホシュート部のチョクルとその同母異父兄弟であるバイバガスとの間で遺産相続争いが起き、その戦闘でバイバガスが戦死した。バイバガスの弟であるトゥルバイフとクンデレン・ウバシはイシム川からトボル川まで逃げたチョクルを追い続け、1630年にヤイク川でチョクルの部民を殺害した[2]。
これが姻戚の諸部を巻き込んだ内乱に発展したため、1630年にトルグート部長のホー・オルロクは同族で争うことを避けるべく、一部のホシュート部民とドルベト部民を連れてヴォルガ河畔にまで逃れ、その地に移住した。これがのちのヴォルガ・カルムィクとなり、現在のカルムィク人となる[6]。
ホシュート部長となったトゥルバイフは1636年、チベット仏教ゲルク派の要請を受けて青海のチョクト・ホンタイジを討伐すべく、青海遠征をおこなった。トゥルバイフは暮の結氷期を利用して一万のオイラト軍を青海に侵攻させ、翌年にチョクト・ホンタイジの三万を殲滅した。これによってトゥルバイフはゲルク派のダライ・ラマ5世から「持教法王」の称号を授かり、グーシ・ノミーン・ハーン(国師法王)となった(以下、グーシ・ハーン)。これ以降、オイラトがチベット仏教ゲルク派の施主を務めるようになり、これまでチンギス・カンの男系子孫のみが名乗っていた「ハーン」号を他家であるオイラトも名乗るようになった[7]。
グーシ・ハーンは青海に呼び寄せた配下のオイラト人とともにチベットを平定してまわり、1642年にチベットを統一してチベット王の位に就いた。この時グーシ・ハーンがダライ・ラマ5世をチベット仏教界の教主に推戴したため、現在に至るダライ・ラマ政権(ガンデンポタン)が始まることとなった。グーシ・ハーンの子孫はその後も青海草原で遊牧をしながら、代々のチベット王の位に就いた。この王統をグシ・ハン王朝と称する。彼のチベット平定に従軍し、そのまま青海草原をはじめとするチベット各地に住み着いたホシュートは、オイラト本国に残留した集団と区別して、青海ホショトと呼ばれる[8]。
1675年、オイラト本国のホシュート部長オチルト・チェチェン・ハーンはジュンガル部長のガルダンと衝突し、翌年に捕虜となった。これまでオイラトの盟主はホシュート部であったが、これによって盟主の座をジュンガル部に奪われてしまう[9]。
ダライ・ラマ5世の摂政、サンギェギャムツォはガルダンを支援する政策が失敗におわり、グーシ・ハーンの一族からは距離を置かれ、清朝からは敵視されるようになり、孤立を深めていた。
第3代チベット・ハンであるダライ・ハンの嫡子ラサンは、一族との抗争に打ち勝ち、チベット・ハンの実権を回復しようと試み、まずサンギェギャムツォと結んで1703年にハンに即位し、「テンジン・ジンギル・ギャルポ(シャジンバリクチ・チンギス・ハーン)」の称号を得、サンギェギャムツォが擁するダライ・ラマ6世ツァンヤンギャムツォのお墨付きを得ながら、一族の属民を侵奪した。
しかしツァンヤンギャムツォは自身の小姓の扱いを巡ってサンギェギャムツォと対立をはじめ、「比丘戒」を受けることを辞退するのみならず、既に受けていた沙弥戒まで返上、飲酒と女色に溺れる放蕩生活に入った。ラサンとサンギェギャムツォの協力関係は破れ、サンギェギャムツォのラサンに対する投毒の試み、ラサンによるサンギェギャムツォ親子の拘束とサンギェギャムツォの殺害、ラサンによるツァンヤンギャムツォの逮捕と清朝への送還などが行われた。
清の康熙帝もサンギェギャムツォを不快に思っていたので、ラサン・ハンに味方し、パンチェン・ラマ2世の同意を得て新たなダライ・ラマ6世(対立6世)イェシェギャムツォを立てたが、チベット人の信用を得ることができなかった。
グーシ・ハーン一族の分家諸家の多くは、ラサン・ハンによるツァンヤンギャムツォの廃位とイェシェギャムツォの擁立に激しく反発、彼らは、ガルダン以来オイラト本国を掌握していたジュンガル部長のツェワンラブタンとの間で、ラサンの排除とケサンギャムツォ(清朝に送還される途上で死去したツァンヤンギャムツォの転生者とされる)の擁立を目指す秘密同盟を締結した。1717年、この同盟にもとづき、ジュンガル軍がチベットに侵攻、突如現れたジュンガル軍に対し、歴代のチベット・ハンがダム草原に配置していた小規模な直属部隊だけではこれに対処できず、ラサに後退したが、内部からチベット人が城門を開けたためジュンガル軍と戦闘になった。初めはラサのポタラ宮に立てこもって清の援軍を待っていたラサンであったが、援軍が到着するまでもたないと判断すると、そのまま撃って出て壮烈な戦死を遂げた。
1755年、清朝はジュンガル部の相続争いからオイラトが内乱状態になったのに乗じてオイラト本国に出兵、ジュンガル帝国を滅ぼした。ジュンガル帝国の滅亡後、各地にいたオイラト諸部は清朝によって遊牧地を与えられ、満州人の八旗制度に準じた旗(ホシューン)に分けられた。以下は各ホシュートの旗[10]。
名 | 在位期間 | ダライラマ授与の称号:チベット語(モンゴル語)/清朝皇帝授与の称号 | 通称 |
---|---|---|---|
トゥルバイフ | 1642年 - 1654年 | テンジン・チューキ・ギャルポ(シャジンバリクチ・ノミン・ハーン)/遵行文義敏慧顧実汗 | グシ・ハン |
ダヤン | 1654年 - 1668年 | テンジン・ドルジェ・ギャルポ(シャジンバリクチ・オチル・ハーン) テンジン・ターヤン・ギャルポ(シャジンバリクチ・ダヤン・ハーン) | ダヤン・ハーン |
グンチュク | 1668年 - 1700年 | テンジン・タレー・ギャルポ(シャジンバリクチ・ダライ・ハーン) | ダライ・ハーン |
テンジン・ワンギャル | 1700年 - 1703年 | ||
ラサン | 1703年 - 1717年 | テンジン・ジンギル・ギャルポ(シャジンバリクチ・チンギス・ハーン)/翊法恭順汗 | ラサン・ハン |
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