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オチルト・チェチェン・ハーン[3](またはオチルトゥ・ツェツェン・カーン[1])は、オイラット八部聯合の一角ホシュート部のハーン (王)。「チェチェン」はオイラット語で「聡明」の意。[注 2]単に鄂齊爾圖・汗オチルト・ハーン[4]とも。
チンギス・ハーン弟ジョチ・カサルの末裔で、グーシ・ハーン朝始祖トゥルバイフ (グーシ・ハーン) の次兄バイバガス[注 3](ホシュート部初代ハーン[3]) の長子。ジューン・ガル部ガルダン・ハーンは孫娘婿。
『欽定外藩蒙古回部王公表傳』(乾隆44年=1779) に拠れば、遅くとも順治4年 (1647) ごろには清朝に入貢し、駱駝や馬などを献上していたとされ、[4]康熙5年 (1666) にダライ・ラマ五世 (ロサン・ギャツォ) より「チェチェン・ハーン」の称号を賜与される[3]までは、「鄂齊爾圖・台吉オチルト・タイジ」として史書[5]に現れる。
同じくオイラット八部聯合の一角ジューン・ガル部のガルダン・タイジとは、ある時から揃って清朝に入貢していたものの、いつからか反目しあい、[6]康熙16年 (1677) 5月ごろ、[6]ガルダンの襲撃を受け、殺害された[7][注 4](または捕虜にされたとも[3])。
オチルト殺害について一説には、ガルダンと桑結サンゲとが策応して謀ったこととされる。ホシュート部の軍事力を以て対抗勢力を排除したゲルク派首領ダライ・ラマ五世は、第巴ディバと呼ばれる一種の政務官を新設したが、ガルダンがダライ・ラマ五世の許で仏教修行に励んでいたころにディバを務めていたのがサンゲであった。サンゲはやがてホシュート部によるチベットへの干渉を疎み始め、還俗してジューン・ガル部族長となっていたガルダンにホシュート部の駆逐をもちかけた。ガルダンはこれにより恰好の口実を得たことで、オイラット聯合における自らの地位向上を企図し、一挙にオチルトを攻撃した。[8][注 5]
オチルト軍を破ったガルダンは、鹵獲した弓矢などを清朝に献上したが、困惑した康熙帝は、通常の貢物の外は受けとらぬと、[6]鹵獲品を突き返したという。[4]
オチルト殺害によりホシュート部を制圧したガルダン・タイジは、ダライ・ラマ五世より「博碩克図・汗ボショクト・ハーン」の称号を与えられてガルダン・ボショクト・ハーンを名告り、康熙18年 (1679) には清朝からもハーン即位への実質的承認を得た[9][10]ことで、名実ともにオイラット聯合の覇者となった。
本項は基本的に『清史稿』巻522[11]に拠った。そのほかの引用のみ脚註を附す。
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