上海国際博覧会
2010年に中華人民共和国の上海で開催された国際博覧会 ウィキペディアから
2010年に中華人民共和国の上海で開催された国際博覧会 ウィキペディアから
上海国際博覧会(シャンハイこくさいはくらんかい)は、2010年5月1日から同年10月31日まで、中華人民共和国上海市浦東新区の上海世博園で開かれた国際博覧会である。
EXPO 2010 | |
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概要 | |
BIE区分 | Universal |
区分 | International Registered Exhibition |
名称 | Expo 2010 |
標語 | Better City – Better Life (城市,让生活更美好) |
面積 | 523ヘクタール (1,290エーカー) |
観客数 | 73,085,000 |
出展者 | |
国数 | 192 |
会場 | |
国 | 中華人民共和国 |
都市 | 上海 |
経緯 | |
選出 | 2002年12月3日 |
初日 | 2010年4月30日 |
最終日 | 2010年10月31日 |
Universal | |
前回 | 愛・地球博(愛知県) |
次回 | ミラノ国際博覧会(ミラノ) |
テーマ型博覧会 | |
前回 | サラゴサ国際博覧会(サラゴサ) |
次回 | 麗水国際博覧会(麗水市) |
園芸博覧会 | |
前回 | チェンマイ国際園芸博覧会(チエンマイ) |
次回 | フェンロー国際園芸博覧会(フェンロー) |
約160年の国際博覧会の歴史において発展途上国における初めての開催とされることが多いが[1]、実際には1949年にハイチの首都ポルトープランスで博覧会が開かれたという記録があるほか[2]、国際園芸博覧会兼国際博覧会(1990年に大阪で行われた花の万博と同じタイプ)は、1999年に同じ中国で昆明世界園芸博覧会が、2006年にはタイでチェンマイ国際園芸博覧会が開かれている。
過去に万博に参加したことがない北朝鮮が初めて出展、1970年の大阪の日本万国博覧会以来40年ぶりに参加する中華民国(台湾)が出展したことでも知られる。また、資金難で2000年のハノーヴァー万国博覧会への参加を見送ったアメリカ合衆国も、2005年の愛知万博に引き続き今回も出展するなど、参加国、国際機関は万博史上最多の246を数え[1]、敷地も万博史上最大であり、世界193カ国が参加申請うち189カ国が出展し(クウェート、ブータン、ブルキナファソの3か国は開幕前に申請を撤回した[3])、中国では皇帝時代の「万国来朝」に喩えられた[4]。しかし、上海協力機構、欧州連合、ASEAN、アラブ連盟、アフリカ連合のような地域連合までもが参加したようにこの裏には過剰な勧誘があったとされ、この件は「問題」の項目を参照されたい。
建設、運営費用などの総事業費は万博史上最高額の約286億元(約3,900億円)、地下鉄や空港などのインフラ建設や都市整備などを含めると4千億元(約5兆5千億円)が投入された。
2002年12月3日にモナコのモンテカルロで開催されたBIE(博覧会国際事務局)総会で、メキシコシティ(メキシコ)、モスクワ(ロシア連邦)、麗水(韓国)、ヴロツワフ(ポーランド)を破って開催が決定した。2005年日本国際博覧会(愛知万博、愛・地球博)に続く、新条約としては2度目の総合的なテーマを取り扱う大規模な国際博覧会(登録博覧会)である。テーマは「より良い都市、より良い生活」(「城市、让生活更美好」、"Better City Better Life")。シンボルカラーはグリーンとオレンジ。
中国語での正式名称は「中国2010年上海世界博覧会」であるが、「中国2010年上海世博会」の名称が主に使用され、略称として「上海世博会」・「上海世博」と呼ばれることも多い。日本語版公式ホームページでは「中国2010年上海万博」の名称が採用されている。
会場面積(観覧エリア)は黄浦江の両岸にまたがり、主として企業パビリオンが建ち並ぶ西岸の「浦西エリア」と主として各国のパビリオンが並ぶ東岸の「浦東エリア」に分かれ、両方を合わせると328ヘクタールにおよび、過去最大の広さである。会場の両端の距離は約4キロメートルであり、会場内の移動に地下鉄やバスが使用された。
万博のテーマソング『歓楽節拍123』を歌うのは台湾のアイドルグループ飛輪海である。公式マスコットは「海宝(ハイバオ、かいほう)」、また、ロゴマークは漢字の「世」とアラビア数字の「2010」を組み合わせたものである。
会期中の6か月間で、大阪万博を上回る史上最多の入場者を目指していたが、これは2010年10月16日に達成され、目標の7,000万人の入場者も2010年10月24日に達成された[1]。
堺屋太一によれば、1984年に堺屋が汪道涵上海市長に中国発展の起爆剤として万博開催を提案し、1985年からは新しく上海市長となった江沢民のもとで万博構想の具体化が進められ、上海万博準備室の黄耀誠副主任の要請で堺屋は高級顧問も務めた[5]。
上海万博を開催するに先だって中国政府は、知的所有権にかかわるいくつかの条約を批准し、国内的にも、著作権や商標権の侵害を本格的に取り締まる法律の整備を行った[5]。
開幕式は4月30日夜20時(北京時間)に万博文化センターで行われた。中国の胡錦濤総書記は万博会場近くでの歓迎夕食会で「上海万博は、中国と各国の人民の交流に新たな章を記すことになる」と語り、オープンセレモニーでは、イタリアの世界的なテノール歌手アンドレア・ボチェッリによってオペラ『トゥーランドット』のアリア「誰も寝てはならぬ」が歌われた。用意された花火は、2008年8月の北京オリンピック開幕式よりも2万発多い10万発であった[10]。
開幕式には、中国共産党の最高指導部である政治局常務委員からは6人が出席し、海外からは約20人の首脳が参加した。胡錦濤総書記は、一人ひとり握手で迎えて記念撮影し、歓迎夕食会を開催した[11]。
国名 | 参加者 |
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マリ | アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領 |
韓国 | 李明博大統領 |
北朝鮮 | 金永南最高人民会議常任委員長 |
日本 | 仙谷由人国家戦略担当相 |
ガボン | アリー・ボンゴ・オンディンバ大統領 |
コンゴ共和国 | ドニ・サスヌゲソ大統領 |
ケニア | ムワイ・キバキ大統領 |
マルタ | ジョージ・アベラ大統領 |
ベトナム | グエン・タン・ズン首相 |
モンゴル | ツァヒアギーン・エルベグドルジ大統領 |
フランス | ニコラ・サルコジ大統領 |
マラウイ | ビング・ワ・ムタリカ大統領 |
カンボジア | フン・セン首相 |
アルメニア | セルジ・サルキシャン大統領 |
セーシェル | ジェイムス・ミッシェル大統領 |
カザフスタン | カリム・マシモフ首相 |
トルクメニスタン | グルバングル・ベルディムハメドフ大統領 |
ミクロネシア連邦 | マニー・モリ大統領 |
オランダ | ヤン・ペーター・バルケネンデ首相 |
欧州委員会 | ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ委員長 |
パレスチナ自治政府 | マフムード・アッバース議長 |
閉幕式は10月31日夜20時(北京時間)に万博文化センターで行われた。BIE旗がドヴォルザークの交響曲第9番「新世界より」が演奏される中降ろされ、韓正上海市長からBIEのジャン・ピエール=ラフォン議長、事務局長に引き継がれ、2015年ミラノ国際博覧会の開催地ミラノ市のレティツィア・モラッティ市長とミラノ万博CEOジュゼッペ・サラへ手渡された。
日本からは、政府と民間企業が約130億円を折半して日本館を出展した。これにより日本館の出資費用約65億円は国費によってまかなわれたことになる。また、民間企業が中心となって出展した日本産業館のほか、大阪府と大阪市も共同で地方自治体出展した[12](なお、地方自治体による出展は日本館のイベントスペースでも行われている)。開催中は連日、入場まで4時間待ちもある程人気のパビリオンだった。
テーマ:「心の和・技の和(心之和・技之和)」
日本館パビリオンの愛称は、「紫蚕島(かいこじま)」。 エココントロール技術を採用し、外部は発電可能な超軽型フィルムで囲まれ、内部は循環式呼吸ホールなどの最新技術を駆使している。江原規由が館長を務め、日本館展示を貫く象徴となっている鳥は一時は絶滅の危機に瀕したトキで、里山の再生と環境保護を訴えかつ現在の日本のトキは中国から贈られたものの子孫であることから日中のつながりを象徴している。日本館のシンボルマーク=“笑顔のつながり(微笑相联)”は、株式会社HAKUHODO DESIGNの岡室健が考案。日本貿易振興機構(ジェトロ)が音頭をとった。高性能カメラやロボット、壁と一体化したテレビジョンなどが人気を呼び、上海万博でもトップクラスの人気館となった。日本館のイベントスペースでは、富山県を皮切り(2010年5月8、9日)として 日本の地方自治体による出展も行われ盛況を博した。
テーマ:「Better Life from JAPAN(日本が創るより良い暮らし・来自日本美好生活)」
日本産業館は、日本の企業や自治体が連合して出展する大規模な展示館。アジアで唯一の外国民間出展企業館であり、海外開催の国際博覧会では異例の大規模民間出展となった。総合プロデューサーは堺屋太一で同館の代表を兼ねた。館長はエッセイストの秋岡栄子。基本コンセプトは「きれイ、かわいイ、きもちいイ」(=J感覚)。
テーマ:「環境先進都市 水都大阪の挑戦(环境先进城市·水都大阪的挑战)」
経済成長とともに水の浄化や再生などの環境対策に取り組み、水を活かして持続発展可能な都市づくりを行ってきた「水都大阪」の官民の環境技術や先進的取り組みを紹介した。大阪府と大阪市がそれぞれ1億円ずつ出資し、民間企業を合わせた建設・運営費4億円でパビリオンを建設した。プロデューサーは橋爪紳也大阪府立大学教授。
テーマ:「未来にツナガル街、人、友情」
博覧会場内の河沿いボードウォークに藤井浩一朗作のアクリル彫刻作品「父子情」を永久設置、その序幕イベントを開催するとともに復旦大学上海視覚芸術学院、華東師範大学や上海市内ギャラリー等で日中美術家のグループ展覧会等の関連プログラムを開催。キュレーターは深瀬鋭一郎。
なお、パビリオンの日本語名は日本語版公式ホームページの表記による。
テーマ館(主题馆)は5つあった。メインのパビリオンはBゾーンにあり、1つの巨大な建物に「都市人館」・「都市生命館」・「都市プラネット館」が、大衆参加館および生命陽光館と共に設置されていた。そのため単に「テーマ館」と呼ぶ場合はこの建物を指した。
案内所(资讯)は場内の各所に設置されていた。出入口の近くや渡船の乗り場付近には必ず設置されていた。案内所では場内案内図や万博の話題専門の日刊新聞の「世博毎日快報」(中国語版および英語版がある)の配布があったほか、電光掲示板(中国語および英語での表記がある)で各種情報(各パビリオンの混雑情報や各種イベントの開催情報、各パビリオンの閉館時間など)が表示された。もちろん係員による直接の対応もできたが、必ずしもすべての係員が英語も使えるとは限らなかった。日本館に最も近い案内所にはほとんどの時間帯で日本語が話せる係員が配置されていた。中国独自のサービスとして、携帯用の茶ポットに熱湯を無料提供してくれるサービスがあった。
中国では水道を直接飲むと多くの人は体調を崩すため、ペットボトルのミネラルウォーターを購入して飲むことが一般的であるが、会場ではあちこちに浄水器で水道水を飲用可能にした水飲み場が設置されていた。ただし、暑い日はペットポトルに水を汲む人たちで行列ができた。
会場の至る所に設置されていた。女性用トイレは男性用の2倍以上の面積を取り、混雑をできるだけ無くすようにし、かつ常に清掃員を置き、清潔さを保つ努力を行っていた。大混雑が予想される日は臨時のトレーラー式トイレも設置された。ただし、地方からやってきた来場者の中には洋式トイレや水洗トイレの使いかたが良くわからない人もいたようで、常識では考えられない使用方法をする人や、水を流さない人も見受けられた。また、中国の地方に未だに多く残る扉の無いトイレに慣れた人の中には扉を閉じることに違和感を持つ人もいるようで、扉があるのに敢えて全開にして用を足す人もいた。
グローバルパートナーの交通銀行が浦東・浦西の両地区の会場内に有人店舗を構えて両替等の業務を行っていた。ATMは同じく交通銀行のものが場内の各所に設置されており、外国人も国際クレジットカードなどでのキャッシングが可能である。場内のATMは中国語・英語・日本語・韓国語の4か国語に対応していた。
場内の6か所に中国郵政が郵便局分室を設置していた。郵便局では記念切手や記念絵葉書、各種郵趣品が販売された。また、会場内郵便局内にある局内郵便ポストに投函された郵便物や窓口で受け付けられた郵便物には「上海・世博」の消印が押印された。なお、万博郵便局(世博郵政支局)の本局は中国館の南方の有料エリア外にある。
レストランは場内各所にあったが、それらとは別に各国のパビリオンに付属する各国料理のものもあった。日本からは吉野家、ファインなどが正規出店をした。特にテーマ館とエキスポセンターの間には「美食街」が設置され、会場内でも多くのレストランや軽食・ファストフード店が集中していた。会場内には外国料理も日本料理を中心に多くの料理があったものの、食費がきわめて安い中国においては割高感のある価格設定であった。有名チェーンの店でも市中の店よりも割高な価格設定となっていた。
会場は東西4キロメートルを超えるうえに、黄浦江の両側にわたっているため、場内交通は必須であった。このうちミニバスに相当する「観光線」は有料であったが、それ以外の交通機関はすべて無料で使用できた。無料のもののみをここでは取り上げる。
4路線がある。うち2路線は浦東側の路線、1路線は浦西側、1路線は河底トンネルで両岸を連絡するバスであった。途中のバス停も設定されていた。
上海地下鉄13号線が会場部分だけ先行開業し、浦東と浦西を結ぶ足としても活躍した。浦東側には世博大道駅が、浦西側には盧浦大橋駅がある。なお、路線は馬当路駅まで続いており、ここに会場外の出入口が設置されていた。
地下鉄13号線は万博終了後、運行を休止しており、2015年に正式に開通された。
黄浦江の両岸を結ぶ足として、渡船も5航路が設定されていた。船は今回のために新造され、1階にも2階と同じように椅子が設置されていたが、会期終了後は1階の椅子を撤去し、上海市内の他の渡船のようにバイクと自転車も輸送できるようにして、老朽化した従来船を置き換える予定である。なお、渡船は本数の大幅な増発が不可能なため、混雑時は乗船するまでに長時間の行列が必須であった。そのような時間帯は地下鉄やバスで対岸に渡ることが勧められた。
2007年3月から、上海市人民政府新聞弁公室および上海万博事務協調局が上海万博のPRイベントを日本で開催している。なお、上海万博のPRが中国国内以外で行われるのはこれが初めてであった。
2008年3月、日本イメージ大使に谷村新司、コシノジュンコ、福原愛の3人が選ばれた[14]。同年12月17日には、上海万博日本PR館が東京虎ノ門の森ビルにオープンした。
2010年6月12日から23日までの「ジャパンデー」では、w-inds.・amin・黒柳徹子・水木一郎など著名人が集まり、日本の伝統芸能・アニメ・マンガ・音楽・映画も披露された[15][16][17]。
SMAP初の海外公演も行われる予定だったが、ファンの殺到で会場が混乱する可能性を理由に中止することを万博事務局は発表した[18]。
また、ジャパンデーにあわせ、財団法人の角川文化振興財団(理事長:角川歴彦)の企画「遣唐使船再現プロジェクト」(協賛:森ビル、読売新聞社、経済産業省、文化庁など)によって全長30m、全幅9.6m、排水量164.7tで復元されたエンジン付き遣唐使船(名誉船長:夢枕獏)がかつての遣唐使と同一の航路で大阪港から上海に入港した[19]。出港式では住吉大社の安全祈願と歌手の坂本真綾によるプロジェクトのテーマソング(作曲・編曲:菅野よう子)の披露が行われた[20]。プロジェクトの親善大使を務める俳優の渡辺謙を乗せて万博会場内を流れる黄浦江を航行した[21]。
開幕式には、南北朝鮮の首脳がそろって参加し、胡錦涛主席と個別に会談した。李明博韓国大統領は、韓国軍の哨戒艦艇「天安」沈没をめぐる調査結果が出た際の協力を要請し、万博開幕式を首脳間の意思疎通の場として利用した[11]。「万博発祥の国」の首脳として開幕式に出席したフランスのサルコジ大統領は、大統領にとって2007年以来の2度目の中国公式訪問となり、冷え込んだ中仏関係の修復を内外に印象づけた。アメリカのヒラリー・クリントン国務長官、ロシアのドミートリー・メドヴェージェフ大統領・ウラジーミル・プーチン首相、また、日本の鳩山由紀夫首相も開催期間中に上海を訪れる意志を表明した[11]。
台湾からは与党中国国民党の連戦・呉伯雄が出席した。上海万博事務局によれば、今回の万博には、中国と国交関係を結ばず、台湾と外交関係を有する23か国のうち、19か国が参加した[11]。
万博会場の通常開場時間は9:00から24:00までであり、また、会場内の各パビリオンの開館時間は通常9:30から22:30までであった。ただし、最終入場は21時から21時30分頃に締め切るパビリオンも多かった。来場者は21:00より前に入場し、当日の24:00以前に退場しなければならなかった。夜間券の入場時間は17:00から21:00までの間であった。上海地下鉄は最終列車が23時頃であることが多いので、あまりゆっくりするとホテル等に戻る手段は深夜バスやタクシーだけとなった。
中国の慣例に従い、身長120センチ以下の小児は無料となった。
など
会場に入場するためには、出入口の前に並ぶ前にまず「予検」(预检)と呼ばれる未使用入場券を持っているかのチェックを受けた。もし入場券を持っていない場合は、近くにある当日券売り場に並んでから改めて「予検」を受ける必要があったが、当日券売り場は朝8時からしか開かなかったため、人気パビリオン狙いで早朝から並ぶ場合や、混雑が予想される日に入場する場合は予め入場券を購入しておくべきであった。前売りチケットは市内の一部の郵便局などで発売されていたほか、当日券売り場でも16時から19時半までは「翌日券」が発売された。また、17時から入場できる「夜間券」は当日券しか存在せず、毎日当日の16時から販売開始であった。
早朝に並んだ場合は「予検」ポイントの外側に並ぶことになり、朝7時頃に「予検」を行い入場門前に並び直すことになった。朝7時以降にゲートに到着した場合は通常通りの入場の流れとなった。
朝9時になると、4人ずつ入場のための検査を受けた。検査は空港同様の荷物検査と身体検査がある(安检)。荷物はX線装置に通し、人は金属探知装置を通るが、装置が反応しなくても必ず係員による身体検査も受けた。X線装置で手荷物内に不審な形状が認められた場合のみ手荷物内の検査も受けた。空港と異なり、飲料など安全な液体物の持ち込みはほぼ自由であった。それらが終わるとようやく入場券を自動改札機に通して会場に入った(票检)。この際に早くから門前に並んだ人のみに係員から中国国家館の予約券が渡された(10月19日以降、白蓮涇出入口では中国国家館の予約券ではなく、台湾館の予約券が配布された)。どの時間の予約券かはその日のゲートごとに異なり、早く並んだから早い時間になるとは限らず、かつ希望の時間への変更も不可であった。
以下のアクセスは、特筆しない限りメインゲート扱いである浦東側の「6号門・上南路出入口」へのもので、上海軌道交通7号線・8号線耀華路駅に隣接している。世博軸、中国国家館に近い。なお、地下鉄2号線の浦東国際機場駅から広蘭路駅の間は朝6時30分から21時までの運行で、深夜は運行されないので使用の際は注意が必要である。また、同区間は4両編成の列車の運行なので、必ず広蘭路駅で8両編成列車への乗り換えが必要である。
羽田空港以外からの便は浦東国際空港へ到着する。浦東国際空港には国際線と一部の国内線が発着している。
羽田空港からの直行便は上海虹橋空港へ到着する。上海虹橋空港には主に中国国内の国内線が発着している。
武装警察本部の共産党委員会の指示の下、数万人規模の中国人民武装警察部隊(中国人民解放軍の兵士・将校)の隊員により警備が行われ、主に万博会場周辺の警戒、重点ターゲットの防衛、武装パトロール、重点地域の守備などが担当された。また、他にも万博警備のために警官約4万6,000人を投入し、上海市内では約200万人の市民ボランティアが動員されて市街の巡回活動を行った[25][26]。 また、中国公安部、交通運輸部および上海市人民政府は、上海万博の安全な開催を保障するために万博期間中に上海市に進入する全ての車輌に対する検問の実施と通行証による管理を行うことを決定した。上海地下鉄ではすべての駅でX線装置による手荷物検査を行っていた。
2010年10月16日は土曜日で天候にも恵まれ気温も涼しく、絶好のコンディションが揃ったため、前売入場券を購入していたもののこれまで来場していなかった人々等が殺到し、入場者は1日だけで103.27万人を記録した。これは上海万博のこれまでの1日あたり入場者記録である9月23日の63.12万人はもちろん、国際博覧会のこれまでの記録だった大阪万博が1970年9月5日に記録した83.58万人も大きく更新し、新記録となった。
会場内は大混雑となり、石油館が12時間の待ち時間を記録したほか、5時間を超える待ち時間を記録したパビリオンが続出した。北朝鮮館など普段は待ち時間のないパビリオンにまでかなりの行列ができ、通路も大混雑したが、当初から入園者が70万人を超えそうな場合を想定した対策を取っていたため、通路に椅子や机などを出さないようにしたほか、園内交通用のバスを20両増やしたり、トレーラー型臨時トイレを各地に投入した。ボランティアの数も普段より増やし、会場の運営そのものは問題なく行われたと主催者側は発表している[27]。
その次の週末である10月23・24日は、通常日用の入場券で入場できる最後の週末であったために、更なる混雑も予想されたが、実際には悪天候となり再び100万人の入場者の来場とはならなかった。月曜日以降は指定日券でしか入場できなかったため、入場者数は落ち着いた。
開催当初は暑さ対策がほとんどなされておらず、日陰のベンチに倒れ込む来場者が続出していたが、その後、行列エリアには屋根・扇風機・冷風機・ドライミスト発生装置などが完備されるようになり、一部のパビリオンでは行列エリアに簡易ベンチも設置されるようになり、この問題は大幅に改善された。
上海万博PRソングで中国の著名な作曲家繆森の作品とされてきた『2010等你来(2010年が君を待ってる)』(歌およびMV出演:ジャッキー・チェンなど)が、岡本真夜の楽曲『そのままの君でいて』とソックリだとして盗作疑惑が持ち上がっていた[28]。中国ではインターネットを中心に批判が持ち上がり、日本のメディアでも大きく取り上げられた。事務局では事実確認のため一時使用停止し[29]、その後、岡本真夜の所属事務所に使用許可を求めた。岡本側は曲の使用を認めたが[30]、当局はこの使用申請受け入れについて言論統制によって国内での報道を禁止した[31]。なお、当初この曲は開会式で歌われる予定であったが、歌われなかった。
ベネズエラや南アフリカ共和国、エジプトなど一部の外国パビリオンは工事が遅れていて、開幕日の当日になっても開幕することができずに閉まったままであった[32]。
6月に入ってイラク館を最後にようやくすべてのパビリオンが完成した。なおこのイラク館は、地元メディアが開館直前に連日応援報道を行ったため、大した展示物が無いにもかかわらず開館後しばらくは行列ができる人気パビリオンとなった。
参加国・参加外国機関を増やすため、過剰な参加勧誘を行ったとされる。また、ニウエはそれまではどの国とも国交がなかったが、2007年に中国と初の外交関係を結び国家承認を行ったのは、1カ国でも「参加国」を増やす狙いがあったとされる。
収益は黒字であったことが判明しているが、その正確な額を明らかにしていない。万博のための過剰なインフラ整備費に4000億中国元(当時のレートで日本円にして4兆8000億円)以上が費やされたと見られており、最終黒字で取り戻せているわけではない。[33]
大阪万博と上海万博との類似性を強調するのが自身が大阪万博の開催を主導した堺屋太一である。堺屋によれば、大阪でも上海でも、
の3点を内外に披露し、「近代工業社会」を誇示する点で類似しており[34]、そこでは生活の質や生活様式、人びとの消費行動や行動様式が大幅に変化することが期待されている。また、堺屋は上海万博は「近代工業社会の最大にして最後のイベントになるだろう」と予言し[34]、中国人の消費のレベルをあげ、生活の質を向上させる変化の起爆剤になれば万博は成功だとしている[34]。ただし、上海万博閉幕ころにはバブル経済が弾けて中国経済全体が落ち込む可能性があり[34]、テイクオフののちには中国が「世界標準」を主張する可能性が少なくないとしている[34]。
朝日新聞編集委員の外岡秀俊も、万博の歴史に新たなページをひらいたのは1970年の日本であったとしている。フランスでは革命により王室を失い、代わって国民統合の象徴としての意味を担わされたのが産業振興であり、産業博覧会であった。20世紀にフランスに代わって万博を主導したのはアメリカ合衆国であったが、そこにも国民統合の意味合いがあった。外岡は、吉見俊哉東京大学教授のことばを引用しながら、そこに新しくアジアの「成功物語」をもちこんだのが日本であり、1964年の東京オリンピックから1970年の大阪万博までの流れは、韓国における1988年のソウルオリンピックから1993年の大田国際博覧会、そして、中国における2008年の北京オリンピックから2010年の上海万博への流れというかたちで受けつがれたと論じている[35]。
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