Loading AI tools
ウィキペディアから
モシン・ナガン(ロシア語:винтовка Мосина (Vintovka Mosina), Мосин-Наган (Mosin-Nagant))は、ロシア帝国陸軍少将のセルゲイ・イワノビッチ・モシンとベルギーの銃器設計者であるエミール・ナガン、レオン・ナガンのナガン兄弟が設計した五連発のボルトアクション式小銃。
モシン・ナガン シリーズ | |
モシン・ナガン | |
---|---|
種類 | ボルトアクション・ライフル |
製造国 |
ロシア帝国 ソビエト連邦 フランス フィンランド エストニア アメリカ合衆国 ポーランド ハンガリー ルーマニア 中国 など多数 |
設計・製造 |
設計:セルゲイ・イワノビッチ・モシン、エミール・ナガン、レオン・ナガン 製造 :トゥーラ造兵廠(ロシア) イジェフスク造兵廠(ロシア) セストロレック兵器廠(ロシア) シャテルロー造兵廠(フランス) SAKO(フィンランド) レミントン(アメリカ合衆国) ウェスティングハウス(アメリカ合衆国) など多数 |
仕様 | |
口径 | 7.62mm |
銃身長 | 80.2cm |
使用弾薬 |
7.62mm×54R(ロシア) 7.62mm×53R(フィンランド) |
装弾数 | 5発(箱型弾倉・クリップ) |
作動方式 | ボルトアクション |
全長 | 130.5cm |
重量 | 4,370g |
銃口初速 | 810 m/秒 |
歴史 | |
設計年 | 1891年 |
製造期間 | 1891年 - 1970年代 |
配備期間 | 1891年 - 現代 |
配備先 |
ロシア帝国軍 ソ連赤軍 ロシア連邦軍 フィンランド国防軍 東側諸国 など多数 |
関連戦争・紛争 |
義和団の乱 日露戦争 第一次世界大戦 ロシア革命 ロシア内戦 フィンランド内戦 トルコ革命 スペイン内戦 第二次世界大戦 国共内戦 朝鮮戦争 ベトナム戦争 アフガニスタン紛争 ソビエト連邦の崩壊 シリア内戦 イラクでの戦い (2013–2017年) 2022年ロシアのウクライナ侵攻 など増加中 |
バリエーション | バリエーションを参照 |
製造数 | 3,700万丁以上 |
1891年にロシア帝国の制式小銃M1891として採用され、単発式ボルトアクション小銃のベルダンⅡ型M1870を更新した[1]。
1891年以来、3,700万丁以上が生産され[2][3]、歴史上最も大量に生産されたボルトアクション軍用小銃の一つと数えられる。古い銃であるにもかかわらず、現在まで世界中で使用されている。
モシン・ナガン小銃はM1891と同時に開発された7.62mm×54R弾薬を使用する。この弾薬は開発国のロシアを初め、21世紀に至るまで多くの国に制式採用されており、モシン・ナガン小銃が長らく使用される一因ともなっている[4]。
最初に生産されたM1891モデルのリアサイト(照門)はタンジェントサイトで、距離表尺の標示には、ロシア帝国独自の単位であるアルシン[注釈 1]が使われていた。全長は約130cmで、Gew88やリー・エンフィールドなど世界各国の同世代の軍用ボルトアクション小銃と比べて最も長い。
モシン・ナガン小銃の銃身のライフリングは右回りの4条で、ツイストレートは1:9.5インチまたは1:10インチ。5発の固定内蔵弾倉は、弾薬を一発一発に装填することもできるが、軍用では5発装の挿弾子で装弾することが一般的である。構造を可能な限りシンプルにすることに設計の重点が置かれ、そのため、内部機構は7つの部品で構成され、トリガーは3つの部品のみで構成された[1]。
モシン・ナガンの遊底閉鎖には、前部にある2つのロッキングラグが使用される。遊底はロックされた時の3時の位置から、回転させてロックを解除したときの12時の位置まで、90度回転する。安全装置は遊底の後ろにあり、安全を確保するには、バネに逆らって安全装置を引き戻し、側面まで回転させる必要がある。発射準備を行うには、安全装置のノブを後ろに引き、垂直位置まで回転させる必要がある。遊底を取り外すには、遊底を最後方まで引き戻し、引っかかったと感じたら引き金を引く。これにより、遊底が引っ掛かりを通り抜けて小銃から取り外すことができる。[5]
固定弾倉の底部には、ドアを下向きに開く留め具が付いている。これを外せば、小銃から弾倉を手動で取り出すことができる[5]。弾倉は単純な単列式で、装弾数は同じ五発ながら複列弾倉を採用したGew98や有坂銃などより長く、銃床から突出していて、外見上の特徴となっている。
銃剣はスパイク型のものを使用する。ロシア帝国軍とソ連赤軍では、銃剣は着剣状態で携行するため、鞘が付属しておらず、射撃の際も着剣したまま行うことが基本とされていた。照準も着剣状態に合わせて調整しているため、銃剣を外して撃つ場合、改めて調整し直さなければならなかった[6]。この特徴から、銃剣と着剣機構を着脱しやすいように変更、あるいは削除するバリエーションもある。
21世紀の基準からすれば、モシン・ナガン小銃は古い兵器である。オリジナルモデルの全長は長く、銃床は人間工学的に洗練されておらず、安全装置の操作は面倒で、引き金のトリガープルは長い。すでにマウント(照準器取付基台)が設置された狙撃銃仕様を除けば、光学照準器の装着は困難である。遊底のロックはタンバリンのようにガタガタ音を立てる。しかし、モシン・ナガン小銃とその弾薬は両方とも、過酷な条件下でも確実に機能する。また、素指で30秒内に分解して組み立てることが可能である(かつてこれはフィンランド軍兵士が基地内夜間休暇を取得するための必須条件だった)[7]。モシン・ナガン小銃は19世紀から様々な国の軍隊で使用され、現在に至るまで世界規模の紛争で引き続き使用されていることは、適切に更新されればその有用性が永続することを示している[8]。
1938年、日本陸軍画報社が発行した文書は、当時ソ連赤軍が使用するM1891/30モデルのモシン・ナガン小銃とその狙撃型の射撃性能について、次のように評価した(原文を要約):
赤軍現用の一九三〇式小銃を使用する熟練射手は一分間に一〇発から一二発を発射します。弾道の低伸が大きな力を有っております。四〇〇米以内の射程ではその弾道下にある一切の目標を、七〇〇米以内では立姿の高さにある一切の目標を殺傷します。
赤軍狙撃兵の眼鏡照準器付小銃は、一〇〇〇米以上の射距離でも精確なる射撃によって重要目標、例えば敵の指揮官、機関銃手、観測手、連絡兵を殺傷する独立射撃を行ふことができます。眼鏡照準器は特殊光学硝子を有する円筒と照準装置から作られており視力を増大して照準をたやすくするばかりではなく、薄暮や月明でも使用できます。赤軍の指揮官はこの価値を認めて、上海戦の時家屋や家根裏にかくれた支那(中国)の狙撃兵はこの銃で日本軍に大きな損害を与えたと言っております。[9]
採用当初、制式名称は口径にちなんで「1891年式3リニヤ小銃」(ロシア語:трёхлинейная винтовка образца 1891 года)と名付けられた。英語ではスリーラインライフル(英語: Three-line rifle)などと訳され、1900年代の日本語文献では「三リーニヤ銃[10]」または「三線銃[11]」と訳された。「リニヤ」(ロシア語: Линия)は古い長さの単位で、1リニヤは0.1インチ、3リニヤは0.3インチとなる。ミリメートルに換算すると、 3リニヤは7.62 mmとなる[1][12]。
ロシア軍は新型小銃の開発トライアルにあたって、ドイツ小銃試験委員会とよく似た小口径小銃試験品開発委員会(ロシア語: Комиссия для выработки образца малокалиберного ружья)を設立した。委員会がトライアルの最終段階まで残ったモシン大尉(当時)とナガン社(以下、「ナガン」と称する)が別々と提出した小銃設計を評価した結果、モシン大尉の単純で堅牢かつ低コストの基礎設計に、ナガンが開発した挿弾子と弾倉の形など装弾に関する設計、そしていくつか委員会メンバー自身の意見を加えて、新型小銃の設計を決めた[1][3]。
このため、命名と権利について暫く揉めた。自分の設計と関連する特許を取得したナガンはロシア軍に対して訴訟を起こして権利金を要求した。ロシア軍は反発したが、後にナガンM1895拳銃を開発したナガンとの関係を維持するため、トライアル勝者とされるモシン大尉が受け取った金額に相当する20万ルーブルを支払った。最終的にロシア皇帝アレクサンドル3世の決断で、モシンとナガンの名前は冠名されず、「1891年式3リニヤ小銃」の制式名称が決められた[1]。モシンは軍で昇進を重ねて、小銃開発の功績で軍からも表彰された。その一方、ナガンはこの小銃について自分の功績を宣伝したため、「モシン・ナガン」の通称は西欧の新聞に掲載されるようになった[3][13]。
ソ連では1924年以降、この小銃は正式に「モシン小銃」(ロシア語: винтовка Мосина)と名付けられた。西欧で広まった「モシン・ナガン」の名はこの小銃の俗称に止まり、公式に使用されていない。また、いくつの発展型は公式で依然に単なるモデル番号で呼ばれる[1][13]。
20世紀前半に渡って交戦していたGew88とGew98、有坂銃など同期のボルトアクション連発軍用小銃と比較する場合、モシン・ナガンの遊底機構の最大の特徴は、ベルダンⅡ型M1870小銃から継承した、排莢口にある、ボルトハンドルと一体化されて、ロッキングラグとしても機能する大きなボルト本体の凸部である[14][15][16]。これはGew71、村田銃など一世代前の単発ボルトアクション銃によく見られる構造だが、モシン・ナガンの遊底はボルトヘッドに新世代の小型ロッキングラグを備えたながら、この構造を予備ロッキングラグとして保留した。この古くて単純な設計は製造コストを削減し、過酷な環境下でも確実に機能して遊底閉鎖の堅牢性を実現する一方、ロッキングラグが機関部の構造体と接触する面積が広いために摩擦力が大きくなり、しばしば「モシン・ナガン小銃の遊底は操作しにくい」と指摘される要因となる[17]。特に遊底や薬室の加工精度が悪い、長期保管のためにパーカー処理を受けた、潤滑油・防錆油が低温で凍結または経年劣化して固着しているなど場合、この問題が顕著になりやすい。とはいえ、通常この問題は遊底と薬室を掃除して部品を磨くことで改善できる。 (ただし、高圧ハンドロード弾薬を使用する場合、これは過剰な圧力の兆候である可能性がある)[18]
また、光学照準器を運用する場合、排莢口にあるモシン・ナガン式ボルトハンドルは光学照準器またはそのマウントと干渉しやすい。ソ連とフィンランドが開発したモシン・ナガンの狙撃仕様には、ボルトハンドルを曲げ、マウントを排莢口を避けて固定するなど、この問題点を克服するための工夫が見れらる。これは現代にボルトハンドルが遊底尾部に位置するモーゼル式機構が主流となっている理由の一つでもある。
ベルダンⅡ型M1870小銃からは2ピースの遊底構造も継承している。2ピースの遊底構造自体は19世紀末期のボルトアクション銃器ではそう珍しくなく、ほぼ同時期に設計されたGew88[19]とルベルM1886[20]の遊底も2ピース構造であるが、本銃が制式化されて僅か数年後に登場するGew98と有坂銃は、現代で主流となっている1ピース構造のモーゼル式遊底構造を採用した。
ボックスマガジンにおけるリムド弾薬が次弾と引っ掛かる「リムロック」(Rim Lock)と呼ばれる進弾不良と、二重装填の問題を防ぐため、同期の他国小銃であまり見られない機関部の壁に固定される、弾倉への進入角度を調整する装弾誘導器(フィーダー・ガイド)と進弾断続器(インターラプター)を兼ねる多目的蹴子(エジェクター)を採用したことはもう一つの特徴である[14][15][16]。この構造もまた蹴子の構造強度と機能の確実性を確保すると同時に、機能させるには力を要するため、「モシン・ナガン小銃の装弾や抽筒排莢は困難」と指摘される要因となりやすい[17]。これ以降、装弾誘導器と進弾断続器の機能こそないが、排莢口の直後に位置して、遊底ではなく機関部の壁に固定される頑丈な蹴子は、長らくSKS、AK-47、SVDなどロシア製軍用小銃の特徴となっている[21]。
連発ボルトアクション銃器の中でも比較的特殊な構造を採用し、欠点もあり、低コストで実現できる頑丈さより操作のスムーズさを重視することが一般となっている現代のボルトアクション銃器に、モシン・ナガン式機構が採用されることは稀となっている。その一方、1891年以来、様々な発展型が作られたにもかかわらず、ボルトハンドルを曲げる以外モシン・ナガンの遊底機構と装弾機構だけは殆ど変わらない。銃床、銃身、照準器、引き金など他全ての部品を新しい物に変更しても、遊底、機関部と弾倉をほぼそのまま使用する改修型は多い[22][23][24]。一部の1890年代に製造された機関部の部品が、2020年代においてもフィンランド軍の現役狙撃銃に使用されている[25]。
特筆すべきことに、ボルトハンドルの構造強度が高いため、手動だけでは遊底機構を作動できない場合、ハンマーなどでモシン・ナガンのボルトハンドルを叩いて強引に作動させる応急処置は実射の現場で時々見られる。[26][27]
モシン・ナガン小銃の主要なモデルとしては、ロシア帝国時代で製造されたM1891モデルと、ソ連時代で改修・製造されたM1891/30モデルで、他にも多くの派生型が存在する。[28][29]
M1891モデル世代には、歩兵用小銃、騎兵用に10cmほど短くなったドラグーン騎兵銃、ドラグーン騎兵銃と同じ長さだが着剣できないコサック騎兵銃の3種類があった。[11][30]また、後方要員向け短縮化カービン型のM1907モデルは1907-1914年間だけ少数生産された[31]。
M1891/30モデル世代は、主に歩兵用小銃と、短縮化カービン型のM1938、M1938に折り畳み式スパイク銃剣を追加したM1944の3種類があった。また、歩兵用小銃型から改修した狙撃銃型も第二次世界大戦中に広く使用されていた[28][29][32]。
M1891の採用直後はロシア帝国の依頼により、フランスの国営シャテルロー造兵廠で約50万丁が生産された[1][6][28]。のちに国産化され、トゥーラ造兵廠、イジェフスク造兵廠、セストロレック兵器廠などの兵器工場で本格的に生産が開始された。[1][28]
M1891はロシア帝国からソビエト連邦移行後の1920年代まで生産され続けた。その間にいくつかの改良が行われ、1924年には、E.カバコフとI.コマリツキーが、銃剣留めをスプリング式リングに変更してグラつきを無くした。パンシンは照星覆いを開発し、装弾クリップも単純化して、距離表尺も頑丈なものに変更された。
1930年4月28日には、M1891騎兵銃型をベースに全長を短縮して、距離表尺の標示をメートル法に変更し、コストダウンを行ったM1891/30が採用され、生産を開始した[6]。既存のM1891も多数がM1891/30へと改修された。M1891/30は主にトゥーラ造兵廠とイジェフスク造兵廠で1940年代末まで生産されていた[34]。また、ソ連軍はM1891/30と共に、国産照準眼鏡と狙撃銃型を開発・運用し始めた。
第一次世界大戦中、ロシア帝国が国内生産数の不足を補うため、アメリカのニューイングランド・ウエスティングハウス社およびレミントン社とそれぞれ180万丁と150万丁のM1891の生産契約を締結した[6]。レミントン社もこの頃はウィンチェスター社と同様にロシア軍に弾薬を供給していた。しかしながら、これらの契約はロシア革命により完全には履行されず、革命以前にロシア帝国軍に交付した47万丁を除いて、生産済みの数十万丁がアメリカ国内に取り残された。アメリカ政府は代金が支払われず破産の危機に瀕した両社を救済するため、ロシア内戦中の白軍に売却した一部を除き、原価で残った分を購入した。アメリカ政府は購入したM1891小銃の一部を、白軍とチェコ軍団に供与し、または協商国のロシア内戦への介入に派遣されたアメリカ遠征部隊に支給した[35]。他に少数が訓練目的に使用されたが、大半は使い道が見つからず、後に民間市場に売却された[28]。[36]
第一次世界大戦後にロシア帝国から独立したフィンランドもモシン・ナガン小銃の主な使用国として知られる[28]。フィンランドは独立の際に国内に保管されていたロシア軍のモシン・ナガン小銃を押収しただけではなく、直後に勃発したフィンランド内戦とソ連との緊張関係に対応するため、大戦中にドイツ帝国とオーストリア帝国がロシア帝国から鹵獲した余剰モシン・ナガン小銃、さらには戦後に戦勝国のフランスとイタリアなどが戦争賠償として接収した前述の鹵獲小銃をも輸入した[37]。フィンランド政府は、銃器の調達費用を抑えるため、「物々交換」に近い形で、鹵獲品や援助で受け取ったモシン・ナガン小銃以外の銃器と弾薬を輸出する代わりに相手から不要なモシン・ナガン小銃を輸入する三角貿易を積極的に行った。一例として、1928年にフィンランドは日本の三十年式、三十五年式、三八式など有坂銃8,170丁と銃剣4,800本を武器商人経由でアルバニアに送り、チェコスロバキアとルーマニアの鹵獲品である銃剣付きモシン・ナガン小銃13,000丁を代金として受け取った[37]。フィンランドが獲得したモシン・ナガン小銃は、「使える」状態のものから部品取りにしかならないものまで様々であり、余剰部品が豊富になるとともに、それで「新しい」小銃を製造し始めた[38]。[39]
フィンランドは手持ちのM1891モデルを基に、複数の発展型を独自に改修・製造し、最終的には1970年代までモシン・ナガン小銃を生産していた[34][22]。フィンランド製モシン・ナガンの殆どは、寄せ集めたオリジナルM1891から取り出した機関部と遊底を基に、新しい銃身、銃床、照準器などの部品を組み合わせて作り出した銃であった[22]。1930年代末、フィンランド軍は独自仕様のM/39小銃と共にモシン・ナガンの命中精度を向上させる独自規格の7.62×53mmR弾を導入したが、それ以降のフィンランド製モシン・ナガン小銃は依然として従来の7.62×54mmR弾薬を発射できる[40]。継続戦争まで、フィンランド国内では国産光学照準器の生産能力不足と設計不良により、狙撃銃型は僅かしか生産されず、戦時中もドイツから輸入した光学照準器や鹵獲したソ連製狙撃銃から取り外した光学照準器の数が少なかったため生産数は増えなかった。そのため代わりとして鹵獲品のソ連製狙撃銃をそのまま使用するフィンランド兵士が多かった[41]。そのような事情から、フィンランド軍はモシン・ナガン小銃のアイアンサイトの改良に拘り[22]、また、シモ・ヘイヘを代表とする当時の信頼性が低い光学照準器を嫌うフィンランド兵士もいた[42]。第二次世界大戦後には、より優れた光学照準器が普及し、複数の近代化改修された競技用と狙撃銃型のモシン・ナガン小銃が開発・運用された。特に、製造に使用されている部品の一部は1890年代まで遡れるTkiv 85の狙撃銃型は2020年代までフィンランド軍に配備されていた[25]。フィンランド製銃器の中、不完全ながら10万丁以上の運用記録が残されており、2024年時点でそれら銃に行われた修理や改造、参加した戦闘、優勝した射撃競技に関する歴史情報を追跡調査するインターネットサービス「Mosin.fi」が提供されている[43]。
フィンランドと同時期にロシアから独立したエストニアもロシア帝国から大量のモシン・ナガン小銃を継承しており、1920年代末、エストニア防衛連盟(エストニア語:Kaitseliit)がフィンランド製M/28-30モデルのモシン・ナガン小銃を受領し、さらにフィンランドから技術提供を受けていくつかの発展型をソ連に占領されるまでに生産していた。[44]
第一次世界大戦後に独立を回復したポーランドはポーランド・ソビエト戦争で大量のモシン・ナガン小銃を鹵獲したため、1920年代にドイツGew98小銃に準ずるModel 98a小銃を採用した後、保有するモシン・ナガン小銃を7.92×57mmモーゼル弾を使用するKarabinek wz. 91/98/23とその発展型に改修した。
第二次世界大戦後、ポーランドを含めて、共産党に赤化されたチェコスロバキア、ルーマニアなど東欧諸国と中国は、ソ連から技術提供を受けてモシン・ナガン小銃を1950年代までに生産していた。[28][34]
21世紀において、軍用型の完全新造はほぼなくなったが、「フロロフカ」と通称されるスムースボア猟銃型や.22LR口径型など民生用銃器としての派生型の生産は続いている[45]。また、大量のモシン・ナガン小銃が軍用・民生を問わず使用されているため、改修用部品は製造され続けている[46]。
1877年-1878年の露土戦争で、オスマン帝国軍のM1866 ウィンチェスター連発銃と交戦し、黒色火薬の弾薬を使う単発式ベルダン小銃の性能限界を感じたロシア軍は、1889年に新型小銃と弾薬の開発を開始した。
1891年、後に「モシン・ナガン」と通称されることとなる、「スリーラインライフル Model 1891」と発射薬に無煙火薬を用いる7.62x54mmR弾が制式化された。[1][3]
1893年、パミール高原でのロシア軍小規模偵察部隊とアフガニスタン軍の衝突で新型小銃が初めて実戦でテストされる。[47]
1900年に起きた義和団の乱で、初めて大規模戦闘に実戦投入された。[48][49]
1904年の日露戦争時、ロシア軍には約380万丁のモシン・ナガン小銃が導入され[1]、日本軍の有坂銃と銃火を交えた。前線に行き渡る新型小銃の強力な性能と高初速弾により、ロシアの小銃兵は500ヤード(約450m)近く離れた標的と交戦することができ、新世紀の戦場の危険区域が劇的に増加した[50]。戦争中に日本軍は10万以上のロシア銃器を鹵獲した。これらロシア銃器は日本軍によって旅順港に保管され、後のシベリア出兵で鹵獲した分を含めて1920年代後半から1930年代前半にかけて再び使用された。1931年に日本が満州を占領した後、日本軍は親日の中国武装勢力にモシン・ナガンを含む大量の小銃を供給した。また、正確な時期は不明だが、おそらく1937年から1942年の間、日本軍は鹵獲小銃の一部を訓練用単発小銃に改修した。[37]
1914年に勃発した第一次世界大戦でもモシン・ナガン小銃はロシア軍の主力小銃として使用されていた。当時、流通していたモシン・ナガン小銃は約450万丁だったが、需要全体を満たすには程遠かった。そのためロシア政府は増産と国外発注と共に、不足分を輸入品のウィンチェスター M1895小銃と、やや威力の劣る日本製の有坂銃で補充することにした[1]。大戦中に大量のモシン・ナガン小銃がドイツ帝国軍とオーストリア帝国軍に鹵獲され、鹵獲小銃の一部は二線級部隊に支給され、あるいはトルコなど他の中央同盟国に供与された[37]。
1917年、ロシア革命が勃発すると、ロシア帝国の大口発注を受けたが生産費を回収できない製造会社を救済するため、アメリカ政府に購入された米国製モシン・ナガン小銃の一部は、協商国のロシア内戦への介入に投入され、白軍、チェコ軍団、アメリカの北ロシア遠征部隊などに使用された。また、鹵獲品の形で赤軍の手にも渡った。[35][36]
革命と内戦で混乱状態となった戦間期に、ロシア革命を起因とするロシア内戦、フィンランド内戦、ポーランド・ソビエト戦争、シベリア出兵など一連の紛争で多数使用されて、亡命した白系ロシア人と共に東欧諸国、モンゴル、中国にも流入した[37]。さらに、ソ連政府は中国内戦とスペイン内戦の際、当地の武装勢力にモシン・ナガン小銃を大量に輸出した[51][52]。
また、戦間期の混乱と治安悪化により、ロシア語で「オブレズ」(Обрез、英語:Obrez)と呼ばれる、隠匿携帯しやすくするためにモシン・ナガン小銃の銃身と銃床を切り詰めたソードオフ改造拳銃が東欧に出回り始める。特にソ連ではオブレズ・ピストルのイメージがあまりにも広がっているため、内戦、第二次世界大戦、組織犯罪に関する映画には必ず登場すると認識されていた。[53]
1939年から1945年まで行われた第二次世界大戦においても、各自が開発した発展型モシン・ナガンはソ連赤軍とフィンランド軍の主力小銃として大量に使用されて、生産が最盛期を迎えた。大戦の一部であり、冬戦争と継続戦争からなるソ芬戦争で、両軍はともにモシン・ナガン小銃を用いて激戦を繰り広げた。独ソ戦でソ連軍は狙撃銃型を広く使用していて、モシン・ナガン狙撃銃を使うソ連狙撃兵と関わる多くの伝説が生まれた[1][54]。ドイツ国防軍も多数鹵獲したM1891とM1891/30に「Gew254(r)」という名称を与えて運用した。ただし、M1891モデルは標示にアルシンが使われていたため、自軍では使用していなかったが、ドイツ本国が危うくなった1944年から国民突撃隊に交付されるようになった[6]。
1945年、第二次世界大戦終結直前に、半自動小銃のSKSがソ連軍の主力小銃として採用され、置き換えが開始された。1949年には、革新的な自動小銃であるAK-47への更新が進められ、1950年代になるとSKS共々、第一線の歩兵部隊では使用されなくなっていった。
第二次世界大戦後、モシン・ナガンは時代遅れになりつつあったが、その後も何十年にもわたり東側諸国および世界の他の地域で使用され続けた。モシン・ナガン小銃は、朝鮮半島やベトナムからアフガニスタン、ヨーロッパの鉄のカーテン沿いまで、冷戦の多くの戦線で使用された。また予備の備蓄としてだけでなく、前線の歩兵兵器としても保管されていた。
1989年まで続いた冷戦の中、ソ連、中国、東欧諸国から軍事援助を受けたほぼ全ての国が、さまざまな時期にモシン・ナガンを使用した。ソ連の影響圏内の中東諸国(エジプト、シリア、イラク、アフガニスタン、パレスチナの戦闘員)は、他のより近代的な武器に加えてモシン・ナガンを受け取った。[55]ただ、歩兵用小銃としては旧式化が進行していたため、次第に狙撃銃としての使用が主になっていった。
1951年春以降、朝鮮戦争の戦線が38度線の山岳地帯付近で安定し、両軍は理想的な狙撃地である広い谷を見下ろす高台に陣取ったため、狙撃戦が広がった。モシン・ナガンの狙撃銃型は、北朝鮮人民軍では限定的に使用されたが、中国人民志願軍では広く使用された[56]。
1975年まで続いたベトナム戦争において、米軍が軍事介入していた時期に、ベトコン側の狙撃兵達がモシン・ナガンを使用し、米軍と南ベトナム軍に対して大きな脅威を与え、米軍側の狙撃兵達と高度な狙撃戦を展開していたことは特に知られている。米軍狙撃兵を狩る北ベトナム軍狙撃兵「コブラ」、ベトコン女性狙撃兵隊長「アパッチ」などの伝説も米軍狙撃兵カルロス・ハスコックらによって流布されている[57][58][59][注釈 2]。1970年4月1日、米陸軍第199歩兵旅団の指揮官ウィリアム・R・ボンド(William R. Bond)准将はベトコンの狙撃で致命傷を受け、ベトナム戦争中に死亡した5人目の米軍将官となった[60][61][62][注釈 3]。
1978年に開始したソ連アフガニスタン戦争では、アフガニスタンに侵攻したソ連軍はモシン・ナガンをSVD[注釈 4][63]が前線に配備される1982年春まで狙撃銃として運用していて[64]、後に共産主義政権のアフガニスタン軍に供与した。ムジャーヒディーン軍もまた、モシン・ナガンを手に入れ、ソ連軍が撤退した後、続いて1980年代後半から1990年代の内戦中にモシン・ナガンを使用し続けた。[65]。21世紀に入り、アフガニスタン紛争 (2001年-2021年)において、米軍の支援を受けた共和国政権のアフガニスタン国軍は、モシン・ナガンを訓練用及び儀仗銃として使用した。一方、反政府勢力であるターリバーンの一部は、モシン・ナガンを実戦に使用し、当時最新鋭のM4カービン銃を標準装備としていて近距離の射撃戦では優位に立てる米軍を悩ませた。一時期、兵士が明らかに練度が高い狙撃によって負傷または殺害される事件が相次ぎ[66]、米軍は対狙撃戦闘強化の対応に追われた[67]。装備と訓練において米軍に劣るアフガニスタン国軍にとって、ターリバーン狙撃兵の存在は更なる脅威となっていて、推定500-700メートルの距離からの狙撃により、銃弾が首に当たって戦死した兵士の例も確認された[66]。[注釈 5]
2011年から始まったシリア内戦でも狙撃銃として使用されている[68]。ただし、シリアの反政府勢力が装備が不足しているためにモシン・ナガン狙撃銃を使用している一方で、シリア軍はより優れた最新の狙撃銃を持っているにもかかわらず、その大きな利点のために依然としてモシン・ナガン狙撃銃を使用している。モシン・ナガン狙撃銃の技術的および戦術的スペックは、同口径の現代狙撃銃に匹敵するものではないが、シリア軍が使用しているより近代的なドラグノフSVDやMTs-116Mなどの狙撃銃は、モシン・ナガンよりも重量があり、ファインダーを備えた複雑な照準機構を持っていて使用するには訓練が必要なため、すべての部隊に支給するには適していない。またモシン・ナガンはSVD狙撃銃やPKM機関銃と同様の標準的な7.62x54mm弾を使用するため、弾薬の供給はシリアでは大きな問題ではない。そのため、モシン・ナガン狙撃銃の時代遅れな設計は、シリア都市部の戦闘環境でうまく「生き延びる」のに役立ち、シンプルな構造、高い信頼性と精度を備えた強力な狙撃銃と考えられるようになっている。[69]
2022年ロシアのウクライナ侵攻の際、ロシアは広範な総動員の一環として、ドンバス両占領地域の徴集兵と徴兵されたロシア民間人にモシン・ナガン小銃を支給した[70][71]。これらの小銃は、少なくともマリウポリの検問所でロシアの支援を受けた分離主義民兵によって使用されていることは確認された。より高度な兵器との際立った対照を示しているが、直接戦闘に参加する可能性は低く、それでも銃器を必要とする人員に配備することは実利的な戦略とも考察されている[8]。しかし2024年7月3日、ウクライナ軍陣地への攻撃に参加し、反撃を受けて亡くなったロシア軍兵士の一人が狙撃仕様のモシン・ナガンを装備していたことが、それを証明する写真と共にウクライナのジャーナリストによって報道されたことから[72]、狙撃銃としては最前線にも配備されたと思われる。2024年まで、主に親ロシア派分離主義民兵、ワグネル・グループの傭兵、その他の準軍事組織によって使用されていたが、ロシア軍の正規部隊や、少数ながらウクライナ軍での使用も確認された[73]。
ソ連/ロシアでは、銃剣を取り除いた軍放出品の余剰モシン・ナガン小銃が民間の猟銃またはスポーツライフル銃として販売されている。また、モシン・ナガンの機構は、限られるながら市販の民生銃器の製造にも使用されており、最も有名なのは、1960年代と1970年代にヨーロッパに輸出されたボストーク(Vostok)ブランドのターゲットライフルで、標準の7.62×54mmR弾と、長距離標的射撃用に設計された元の弾薬のネックダウンバージョンである6.5×54mmR弾を使用する。6.5×54mmR弾を使用するライフルは、国際オリンピック委員会が競技規則を改訂して射程距離を50メートルに短縮し、すべての競技者に.22LR口径のライフルの使用を義務付けるまで、ソ連のオリンピックバイアスロンチームの標準ライフルだった。
戦間期に米国国内に残されたウェスティングハウス社とレミントン社製M1891の一部は、米国政府から民間射撃プログラムを通じて米国の民間人に販売された。ミリタリー用品卸売業者フランシス・バナーマン・アンド・サンズ社(Francis Bannerman and Sons)によって米国の.30-06スプリングフィールド弾仕様に改造されたモデルも市場に出回っている。[36][75]
冷戦終結後、東側諸国で予備兵器として保管されていたモシン・ナガン小銃は西側市場に放出されて、7.62mm×54R弾と共にアメリカにも流入した。また、フィンランドも1970-1980年代に余剰となったモシン・ナガン小銃を米国市場に売却した[7]。2010年代までは供給量が多かったため、アメリカの買い手は安価にモシン・ナガン小銃を手に入れることが出来た。米国が世界最大のモシン・ナガン小銃の中古市場[7]となったこの時期、モシン・ナガン小銃の民生需要が活発となり、メーカーはさまざまなアフターマーケット部品を生産し始め、使用者は高額を費やすことなくモシン・ナガン小銃をターゲットや狩猟用ライフル銃に改修できるようになった[55]。その一方、あまりの安さと、米国に流通する物の大半を占める、作りが粗雑で保管状態も悪いロシア製の鈍重な操作性から、「ゴミ棒」(The Garbage Rod)などの蔑称で軽蔑的に呼ばれることもある。しかし、何年も酷使された後でも、知識豊富な射手の手にかかれば、通常は非常に優れた性能を発揮する。[76]また、この頃に安価な中古モシン・ナガン小銃を購入して銃器のいろはを学んだ若い射手は多く、2020年代に入り、銃の価格上昇に伴って、年を取った彼らがモシン・ナガン小銃を歴史的視点から再評価する動きもみられるようになった[27]。[注釈 6]
21世紀の基準で、その19世紀の設計と製造技術的制限から来る重量と人間工学設計は欠点となっており、モシン・ナガンは決して最高の狩猟用ライフルではないが、依然に実用的な狩猟用ライフルであり、射撃競技にもよく使用される。適切な狩猟用弾薬を使用すれば、モシン・ナガンは大型のヒグマ、ハイイログマ、ホッキョクグマなどを含める北米のあらゆる動物を効果的に仕留めることができる。本国ロシアでは、役割に適した精度で、最も大きなヘラジカやヒグマまでを仕留める汎用狩猟用ライフルと見なされている。軍の余剰弾薬を使用した場合の精度は通常3-4MOAだが、これは軍用規格のモーゼルやスプリングフィールド小銃、あるいは古典的な狩猟用ライフルと同等であり、適切な精度向上テクニックと良質の弾薬を使用すれば1MOA以下の精度で射撃できる。ほとんどの射手が、良い弾薬、光学機器、そして良いライフルを使用する場合、一貫して良い命中率を達成できる最大有効射程距離は約500ヤード(約450m)と考えられる。例外的に900ヤード(約820m)まで精度を上げる射手も居る。モシン・ナガンの弾丸は、1,000ヤード(約910m)離れた鹿を殺すのに十分なエネルギーを持っている。[77]
かつてロシアでは、日本の古い村田銃のように、軍から放出された余剰小銃の銃身をスムースボアの物に変更し、「フロロフカ」(ロシア語: Фроловка)と呼ばれる民生用散弾銃にする改造に人気があった。口径としては、24/28/32番径などがよく見られたほか、16番径や20番径のモデルも比較的少数あった。1920年代、大量に残されていた老朽化した小銃の処分も兼ねていて、軍用モシン・ナガン小銃から改造した安価な猟銃はソ連に出回っていた。1980年代までにオリジナルのフロロフカはほとんど使われなくなっていたが、同種の銃は現在でも市場に流通している。2013年、かつてのフロロフカと類似する、モシン・ナガンのカービン型に基づいて、 1944年に考案された「パラドックス」タイプのドリル滑腔銃身を備えた「ムーフロン-410」(Муфлон-410)という、ライフルに近い命中精度を発揮できる特殊スラッグ弾を使う散弾銃[78]が発表され、ロシアの銃規制でライフル購入に必要な5年の散弾銃所持経験がなかった射手の間である程度の人気を博した。後にライフル銃の法的定義に関するロシア連邦法の改正により生産中止されたが、すでに生産された物は依然中古市場に流通している。[79]
また、内部機構はモシン・ナガンと違うが、フロロフカの流れを汲む、20/28/32番径ボルトアクション散弾銃のMTs 20シリーズはソ連/ロシアで1960年代から製造・販売されていた。ソ連崩壊で治安が悪化した1990年代、オブレズ・ピストルへの先祖返りを想起させる、20番径モデルのMTs 20-01を短縮して、折り畳み銃床、ピストルグリップと着脱式弾倉を備えたTOZ-106短銃身散弾銃が発売されて、農家や長距離運転手などの害獣対策や自衛用銃器として好評を得た。[80][81]
出身国 | 名前 | 略述 |
---|---|---|
フィンランド | シモ・ヘイヘ | フィンランド軍の名狙撃手の一人。フィンランド製モシン・ナガンM/28-30を愛銃とした。 |
フィンランド | スロ・コルッカ | フィンランド軍の名狙撃手の一人。 |
ソビエト連邦 | アレクサンドル・ソルジェニーツィン | ソ連のノーベル文学賞受賞作家。独ソ戦では一兵卒として徴兵され、後に砲兵将校として活動した。 |
ソビエト連邦 | ヴァシリ・ザイツェフ | ソ連軍の名狙撃手の一人。2001年映画『スターリングラード』の主人公のモデルとしても知られる。 |
ソビエト連邦 | フョードル・アフラプコフ | ソ連軍の名狙撃手の一人。 |
ソビエト連邦 | ヤーコフ・パヴロフ | ソ連軍の歩兵小部隊指揮官。「パヴロフの家」の戦いでの活躍で有名。 |
ソビエト連邦 | リュドミラ・パヴリチェンコ | ソ連軍の名狙撃手の一人。女性兵士。 |
ソビエト連邦 | ローザ・シャーニナ | ソ連軍の名狙撃手の一人。女性兵士。 |
アメリカ | アーネスト・ヘミングウェイ | アメリカのノーベル文学賞受賞作家。スペイン内戦では国際旅団と共に活動した。 |
イギリス | ジョージ・オーウェル | イギリスの名作家。スペイン内戦ではマルクス主義統一労働者党の戦闘員として活動し、銃弾が喉を貫通して重傷を負いながらも生還した。 |
(公開・発売時間順)
サビース期間 | タイトル | 備考 |
---|---|---|
2008-2018 | クロスファイア (オンラインゲーム) | 有料ガチャで入手可能。 |
2009-2016 | Paperman | |
2017-2023 | surviv.io |
その他さまざまなFPS・TPS・ウォー・シミュレーションゲームに登場している。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.