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原油の供給逼迫および価格高騰と、それによる世界の経済混乱 ウィキペディアから
オイルショック、オイル・ショック(英語: Oil shock)とは、1970年代に2度発生した、原油の供給逼迫および原油価格の高騰に伴い、世界経済全体がきたした大きな混乱の総称である。石油危機(せきゆきき、英語: Oil crisis)または石油ショック、オイル危機とも称される。
1973年に第四次中東戦争を機に第1次オイルショックが始まり(1977年3月まで)、1978年にはイラン革命を機に第2次オイルショック(1983年3月まで)が始まった。
石油輸出国機構(以下OPEC)諸国の国際収支黒字は、1973年の時点では10億ドルであったが、1974年には約700億ドルに急増[1]。一方、発展途上国向けの民間銀行貸し付け額は、1970年の30億ドルから1980年の250億ドルに跳ね上がった[1]。
当時、世界各国はユーロ債市場から資金を調達した[2]。経済協力開発機構(OECD)加盟国は長期の固定金利債を国債として起債することができたが、非産油途上国にはカントリーリスクがあるためにそうした手段がとれず、代わりに負担が大きい変動金利のシンジケートローンに頼った[2]。
1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発。これを受け10月16日に、OPEC加盟産油国のうちペルシア湾岸の6カ国が、原油公示価格を1バレル3.01ドルから5.12ドルへ70 %引き上げることを発表した。翌日10月17日にはアラブ石油輸出国機構(以下OAPEC)が、原油生産の段階的削減(石油戦略)を決定した。またOPEC諸国は10月20日以降、イスラエルが占領地から撤退するまでイスラエル支持国(アメリカ合衆国やオランダなど)への経済制裁(石油禁輸)を相次いで決定した。さらに12月23日には、OPEC加盟のペルシア湾岸の産油6カ国が、1974年1月より原油価格を5.12ドルから11.65ドルへ引き上げると決定した。
石油価格の上昇は、エネルギー源を中東の石油に依存してきた先進国の経済を脅かした。
1960年代以降にエネルギー革命を迎え、エネルギー源を石油に置き換えていた日本は、ニクソン・ショック(ドル・ショック)から立ち直りかけていた景気を直撃。前年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレーションが発生していたが、石油危機によって相次いだ便乗値上げなどによってさらに加速されることとなった。
当時の日本は中東の政治に深く関わってはおらず、イスラエルを直接支援したこともなく、イスラエルに対しては中立の立場ではあったが、最大のイスラエル支援国家であるアメリカ合衆国と強固な軍事同盟を結んでいたため、イスラエル支援国家とみなされる可能性が高く、田中角栄は副総理の三木武夫(当時)を急遽中東諸国に派遣して日本の立場を説明して、支援国家リストから外すように交渉する一方で、国民生活安定緊急措置法・石油需給適正化法を制定して事態の深刻化に対応した。
オイルショック前からニクソン・ショックによる円高不況で不況カルテルが沢山できていた。1973年(昭和48年)11月16日、石油緊急対策要綱を閣議決定、「総需要抑制策」が採られる。日本の消費は一層低迷し、大型公共事業が凍結・縮小された。
日本の消費者物価指数で1974年(昭和49年)は23 %上昇し、「狂乱物価」という造語まで生まれた。インフレーション抑制のために、公定歩合の引き上げが行われ、企業の設備投資を抑制する政策がとられた。結果、1974年は▲1.2 %という戦後初めてのマイナス成長を経験し、高度経済成長がここに終焉を迎えた。
「狂乱物価」について経済学者の小宮隆太郎は、日本銀行のオイルショック前の行き過ぎた金融政策とその後の引き締めの遅れが、企業・労働組合などを製品価格上昇・賃上げを走らせたとしている[3]。
このような不況が、1975年以降に日本国債が大量に発行される契機となった。それはシンジケート団が引き受けきれないほどの規模となり、1977年に発行後1年以上経過した日本国債は市中売却が認められるようになった[4]。ここに金利を市場の実勢値まで抑える財政上の必要が生じた。そこで1979年に譲渡性預金が導入され、家計の余剰資金を銀行が吸い上げるようになった。一方で1973年から早々に無担保転換社債を認めるなどの社債自由化が推進され、結果として国債の相対的な低リスクが演出された[5]。もっとも、後年の国債残高推移、特に1995年から2005年までの増加率に比べれば、オイルショック当時の発行額はずっと小規模であった。
通商産業省では行政指導などにより節電を呼びかけたが自主的な協力が進まなかったため、強制力を持つ電気使用制限等規則により以下のような制限をかけた[8]。
1979年1月にイラン革命が発生[11]。イランでの石油生産が中断したため石油需給は逼迫した。さらにOPECが1月、4月、7月に段階的に原油価格を引き上げたことで、世界経済に影響を及ぼすこととなった[11](1978年末にOPECが「翌1979年より原油価格を4段階に分けて計 14.5 %値上げする」ことを決定していたが、4段階目の値上げは総会で合意が形成できず、実際には3段階までであった)。
1980-1981年に、OECD加盟国も非産油途上国もユーロ・シンジケートローンによる借入額を倍化させた[2]。前者は411.6億ドルから973.7億ドルとなり、後者は281.6億ドルから409.3億ドルとなった(世界借入高は799.2から1459.1)[2]。
しかし、第1次オイルショックによる減量経営や省エネルギー対策などの浸透により経済に対する影響は第1次石油危機ほど酷いものにはならなかった[11](深夜のテレビ番組放送の自粛や、第1次同様のガソリンスタンドの日曜祝日休業などが1983年まで行われた)。
小宮隆太郎は、第二次石油ショックの影響が軽微だったのは、日銀が過去を反省して、いち早く強い金融引き締めスタンスを採用した事にあり、それに応じて労働組合・企業も賃上げなどのコストプッシュの要因を抑えるべく、労使協調路線を採用した事で事態を乗り切ったためとしている[3]。経済学者の伊藤修は「日銀の早急な金融引き締め、労使の賃上げ抑制、省資源・省エネルギーの進行、円高による輸入価格の抑制などが原因で、景気の落ち込みは軽微で済んだ」と指摘している[12]。
値上げも第1次のときほど長引かず、イランも石油販売を再開し、数年後には価格下落に転じて危機を免れた。日本では第1次オイルショックによる不景気から立ち直る矢先の出来事だったが、円安による輸出増加もあり一部の構造不況業種を除いて比較的早期に危機を切り抜けた[11]。
一方で米国のインフレの亢進と長期金利の高騰にともなう金融市場の混乱が深刻さを増しており、石油危機を端緒とした世界同時不況は米国経済の復調をまつ1983年ころまで長引いた。
先進国の経済が中東の石油に極端に依存していることが明らかとなった。そのため、第四次中東戦争により、原油の輸出が停滞すると、国内では電力不足になり、電力を節約するため、大都市の街灯・ネオンサイン・東京タワーの消灯、エスカレーターやエレベーターの休止、高速道路の低速運転、冷暖房の温度調節、テレビの深夜放送の中止などが実施された。そのため、北海油田などが積極的に開発運営された。また、原子力や風力、太陽光など非石油エネルギーの活用の模索、また省エネルギー技術の研究開発への促進の契機ともなり「省エネ」が流行語になった。石油の備蓄体制を強化することも行われた。また、モータリゼーションの進展により自動車の燃料消費が石油消費に高比率を占めていたことから、鉄道を始めとする公共交通機関を再評価する動き(モーダルシフト)が出た。
大和総研は「2度にわたるオイルショックは、日本経済に大きな影響を与えたが、日本企業がエネルギー効率を改善させる大きなきっかけとなった」と指摘している[13]。合理化は資本の自由化に並行した。
フランス大統領ジスカールデスタンの発案により、1975年に第1次石油危機以降の経済の回復を主たる議題として、先進国の首脳が一堂に会する主要国首脳会議(サミット)の第1回がフランスのランブイエで開催された。
インフレーション傾向を強めていた先進国経済は、石油危機によりスタグフレーションに突入。1971年のニクソン・ショックと合わさり、戦後世界経済の成長体制は破壊された。工業化による投資で、対外債務を膨張させていた南アメリカやアフリカなどの開発途上国は、石油輸入コストの急上昇によりユーロ債(シンジケートローンの変動利付き債)への借換を余儀なくされた。
石油輸出国はオイルマネーを得て、国内福祉を充実させたり、強力なソブリン・ウエルス・ファンドを設立したりした。オイルマネーの出所はOTD金融が信用創造した預金通貨であり、このユーロダラーが輸入国発行のユーロ債となっていた。
OTD金融はシャドー・バンキング・システムが能動的に行ったものであった。しかしベン・バーナンキは、石油価格の高騰が財・サービスのコストを引き上げ、インフレを悪化させるのは事実であるが、それよりもアメリカ合衆国でインフレが深刻になったのは、家計・企業が連邦準備銀行の金融引き締めが十分ではないことを予想し、それが高いインフレ予想を招いたことであるとしている[14]。バーナンキはその結果、賃金の引き上げ・製品価格の値上げが起きたとしている[15]。この見解に沿ったレーガノミクスの高金利政策でシンジケートローンの償還が至難となり、債務危機に陥ったメキシコは機関化された。
1973年 | 1974年 | 1975年 | 1976年 | 1977年 | 1978年 | 1979年 | 1980年 | 1981年 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
OECD加盟国 | 123.6 | 182.9 | 62.2 | 99.0 | 130.4 | 304.1 | 290.7 | 411.6 | 973.7 |
非加盟産油国 | 21.0 | 6.9 | 24.7 | 24.7 | 46.2 | 86.9 | 87.7 | 68.4 | 57.4 |
非加盟途上国 | 52.7 | 75.2 | 87.8 | 119.0 | 132.7 | 231.8 | 360.0 | 281.6 | 409.3 |
東ヨーロッパ | 5.9 | 8.3 | 19.5 | 17.3 | 14.1 | 28.7 | 37.2 | 26.7 | 15.1 |
南アや国際機関等 | 5.4 | 12.0 | 11.7 | 19.2 | 14.4 | 8.6 | 15.2 | 10.9 | 3.7 |
合計 | 208.6 | 285.4 | 205.8 | 279.2 | 337.8 | 660.0 | 790.8 | 799.2 | 1459.1 |
1973年 | 1974年 | 1975年 | 1976年 | 1977年 | 1978年 | 1979年 | 1980年 | 1981年 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
OECD加盟国 | 31.5 | 22.5 | 82.7 | 111.0 | 141.9 | 98.6 | 133.5 | 169.6 | 217.0 |
非加盟産油国 | 1.0 | - | 0.5 | 1.5 | 3.7 | 11.6 | 3.3 | 1.3 | 0.7 |
非加盟途上国 | 3.7 | 0.9 | 1.8 | 9.3 | 21.6 | 18.8 | 15.5 | 10.2 | 21.5 |
東ヨーロッパ | - | 0.4 | 2.0 | 0.7 | 2.5 | 0.3 | 0.3 | 0.5 | - |
南アや国際機関等 | 10.8 | 21.8 | 18.1 | 31.2 | 25.1 | 30.1 | 21.0 | 18.8 | 25.7 |
合計 | 47.0 | 45.1 | 105.2 | 153.7 | 194.8 | 159.4 | 173.5 | 200.5 | 264.9 |
1990年、イラクがクウェートに侵攻したことで経済制裁(国連決議661)を受け、イラクおよびイラク占領下のクウェートからの原油輸出が停止した。これにより原油価格が高騰したが、長続きはせず、1991年の湾岸戦争により紛争が一応の終結を見ると、速やかに以前の価格に戻った。
この原油価格高騰を、ミニオイルショックと呼ぶことがあり[16]、第3次オイルショック(第3次石油危機)と呼ぶこともある[17]。
日本への影響はあまりなかったものの、2004年頃から2008年秋頃にかけ(ピークは2008年)、目立った供給減少を伴わない原油価格高騰が世界的に続いた(資源バブル)[18]。2007年秋から顕著になり、2008年2月にはニューヨークの商業取引所の原油先物市場で100米ドル/バレルを突破。
ピーク時の価格は、第1次・第2次石油危機のピークに比し、名目で3倍を超え、実質でも上回っていた。ただし、第1次・第2次に比べ、価格の上昇速度は緩やかだった。
高騰の原因は、
が挙げられるが、その中で最も大きな理由と指摘されているのは、余剰マネーとしての投機的資金が原油の「現物」や「先物」を買い占めていることである[要出典]。 世界の金融市場から見ると原油の市場規模は相対的に小さいものであるが、そこに2007年9月からサブプライムローン問題に端を発した米国の不景気から投機的資金が原油市場に流れ込み、「先物」としての原油価格が急騰した。
当時、原油先物相場が史上最高値を更新し続けていたことなどによる原油価格高騰を受け、石油が関係している製品の値上げが相次ぎ、航空機では燃油サーチャージの導入で、さらなる原油価格高騰および値上げ幅の上昇を招いた。
その後、サブプライム問題が世界的な景気の後退を引き起こし、余剰マネー自体が乏しくなり、2008年9月下旬頃より僅か2カ月で、原油価格は半分程度まで大きく落ち込んだ。しかし暫くすると、原油価格は再びゆるやかに回復、2008年のピークには及ばないものの、高値が続いた。物価連動では金融危機後のピークの方が高値だったとする計算もある[19]。
高値は2014年の暴落(逆オイルショック)まで続き、2015年の底値のあと少し回復したが、ピーク時の半値程度の60ドル前後にとどまっている。この(比較的)低値が維持されている要因は、50ドルを超えるとアメリカの休止海底油田が再開することと、新技術であるシェールガス革命が大きい。
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