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幕末期の寺田屋の女将 ウィキペディアから
近江国大津で旅館を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。18歳で、伏見南浜の船宿である寺田屋の第6代目主人寺田屋伊助の妻となり、一男二女をもうけた。夫伊助は放蕩者で、経営を悪化させたので、お登勢が代わりに寺田屋の経営を取り仕切り、姑の面倒も見ていた。伊助は(酒を飲みすぎとも言われるが)病に倒れて35歳で若死にしたが、お登勢はそのまま女将として家業を続けた。
寺田屋は薩摩藩の定宿であり、文久2年(1862年)には寺田屋騒動が起きて薩摩藩士が斬り合いを行なった際には、お登勢もその場にいて3歳の次女を竈に隠して帳場を守った。事件後、薩摩藩からの見舞金が入り、使用人に命じて即座に畳や襖を取り替えて、営業できるように整えたと言う。
お登勢は人の世話をすることを道楽としており、坂本龍馬をはじめとする幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを保護した。龍馬に託されたお龍は養女として扱い、お龍の母に仕送りまでしていた。
慶応2年1月24日(1866年3月10日)、寺田屋に滞在していた龍馬と三吉慎蔵が伏見奉行によって襲撃され捕えられそうなった遭難があり、薩摩藩と伏見奉行との間で軋轢が生れ、薩摩側のお登勢も幕府から目を付けられて、危険人物と見なされて牢に入れられかけたこともある。
明治10年(1877年)、死去。墓所は寺田屋に程近い伏見松林院。
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