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毎年3月3日に行われる、日本の年中行事のひとつ ウィキペディアから
雛祭り(ひなまつり)は、3月3日に行われる行事で[1][2]、女児の幸福を祈るために行われ[1]、雛飾り、白酒、菱餅、桃の花などを飾る[1]。
3月3日は五節句の一つ上巳の節句にあたり、桃の節句(もものせっく)、雛の節句(ひなのせっく)とも呼ばれる。
なお、「上巳の節句」という名称は中国由来の上巳(3月最初の巳の日)に行う行事が3月3日に固定し、桃の節句を指す様になった事による[3]。
本節では一般的な雛祭りについて述べる。特定地域での風習等は「様々な雛祭り」の節を参照されたい。また雛人形に関しては次節で詳細に述べるので割愛する。
「桃の節句」は桃の花が咲く時期である旧暦の3月3日(新暦の4月頃)に行われていたが、明治以降は新暦の3月3日に行なうことが一般的になった。しかし新暦3月3日には桃は咲いておらず[4]、桃の造花を用いる事が多い[4]。
他の節句と同様、月遅れの新暦4月3日に行う地域もあり[5]、月遅れで行う理由として春の農作業が忙しくなる3月3日を避ける意味がある[5]。
なお、武家社会の江戸時代には雛祭りなどの五節句を式日(しきじつ)としていたが[6]、明治の王政復古により朝廷の祭祀を復興したのに伴い廃絶された[6]。戦後祝日法が制定された際、端午の節句のみはこどもの日として祝日になったが、雛祭りなどそれ以外の節句は祝日にならなかった。
地域にもよるが、以下のものが食べられる:
雛祭りには雛人形という人形を飾る。多くは男雛と女雛の婚礼を模したもので[9][10][11]、衣装や調度品は公家風である[12][11](詳細後述)。
雛人形には京都で作られる「京雛」と、関東で作られる「関東雛」があり[13]、前者は「目はやや細め」[13]、「京頭といわれる独特のおっとりした顔立ち」[13]であり、後者は「頭ははっきりした目鼻立ち」[13]である。
雛人形の飾り始めに関しては明確なルールはないが[14]、一般的には節分の翌日(立春)から2月中旬頃までに飾るのが好ましいとされている[14][15]。片付けるのは雛祭りが終わったらなるべく早くが望ましいとされるが[14][15]、管理の観点からはカビを防ぐため晴れた日を待ってしまうのが良い[14][15]。雛祭りが終わった後も雛人形を片付けないと「婚期が遅れる」とする俗説があるが[14][15]、これは片付けに関するしつけとしての側面がある[14][15]。
雛人形は古くから嫁入り道具の一つとされたため雛人形は、母方の実家から贈ることが一般的とされたが[16]、現在では家庭により異なる[17]。
雛人形は以下のようにして作られた人形である。固く重ねた藁を人形の胴体の形にカットし[18][19]、和紙に木毛を巻いて腕や股を作り[18]、胴体に針金を通してそこに手足を付ける[18][19]。
衣装は和紙の型紙を記事に張って裁断し、それを縫い合わせる事で作成[18][19]。
首は伝統的には「桐塑頭」で、これは木彫りの首に木の粉としょうふ糊を混ぜて練った桐塑や貝殻の粉を膠で溶いた胡粉などを塗って整形したものである[20]。今日ではシリコンの型に石膏を流し込んで作った「石膏頭」も用いられる[20]。
雛段飾りは男雛と女雛の婚礼を模したもので[9][10][11]、衣装や調度品は公家風である[12][11]。雛段飾りでは緋毛氈を敷き[21]、その上に雛人形とともに、雛人形が使う道具類を模した飾り物(道具もしくは雛道具と呼ばれる[22])を飾る。
七段飾りが基本形で[11]、「きまりもの」十五人揃いでは上から順に内裏雛(男雛と女雛の2人)、官女(3人)、五人囃子(5人)、随身(2人)、仕丁もしくは衛士(3人)[12][23]を並べ、その下の6段目、7段目にそれぞれ嫁入道具揃(よめいりどうぐぞろい)、御輿入れ道具(おこしいれどうぐ)を置く[24]。
よりコンパクトな三段飾り、五段飾りもあり、三段飾りは内裏雛、官女、嫁入道具揃からなり[11]、五段飾りは内裏雛、官女、五人囃子、随身、御輿入れ道具からなる[11]。なお、段数が三、五、七といずれも奇数なのは祝い事には奇数がよいとされているためである[11]。
男雛と女雛を一段だけでかざるものは「親王飾り」と呼ばれる[25]。
以下、十五人揃い・七段飾りの場合に対して雛段飾りを説明する。
男雛(おびな)と女雛(めびな)の一対からなり、それぞれ天皇と皇后を模したものとされる[12][26]。男雛、女雛は「殿」、「姫」とも呼ばれる[24]。また童謡『うれしいひなまつり』では男雛、女雛をそれぞれ「お内裏様」、「お雛様」と呼ぶがこの呼称に関しては議論がある(詳細後述)。
なお、親王飾りの場合は男雛、女雛を中心に、「屏風」「雪洞」「三宝菱台」「桜橘」を飾る[25]。
宮中に仕える女官をあらわす[32]。江戸後期に出現[32]。通常は最少人数の3人で「三人官女」と呼ばれるが、5人、7人、9人の事もある[32]。
能の囃子方の四拍子(しびょうし)に地謡1人を加えた計5人からなる[11][12]。官女、随身が京都形式なのに対し[12]、五人囃子は天明の頃江戸で加えられたものである[12][36][37]。公家を意識した雛段飾りの中で、五人囃子は武家の式楽たる能を模している。
なお、関西では能の5人ではなく雅楽の楽士を並べる場合もあり[11]、5人ないし7人からなる[42]。「五楽人」の場合は向かって右から、羯鼓(かっこ・楽太鼓)、笙(しょう)、火焔太鼓(かえんだいこ)、篳篥(ひちりき・縦笛)、横笛(竜笛)の順に、「七楽人」の場合は絃楽器の2人が加わり、向かって右から、羯鼓、琵琶、笙、火焔太鼓、篳篥、横笛、和琴または箏の順に並べる[注 1][42]。
貴人の警衛を行う「随身」を表す。ただし雛人形の衣装は実際の随身よりも高い身分が着るものであり[43]、正しくは左近衛中将(さこんのちゅうじょう)、右近衛少将(うこんのしょうしょう)に相当するのではないかとされる[44][43]。
また童謡『うれしいひなまつり』では「右大臣」とされるが[43]、身分の高い大臣であれば三人官女より上にあるはずなので正しくは「随身」である[45]。「この誤解は現在も継承」[45]されており、雛壇飾りでは随身を矢大臣(やだいじん)[11]、もしくは左大臣・右大臣と俗称で呼ぶ為[11]、本項でもこれに習う。
仕丁とは令制で「公民の成年男子に課せられた力役」[49]。衛士とは令制で「衛門府、左右衛士府に配属された兵士」[50]。雛人形の場合は宮中の雑務をこなす男性[51]。
雛人形は通常3体で、その表情からそれぞれ「怒り上戸」、「泣き上戸」、「笑い上戸」の「三人上戸」とも呼ばれる[51][11]。
六段目には「おおよそ上級武家の婚礼道具になぞらえた」[11]、「大名格の武家で使われていた室内用品」[11]を置き、これらは「嫁入道具揃」[24][53]と呼ばれる。
具体的にはに箪笥(たんす)、長持(ながもち)、鏡台、針箱、表刺袋(うわざしぶくろ)、火鉢(ひばち)、茶道具を置く[24][53]。表刺袋がなく、代わりに挟箱(はさみばこ)を置くものもある[11]。
七段目は「御輿入れ道具」[54]と呼ばれ、「大名の姫君の御輿入れ」[54]を置く。
具体的には中央に重箱を置き、左右に御駕篭(おかご)と牛車(ぎっしゃ、御所車(ごしょぐるま)とも)を置き[11][24][54]、御駕籠のそばには立傘を2本立てる[54]。
御駕篭と牛車の左右は厳密な決まりはないが、通常は向かって左に御駕篭を置く[11]。
童謡『うれしいひなまつり』では男雛と女雛を「お内裏様とお雛様」と呼ぶが、この呼称に関しては議論がある。
吉徳の資料室長で日本人形玩具学会の代表委員である小林すみ江、大妻女子大学准教授で人形文化研究者の是沢博昭、および同志社女子大学の日本語日本文学科教授吉海直人によれば、男雛と女雛を「お内裏様とお雛様」と呼ぶのは童謡『うれしいひなまつり』から広まった誤用である[48][55][45]。
小林と是沢によれば男雛と女雛一対で内裏雛(だいりびな)というのが正しく[48][55]、「内裏雛」という表現は江戸前期からあったとする[55][注 2]。また吉海は「お内裏様」は男雛のことではなく、天皇と后(を表す男雛と女雛)の一対を指すとしている[45]。
一方、武蔵大学人文学部教授で歴史学者の桃崎有一郎は、「女雛も合わせて「お内裏様」だ、という説が巷に溢れているようだが、それが誤りなのは明らか」としている[57]。その根拠は日本文化では「建物の主を建物名で敬う慣習」[57]であり、「内裏」の主は天皇である事から、「「内裏」は、人としては天皇だけを指し、女雛(皇后)を含めて「お内裏様」と呼ぶことはあり得ない」[57]ことである。
また「お雛様」の呼称に関しても意見が分かれている。この呼称が女雛を指すわけではないという点では是沢と吉海は同意見であるが、是沢は「お雛様」は雛壇の人形全てを指すとしているのに対し[55]、吉海は「男雛女雛一対の人形のこと」としている[45]。
サトウハチローの次男でサトウハチロー記念館の館長の佐藤四郎によれば、『うれしいひなまりつ』を作詞したハチロー自身はこれらを誤りだと認識しており、それゆえ「自分の作品の中で一番嫌っ」[48]ており「できることなら、この歌を捨ててしまいたい」[48]と考えていたという[58]。
関東地方に集中しており、生産地としては埼玉県玉県鴻巣市の伝統工芸品である鴻巣雛が有名。また栃木県佐野市も小規模ながら生産店が存在する。
販売に関しては全国の商業施設で販売されて橋など)が有名で、「人形の久月」「秀月」「吉徳大光(「顔が命の〜」のCMキャッチコピー)」といった専門店がある。これらの店舗は毎年正月から2月ぐらいにかけテレビCMを流す。ちなみに雛人形と共に手掛ける五月人形も3月3日以降にCMが流れる。
雛祭りに雛人形を川や海に流す行事[59]。雛人形の起源の一つとして、日本に伝わって草や藁など作った人形(ひとがた)に穢れや災いを移して川や海に流す風習があり[2][12]、これが現在に残ったもの[59]。
地域によっては雛祭りの近辺に「子供たちが野外に出て終日遊び共同飲食する風習」[1][60]がある。長野県南部や千葉県の一部地域では、「雛人形を野外に据えて遊ばせ、その別離を惜しむ風習」[1]もある。
「吊るし飾り」とも。布に綿を詰めた人形や飾りを吊るして飾るもの。全国でも珍しく[61]、福岡県柳川市のさげもん、静岡県東伊豆町稲取地区の雛のつるし飾り、山形県酒田市の傘福が「日本三大つるし飾り」と称される[62]。
「衣食住に困らないように」との願いを込めて飾られ[63]、市販の「つるし飾り台」に飾ることが一般的で[64]、雛人形とともに飾ることが多い[64]。
いずれの地域でもその起源は江戸時代末期だと考えられており[61]、当時庶民には通常の雛人形は高価であったことから、自作した人形を吊るし雛にしたものと思われる[63]。
江戸では上述したような「段飾り」が発展したのに対し、上方では御殿飾りという飾り方が発展した[65]。これは建物の中に内裏雛を置き、官女、仕丁、随身などがそれぞれの役目を果たしている様子を添え飾るもので[65]、御殿を紫宸殿に見立てて桜と橘も飾る[65]。
「大正末から昭和時代初期にかけて、御殿飾りは京阪地域の都市部を中心に」[65]広がり、戦中戦後の混乱で一旦衰退したものの[65]、「関⻄から西日本一帯にかけてきらびやかな御殿飾りが流⾏」[65]する。しかし「昭和30年代中頃には百貨店や人形店などが頒布する一式揃えの段飾り雛に押されて姿を消し」た[65]。
志太榛原地方では、男児に天神人形(菅原道真の人形)を贈る習慣がある[66]。天神人形を飾ったものを天神飾りという[66]。
共白髪となった男雛と女雛を百歳雛(ももとせびな)といい[67]、「江戸時代から健康と長寿を祝う人形とされて」[67]きた。今日では還暦や米寿のお祝いとして用いられる[67]。
また重陽の節句の際に雛人形を虫干しを兼ねて再び飾り、不老長寿や厄除けを願う風習を「後の雛(のちのひな)」といい[67]、江戸時代に庶民の間に広がった[67]。
人形メーカーが以下を追加した雛段飾りがある:
兵庫県たつの市御津町室津地区と香川県三豊市仁尾町では3月3日ではなく八朔(旧暦8月1日)に雛祭りが行われる[73]。
室津地区のものは「八朔のひな祭り」と呼ばれ[73][74]、 永禄9年(1566年)に室山城主浦上政宗の次男清宗と志織姫との祝言の際に敵の急襲を受けて政宗と清宗が討ち死にした(姫の生死は不明[73])事から3月3日の雛祭りを八朔まで延ばしたとされる[73][74]。戦後途絶えていたが、2002年に復活し、毎年催し物が開かれている[73][74]。
仁尾町のものは「仁尾八朔人形まつり」と呼ばれ[73][75]、1579年の3月3日に「仁尾城の城主だった細川頼弘が、長宗我部元親の侵攻を受けて落城」[75]した事から3月3日を避けて八朔に雛祭りを祝うようになった[73][75]。一時は廃れたが、1998年に復活し[73]、毎年旧暦8月1日に実施されている[76]
各地で、大量に雛人形飾りを公開したり、特色ある飾りを飾ったり、少年少女、又は成人の男女が雛人形に扮したりする祭り等が、この期間中に開催される。
雛人形の起源には以下のものがある:
室町時代に現在の雛人形の原形ともいえる「立雛」が登場[78]。現在のものと同様、雛が座っている「室町雛」も室町時代に登場[79]。
雛人形主体の節句の歴史は「案外に新しく」[1]、江戸時代初頭に記録に現れ始め、寛文移行に雛祭りが定着[1][注 3]。一般化したのは明治以降である[1]。江戸中期ころまでは雛祭りは「雛遊び」と呼ばれていた[12]。「雛人形」という名称も江戸時代に生まれた[12]。
雛壇は江戸初期には平壇だったが[12]、宝暦・明和年間に2、3段[1]、安永年間に4、5段[1]、幕末に7、8段となり[1][2]、十五人揃いの雛飾りも江戸末期に定着[1]。
雛人形は江戸時代初期には「ひいな」の名残を残す立った形の「立雛」だったが[1]、寛永時代の「寛永雛」の頃からは紙雛の面影を残しつつも立体化[81]。享保時代には寛永雛をさらに高級化した「享保雛」が登場[81]。「高さ約45センチから、時には60センチ以上」[81]もある大きなもので衣装は中国の影響が見られる[78][81]。寛永雛は華美であるとして幕府に規制される[81]。
江戸幕府はこれ以降も華美な雛人形に対ししばしば製作の禁令を出した[12][注 4]。寛政の改革で規制されたときには[79][28]、規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた数cmほどの雛人形が流行したが[12][79][28]、これも規制される[28]。
京都生まれの岡田次郎左衛門が宝暦2年に江戸へ下り、典雅な「次郎左衛門雛」が普及した[12][79]。「写実的な傾向をたどってきた内裏雛に、復古的な典雅さをもちこんだ次郎左衛門雛の清新さが、江戸の人気を独占し、宝暦から明和、安永、天明、寛政年間まで、約30年の間にすっかり代表的な江戸雛の位置を確保した」[79]。
江戸後期[78]には「公家などで、有職の間違いを訂正し、宮中の雅びな装束を正確に再現」した「有職雛」が登場[78]。
次郎左衛門雛とともに人気があった[12]のは古今雛で、文化の中心が京都から江戸に移ったのちに[83]江戸で成立した[84]。古今雛は有職雛と違い「有職にとらわれない華やかな装束」[83]をまとった「写実性の高い身体表現」[84]が特徴である。「現在の雛人形はこの古今雛にかたどってつくられている」[85] [86] [87]。
現代では住宅事情や収納などを考えて三段飾りが主流になっている[2]。
2021年に経済産業省が発表した「2020年工業統計調査」によれば、2019年度において国内全体の「節句人形、ひな人形」は83か所の事業所で製造されており、全体の出荷額は約88億9400万円である[88]。このうち、出荷額が公表されている府県は埼玉県、静岡県、愛知県、京都府であり、このうち最も出荷額が多い府県は埼玉県で、約43億8900万円である[88]。これは、2番目に出荷額の多い愛知県の出荷額(約5億9500万円)の約7.4倍にあたる[88]。埼玉県内の主な産地は、さいたま市岩槻区と鴻巣市である[89][90]。
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