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大川線(おおかわせん)は、かつて福岡県三潴郡筑邦町(営業当時は大善寺町、現在の久留米市の一部)の大善寺駅から福岡県大川市(営業当時は大川町)の西鉄大川駅までの間を結んでいた西日本鉄道(西鉄)の鉄道路線である。大川線のほか、もともと大川線と同一路線であったのが分断されたことにより派生した上久留米線(かみくるめせん)についても本記事で扱う。
(すべて当該区間の休止直前のもの)
大川軽便鉄道の手により、久留米市と城島町(現在の久留米市の一部)、大川市を結ぶ軽便鉄道として建設された。1912年(大正元年)12月30日に縄手(後の上久留米)-若津間が開通し[2]、翌年1月大川鉄道と改称。1919年(大正8年)には経営不振の三潴軌道から下若津 - 柳河間を譲受され[3]、1920年(大正9年)には若津 - 榎津(後の西鉄大川)間が開通した。
三瀦中学校(現・福岡県立三潴高等学校)に通学する生徒をはじめとする旅客のほか、城島町で生産される酒や瓦、大川市で生産される家具や畳表などの貨物輸送が目的であった。久留米市内の起点は国鉄久留米駅に近い場所にある上久留米駅であった。
1923年(大正12年)には安武村から荒木村までの1.8kmの鉄道敷設[4]、1927年(昭和2年)12月15日 三潴村から柳河村までの12.3kmの鉄道敷設[5]を企図し、免許を交付されたが、延伸は進まず最終的に頓挫した。
その頃、福岡から久留米まで開通していた九州鉄道では、さらに大牟田・熊本への延伸を計画していたが、出願は却下されてしまった。そこで大川-大牟田間の免許を取得していた大川鉄道を支配下におさめる方針に決定し、1927年(昭和2年)には必要な株式を取得、大川鉄道は九州鉄道の傘下となった[注 1]。しかし、九州鉄道は1932年(昭和7年)12月28日久留米-津福間を開通させたものの、経営不振にくわえて1933年(昭和8年)に役員が商法違反と背任の疑いで逮捕されるという「九鉄事件」の影響で大牟田延伸はしばらく凍結、下若津-柳河間の軌道線は廃止されてしまう[9]。ようやく1936年(昭和11年)3月の株主総会において、経営立て直しのためには大牟田延伸が不可欠という意見により大牟田延伸と大川鉄道買収が決議され、1937年(昭和12年)6月に大川鉄道は買収された。なお、大川鉄道は1925年より乗合自動車業を始めており、合併時点で43.8kmの路線を運行していたが、これらも九州鉄道に移管された[10][11]。1937年10月1日、大善寺-柳河間が開通し併せて旧大川鉄道の津福-大善寺間の軌間も1,435mmへ改軌され電車が走るようになり、福岡-柳河間が直通するようになった。これにあわせ九州鉄道20形電車が投入された。 残された上久留米 - 津福間と大善寺 - 榎津(のち西鉄大川に改称)間は前者が上久留米線、後者が榎津線(1949年より大川線)となった。
西日本鉄道の路線となった後、大川線は沿線に日華ゴムや日本ゴム、日清製粉などの大工場があり工員輸送の必要があった。しかし上久留米線は戦時中からバス転換を検討していた程の輸送量で、1948年(昭和23年)に休止、1951年(昭和26年)に廃止された。
大川線も1950年(昭和25年)時点で年間2,000万円の赤字を出しており、建設省が進めていた筑後川の河川改修工事において線路が障害になるため1951年に撤去されることになったが、地元の猛反対に遭い、廃止ではなく将来の復活を前提とした休止扱いとした。しかし実際には復活することなく1966年(昭和41年)に正式に廃止された。
廃線後も津福駅と安武駅、大善寺駅が西鉄天神大牟田線の駅として存続するほか、御塚(15・48番系統)と塚崎-西鉄大川(15番系統)は西鉄バスのバス停として残る[12]。
(すべて当該区間の休止直前のもの)
(名称は休止直前のもの)
年度 | 輸送人員(人) | 貨物量(トン) | 営業収入(円) | 営業費(円) | 営業益金(円) | その他益金(円) | その他損金(円) | 支払利子(円) |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1912 | 29,171 | 24 | 4,548 | 3,936 | 612 | 設立費償却金3,438 | 350 | |
1913 | 308,626 | 4,429 | 40,800 | 26,159 | 14,641 | 10,989 | ||
1914 | 364,391 | 7,820 | 50,071 | 30,017 | 20,054 | 17,887 | ||
1915 | 296,978 | 11,448 | 43,141 | 25,306 | 17,835 | 雑損452 | 32,513 | |
1916 | 301,709 | 17,015 | 60,642 | 26,043 | 34,599 | 18,220 | ||
1917 | 344,744 | 17,619 | 55,605 | 35,280 | 20,325 | 14,620 | ||
1918 | 416,879 | 26,291 | 71,926 | 50,696 | 21,230 | 13,192 | ||
1919 | 482,233 | 23,857 | 106,235 | 86,240 | 19,995 | 軌道部益金254 | 11,963 | |
1920 | 456,662 | 22,019 | 140,031 | 113,709 | 26,322 | 軌道部益金1,284 | 償却金1,570 | 12,509 |
1921 | 480,215 | 22,216 | 154,093 | 111,138 | 42,955 | |||
1922 | 506,203 | 25,100 | 159,771 | 112,971 | 46,800 | |||
1923 | 498,585 | 24,099 | 155,960 | 104,240 | 51,720 | 軌道部17,330 | 軌道部18,278 | 31,544 |
1924 | 450,593 | 25,337 | 137,592 | 108,019 | 29,573 | 軌道部61 | 28,515 | |
1925 | 391,901 | 23,372 | 119,640 | 96,957 | 22,683 | 軌道及自動車業694償却金523 | 17,468 | |
1926 | 391,114 | 23,856 | 114,624 | 97,630 | 16,994 | 軌道業及自動車業1,876 | 償却金1,200 | 22,902 |
1927 | 361,734 | 21,234 | 111,225 | 78,784 | 32,441 | 軌道自動車439 | 雑損1,962 | 28,871 |
1928 | 368,635 | 17,540 | 105,066 | 74,553 | 30,513 | 軌道自動車1,757 | 雑損1,056 | 32,005 |
1929 | 315,616 | 11,989 | 119,660 | 108,462 | 11,198 | 雑損4,528 | 22,506 | |
1930 | 262,646 | 12,370 | 73,027 | 73,874 | ▲ 847 | 軌道自動車11,147 | 20,163 | |
1931 | 258,229 | 11,987 | 71,332 | 84,843 | ▲ 13,511 | 軌道自動車16,920 | 14,576 | |
1932 | 242,056 | 8,916 | 60,153 | 60,996 | ▲ 843 | 軌道自動車12,536 | 償却金974 | 12,622 |
1933 | 502,032 | 8,047 | 99,753 | 59,702 | 40,051 | 自動車業1,074 | 雑損124,513 | 31,412 |
1934 | 601,233 | 9,234 | 110,608 | 71,793 | 38,815 | 自動車業25,864 | 41,885 | |
1935 | 669,001 | 6,891 | 108,650 | 70,789 | 37,861 | 自動車業17,239償却金7,454 | 29,509 | |
1936 | 582,862 | 3,866 | 85,935 | 62,553 | 23,382 | 自動車業3,288償却金1,000 | 19,430 | |
1937 | 390,500 | 2,685 | 54,051 | 32,259 | 21,792 | 自動車業3,956 | 32,061 | |
営業開始当初から蒸気機関車、客車(木造2軸)、貨車を保有したほか、昭和初期には気動車(ガソリンカー)も保有していた。しかし気動車は燃料統制の影響により廃車または転出し、休止の時点では蒸気機関車が木造2軸客車を牽引する運行形態に戻っていた。エアブレーキはなく手動ブレーキのみであった。
久留米市三潴町の三潴小学校前にある大川線廃線跡を利用した遊歩道上に、4号蒸気機関車が保存されている。番号は「5」になっている。廃線後、北九州市の到津遊園(現・到津の森公園)で屋外展示されていたが、1995年(平成7年)に三潴町へ寄贈された。2014年(平成26年)に久留米市の有形文化財(美術工芸品)に指定された[33]。
下久留米駅の跡地にはJAの施設が建っているほか、路線の跡が鳥飼小学校から鳥飼小学校・コミュニティーセンター前交差点の道路となっている。
旧三潴町内の早津崎駅跡付近にある早津崎交差点から旧城島町中心部の城島新町駅跡付近までの区間は遊歩道として整備されており、「ポッポ汽車のプロムナード」という愛称で敷石が線路のような模様に敷かれている。城島新町駅跡から西側の路線跡は、ほとんど道路の一部となっているが、福岡県道47号久留米城島大川線の新橋水門(大川市向島)付近に当時の橋脚が4本残っている。
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