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平安時代初期から前期の貴族。藤原冬嗣の七男。従四位下・中宮大夫 ウィキペディアから
藤原 良仁(ふじわら の よしひと)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の七男。官位は従四位下・中宮大夫。
仁明朝の承和10年(843年)請われて春宮蔵人となり、のち主蔵正・春宮大進と皇太子・道康親王に仕えて、承和13年(846年)に従五位下に叙爵する。嘉祥2年(849年)従五位上・春宮亮に昇進する。
嘉祥3年(850年)春宮大進・亮として仕えた道康親王の即位(文徳天皇)に伴い、二階昇進して正五位上・中宮亮兼右兵衛権佐に叙任される。天皇の側近として蔵人頭・右近衛中将を務めた他、右馬頭・木工頭・大舎人頭・左京大夫等を歴任し、またこの間の仁寿4年(854年)には従四位下に叙されている。しかし、次期皇位継承に関連して天皇と兄で太政大臣・良房との対立が緊迫化した天安元年(857年)9月に越前権守に左遷される。翌天安2年(858年)2月兵部大輔として京官に復すが、同年8月の文徳天皇崩御に際しては葬儀や陵墓造営の官職には任ぜられなかった。11月に清和天皇が即位すると、国母として皇太夫人となった藤原明子(良房の娘)に中宮大夫として仕えている。
容姿が美しく、風神のように颯爽としており、服装も美しく非常に鮮やかな装いをしていた。人柄は淡雅かつ高潔で、仏教への信仰心も厚かった。若くして大学寮に学び、読書に耽った。馬が唯一の趣味で、公事を終えて退朝の後は馬を愛玩していたという。また、孝心厚く、母の死の際には哀啼哭泣し血を吐いて気絶し、しばらくして蘇ったが、悲慟があまりに強くて病んでしまい、服喪中に没したという。[1]
注記のないものは『六国史』に基づく。
『尊卑分脈』による。
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